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小説「泡沫のエレジー」ー7

 茹だるような暑さに耐えながら、アスファルトの上を歩く。シャツは汗でぐっしょりと濡れていて、背中に張り付くその感触がたまらなく不快だった。冷房で風邪をひかないようにしなければ、と思いながら校門を通り過ぎる。
「先輩、そんなこと言われてたんですか!?」
「そんなん、立派な宣戦布告やないか!!」
 花火大会後の、良介のいない練習日。俺は、音楽室Cで彼らと向かい合い、リリアナに言われたことを話した。
「だから早く帰っちゃったんですね、気づけなくてごめんなさい!」
「いや、いいよ、謝らないで。こっちこそごめん、心配させちゃって。楽しめなかったよね」
「おれらのことはええねん、大事なんはこれから先輩がどうするかやで!」
「先輩、その勝負、引き受けるんですか?」
 視線を落とす俺の顔を、吉川が不安げに覗き込む。
「でも、ぶっちゃけ不利ちゃうか? だって、うちとバレエ部じゃ発表の規模の差があり過ぎるやろ!」
「そうですよね。しかも、友達から聞いたんですけど、バレエ部の演目はくるみ割り人形の花のワルツみたいですよ」
吉川によると、「くるみ割り人形」はロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーにより生み出された三大バレエの一つで、「花のワルツ」はバレエに疎い人にもよく知られている有名な曲らしい。そして、本来は花の精による群舞であるところを、リリアナ一人をメインにした特別な振り付けにしているそうだ。
「つまり、わざわざエトワールを主役に見立てた演出にするってわけやな!? やりたい放題やなリリアナはん!」
「仕方ないですよ、将来有望な方ですもん」
「そもそも、バレエ部っていつも順位どのくらいなん?」
「それはわからないですけど……」
 学校のサイトを見れば過去の記録が残っているかもしれません、と吉川が言ったので、三人揃ってコンピューター室へ移動した。確認すると、去年も一昨年も入賞はしておらず、歴代の最高順位は七位だった。
「何や、思ったより大したことないやん!」
「舞台芸術部門だけでも、バレエ部と我々を入れて十団体ありますからね。演劇部やダンス部と比べたら、バレエにはあまり馴染みのないお客さんが多いからではないでしょうか?」
「それなら、あたしたちにもチャンスはあるってことかな」
「ありまくりやで! 何を弱腰になっとるんや!!」
「こうなったら、私たちも本気になって作戦会議をしましょう!!」
 再び音楽室Cへ戻ると、如何にしてバレエ部に勝つかという議題で三十分ほど俺たちは話し合った。結果、人の集まりやすい場所でたくさん演奏し、できるだけ聴いてくれるお客さんを増やそうという見解で一致。弦楽四重奏は小回りが利くので移動しやすく、屋外の簡易ステージや中庭の噴水広場、学食など、発表の場にも恵まれている。一方、バレエ部にはホール以外の選択肢がない。その上、他団体との持ち時間争いは熾烈を極めるものになるだろう。
「もしかしたら、二日間のうち一日だけになるかもしれませんよ!」
「ほんなら、おれらはたくさんやればやるほど有利になるっちゅーことやな!?」
「そうですよ! 通りすがりの人たちが立ち止まってくれる可能性だって高いですし、出演者とお客さんの距離が近いのもポイントです!!」
「いける! こらいけるで!!」
「……先輩、どうされたんですか? 何だか浮かない顔ですよ」
 吉川に言われて、ようやく我に返る。二人が俺のために懸命になってくれているのに、俺はかつての失敗を恐れるあまり、神妙な顔をして黙ってしまっていた。
「あ……ごめん、あたしのために頑張ってくれてるのに」
「こ、こちらこそすみません、先輩を差し置いて張り切ってしまって……だって先輩は、勝ったら真田先輩に告白しなくてはいけないんですもんね。そりゃ、怖いですよね」
「せやけど、負けてもーたらリリアナはんに先を越されてまうっちゅーことやろ? それはあかんのちゃう?」
 その通りだ。過去のトラウマを自ら再現するなんて苦痛以外の何物でもないが、リリアナに良介を取られてしまうなんて、考えただけでも苦しくなる。
「うん……いやだ。あたし、リリアナに負けたくない。だから、二人に協力して欲しいの。自分勝手で、本当に申し訳ないけど」
 両膝の上の拳を震わせながら、頭を下げる。すると、少し間を置いてから、二人は俺の肩に手を乗せ、言った。
「何言ってるんですか! 私たちは今まで通り、全力で応援しますよ!! ね、渡邊くん!」
「せやで、大船に乗ったつもりでいてや!!」
 俺の顔を見ながら、二人が笑う。涙腺が緩み、瞳が潤む。涙が零れる前に、俺は両手で目元を覆った。
「ありがとう……本当にありがとう、二人とも」
「ええって、とにかくあとは練習あるのみや!!」
「そうですね、お陰様で闘志が湧いてきました! 作戦会議の報告も真田先輩にしておきましょう!!」
 俺たちは再び円陣を組み、力の限り叫んだ。
 文化祭まで、残りおよそ一か月半。

                   *

 夏休みが明け、前期末試験が終わっても、蝉は変わらず鳴き続ける。それでも暑さに負けず、全ての部活動が文化祭――第五十三回鳳凰祭に向けて着々と準備を進め、学校中が活気に満ち溢れていた。
 俺たちの練習も最終段階を迎えていた。パッヘルベルのカノンが、遂に良介を納得させるレベルにまで到達したのだ。初めは頻繁に他のパートにつられたり音を間違えたりしていた俺だったが、体が曲を覚えてくれるようになって、今や絶対に間違えないという自信すらある。
 そして、鳳凰祭前日。良介は、改まって俺たちに言った。
「皆、今日までよくやってくれた。吉川と渡邊は、管弦楽部の方もあるのに本当によく尽力してくれたと思う。そして、レオナ」
「はい!」
「今だから言うが、まさかここまで弾けるようになるとは思わなかった。正直、驚いている」
 照れ臭くなって、思わず口元が緩む。後輩たちも嬉しそうな表情をしていた。
「初めて人前で弾くのは緊張するだろう。だが、決して恐れるな。観客は、何も俺たちの粗探しをしに来ているわけじゃない。集まって聴いてくれているということは、むしろ俺たちを応援してくれているということだ。だから、当日は感謝を込めて演奏することを心掛けろ。全員、わかったな」
 はい、と今度は三人同時に返答した。

 その日は、珍しく良介と二人で帰ることができた。太陽はすっかり沈んでいて、西の空には一番星が輝いている。
 駅に着くと、良介はそのままピアノのレッスンへ直行すると言った。去ろうとする背中を引き留めたくて、俺は声を張り上げる。
「良介!」
「……何だ?」
「今日、十八歳になったんでしょ? 誕生日、おめでとう」
 きっと、下手くそなはにかみ笑いをしていたことだろう。それでもあいつはそれをからかったりせず、微かに笑みを浮かべて、そのまま駅前の人込みに紛れていった。
 男だった時は恥ずかしくて言えなかったことを、初めて伝えることができた。俺は感慨に耽りながら、夜風に吹かれて帰路を辿った。


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