小説「人魚を祀る者たち」ー2
蝉が鳴き始めた。太陽がアスファルトの地面を照らし、風は湿り気を帯びている。俺はようやく慣れない学ランから解放されて、白襟の半袖シャツ一枚で学校へ向かう。
季節が変われば、新しい環境にも順応するものだ。目的地への道のりも、途中で顔を合わせる島民も、どの家に誰が住んでいるのかも、家主がどんな仕事をしているのかも、どの畑で何が育てられているのかも、全てわかるようになった。
しかし、教室の扉は、いつまで経っても重いままだ。
「おはよ、癸くん」
「あ、うん……おはよう」
四人しかいないクラスメイト。その中で、声をかけてくれるのは大抵隣の席の女子だけだった。残りの男子二人も、相手にしてくれないわけではなかったが、どこか余所余所しく、なるべく関わらないようにしようと顔に書かれてあるようだ。先程の彼女にしても、親しいと表現できるような仲ではない。他学年と廊下ですれ違っても、反応に差はない。要するに、友達と言える存在が未だにできていないのだ。
他所者が簡単に受け入れられるとは思っていなかったが、ここまでとは――頬杖をつき、窓の外を眺めながら、無意味にシャーペンの芯を出し続ける。ぽろ、と力なく机の上に芯が落ちた時、ちょうど担任の教師が入ってきて、教壇に出席簿を置いた。
こんな状態だから、部活動という名の同好会にも所属していない。こんな田舎の離島に学習塾なんて気の利いたものがあるはずもなく、放課後の俺の居場所は伯父と伯母の住む家だけだった。
我ながら、情けないと思う。受験生とはいえ、遊ぶ相手も場所もろくにないなんて。東京にいた頃とは何もかもが違った。こんなはずじゃなかった、母さんが死んだりさえしなければ――。
「おう、凪月! 帰ったか」
そんな俺とは裏腹に、目を背けたくなるくらい眩しい笑顔を向けてくる伯父。毬栗頭に黒胡麻を塗したような髭、陽に焼けた肌、タンクトップから飛び出している逞しい両腕。仕上げとも言える肺癌催促棒を咥えると、絵に描いたような『海の男』の完成だ。モヤシだの何だのと、一体何度この人に罵られたことか。
「おいコラ、無視すんな! ただいまも言えねえのかよ」
「……ただいま」
「かーっ、またまた不貞腐れちまってよぉ! そんなにここの暮らしが気に食わねえのか、え?」
気に食わない、だから東京の高校を受けさせてくれ――なんて、口が裂けても言えない。
「あれ……?」
乱暴に扉を開けると、そこにはあるはずのない履物が置かれていた。学生用の茶色い革靴、俗に言うローファーというものだ。しかも女子用の。
「おかえり、凪月ちゃん。早かったわね」
同じくタンクトップに焦げ茶の肌、サーフパンツにビーチサンダルの良く似合う伯母が奥から顔を出す。
「皐(さ)月(つき)さん、これ……」
どうしたんですか、と尋ねようとした時、屋外のシャワーの音が鳴り止んだ。
「お待たせ、雄二朗さん」
「おう! 準備は万端かい、姫さんよ」
「勿論よ、早く行きましょう。私、待ちきれないの」
鼓膜が、弦楽器を思わせるような繊細な声に震える。その持ち主が誰なのか、わからないはずがなかった。
「紫月さん……!?」
長い髪を一つに束ねているが、間違いない。あの日以来一度も言葉を交わすことのなかった、一つ年上の高嶺の華。
「あら、凪月くん。帰ってたのね」
ふわ、と開く蕾のような微笑み。黒檀の瞳を、桜色の唇を見ただけで、心中の霧が晴れていくのがわかる。
「ど、どうしてうちに」
「バァカ、決まってんだろ。ダイビングだよ、ダ・イ・ビ・ン・グ!」
そうか、それもそうだ。むしろ他の可能性なんて皆無に等しい。現在の伯父の生業はダイビングインストラクターであり、しかも目の前にいる彼女はウェットスーツに身を包んでいる。傑作とも言える愚問っぷりに、顔が赤くなった。
「紫月さん……ダイビング、するんですね」
「ええ。意外?」
はい、と呟くように答える。見てはいけないものを見ているような罪悪感に、先程から視線は泳ぎっぱなしだ。そのことを察したらしく、伯父がしめたとばかりにからかってくる。
「なーんて顔してんだよ、凪月。鼻の下伸びてんぞ?」
「な、何訳わかんないこと言ってんですかっ」
その通りです、と言わんばかりに吠え立てる。体型がはっきりわかるウェットスーツ姿なんて目に毒だ、とっとと机に向かってしまおう。
「じゃ、じゃあ俺はこれで」
「ねえ、凪月くんは興味ないの?」
「えっ……」
ダイビングに、と続ける代わりに優しい眼差しで問いかける。
「そ、そりゃあ……ないわけではないです、けど」
「そう。だったら、三人で一緒にやってみない?」
ずっと気になっていた女性に誘われて、断れる男などいるだろうか。俺はその誘惑に負け、すぐさま準備に取りかかった。
「こ、こんなもんでいいんです……かね」
「ええ。似合ってるわ、凪月くん」
お世辞に決まってると頭ではわかっていても、心は素直に受け止めて馬鹿正直に飛び跳ねる。
生まれて初めて着たウェットスーツは当然店に常備されてあるレンタル用で、あまり新しい物とは思えなかった。それでも、彼女が口にしたその一言だけで、一張羅を褒められたような高揚した気分になる。
背中のジッパーは紫月さんに上げてもらった。そして彼女の指示に従って、シュノーケル付きのマスク、マリンシューズ、ウエイトベルト――鉛の重りを通すもの――を順に身につけていく。次にBCDというベスト状の機材に繋がれたタンクを背負おうとすると、その寸前でストップをかけられた。
「待って、その前に私のジッパーも上げてくれない?」
「え……っは、はい」
教えてもらっている立場で、ノーと言うわけにもいかない。仕方なく、遠慮がちにジッパーの先の帯を掴む。
失礼します、と心の中で詫びながらゆっくりと上げていった。腰の括れ、水着、うなじ、シャワーで濡れた毛先――どれをとっても、試されているとしか思えない。
「おっ、お熱いねぇ、お二人さん!」
ヒューヒューと口笛を鳴らし、わざとらしく揶揄う雄二朗さんを無視する俺。しかし、赤らんだ顔を元に戻すことができない。
「で、できました」
「ありがとう。じゃあタンク背負うの手伝ってあげるから、せーので持ち上げてね。いい?」
「はい、お願いします」
言われた通り、掛け声と同時にタンクを背中に乗せた。ずしり、と容赦なく重みがのしかかる。しかし、弱々しい姿を彼女の前で晒すわけにはいかなかった。
同じようにタンクを背負った雄二朗さんと彼女の後ろを追っていく。ショップの目と鼻の先に月(つき)海(うみ)浜というダイビングスポットがあり、海に突き出た岩から飛び込む仕様になっていた。
彼女の肩を借りて、フィンを足に装着する。同様に、彼女も俺の肩を掴んで取り付ける。
この距離、この状況、自然と多くなる会話。そんな兆候など全くなかったはずなのに、一体どうしたことだろう。この時、俺は初めて伯父に感謝した。
「――くん、凪月くん。聞いてる?」
「えっ、あ……すみません、もう一回いいですか」
「真面目に聞いてて、一つ間違えると命に関わることなんだから。まず、レギュレーターを咥えてきちんと息ができるか確認して」
はい、と差し出されたのはタンクの酸素を吸うための器具。これのことか、と納得してから口にはめて呼吸をした。
「大丈夫そうね。当たり前のことだけど、潜ってる間は外れないように気をつけて。あと、呼吸は決して止めないようにするのよ。それから……」
真剣な眼差しで俺を見ながら、わかりやすく説明してくれる紫月さん。その様子を、傍らで雄二朗さんが頷きながら見守っている。
「注意して欲しいのはそれくらいね。あとは空気が吸いにくくなったりフィンが緩んで外れそうになったり、とにかく何かあったらすぐわかるように伝えて。パニックに陥ったら、最悪の場合死亡事故になってしまうから」
「……わかりました」
死亡事故。その言葉を耳にした途端、ぞわりと背中に悪寒が走った。ダイビングと聞くとまず楽しいイメージが浮かぶが、ひとつ間違えると命に関わる死と隣り合わせのスポーツであることもまた事実なのだ。
ウェットスーツに着替える前、雄二朗さんから手渡されたメディカルチェックシートの内容を思い出した。風邪をひいていますか、心臓や肺の病気になったことはありますか、その病気になったことのある方が親戚にいますか、またはその器官の手術を受けたことがありますか、パニック障害と診断されたことはありますか、糖尿病の治療を受けていますか、現在妊娠されていますか――俺は全てノーと答えることができたが、どれか一つでも引っかかると許可が下りなくなる。ドクターストップが出されて、泣く泣く諦めた人も少なくないそうだ。
少々怖気づきながらも強く頷き、互いに器材の最終確認を行う。雄二朗さんと紫月さんが先にエントリーし、それから俺も紺碧の海に飛び込んだ。その衝撃で大量の飛沫と泡が発生し、視界が白く濁る。直後、体が海面にぷかりと浮かんだ。それは、BCDというベスト状の器材が、手動で空気の出し入れができるようになっているからだ。だからこそ、事前に膨らませておけば、飛び込んでもすぐに浮くことができて安心なのである。
続いて顔を下に向けて、二人のもとへ泳いでいく。波打つ水面、揺れる光、そして広がる海中世界。次に目についたのは、鮮やかな色をした無数の熱帯魚たちだった。
「すごい、すごいですね紫月さん! テレビで見た通り……いや、それ以上です! 海の中って別世界だ、綺麗過ぎて何て言ったらいいかわかりませんよ!」
シュノーケルを外し、波に揺られながら叫ぶ。すると、何故かくすりと笑われた。再び頬に熱が集まる。
「……すみません、子供っぽくて」
「ううん、違うの。だって、凪月くんの嬉しそうな顔、初めて見たから」
「え……」
「退屈なんでしょう、島も学校も。良かった、少しは貢献できたみたいで」
もしかして、心配されていたんだろうか。嬉しいような、恥ずかしいような、申し訳ないような――自分でもわからなくなって、誤魔化すようにレギュレーターを口にはめ込む。
「よし、じゃあ、早速潜るとするか! 準備はいいか、凪月?」
頷き、彼にその身を任せる。マスクとレギュレーターがきちんと装着されていることを確認してから、雄二朗さんは自分と俺のBCDの空気を抜いた。体が、心地よく海へ沈んでいく。続いて、紫月さんも潜っていく。
聞こえるのは、自分が息を吸い込む音と吐き出した泡の音。眼前には、無限に広がるお伽話の世界。動く宝石のような魚が、近づいては逃げ、逃げては近づいてくる。思い出すのは、亀の背に乗って竜宮城へ向かう浦島太郎の物語。
ああ、でも亀なんかじゃなくて、俺は今、紫月さんと一緒に、同じ時間を、同じ光景を共有しているんだ。例えるなら彼女は乙姫か、それとも――。
人魚?
(……!)
まただ、また聞こえた。テレパシーのような、脳に直接響くこの声。前に耳にしたのは、確か、体育館で自己紹介を終えた後。
紫月さん、貴女なんですか――問いかけるように心で話してみても、応えはない。ただ、問題がないか確認するためのハンドサインを出すだけ。虚しさを覚えつつも、真似をするように同じサインを返す。
幸福な時間は、あっという間に終わりを迎えた。伯父に連れられ、教わった通りに息を吐き出しながら海面へ上昇していく。
「お疲れ様、凪月くん。具合はどう、気持ち悪くなってない?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。凪月くん、上手だったわ。ダイビング、向いてるんじゃないかしら」
「……あの、紫月さん」
「なに?」
「俺、取りたいです、ライセンス。だから……」
また一緒に潜ってくれませんか、と言いたかったのに、なぜか羞恥で上手く言えなくなる。けれど、彼女はその先がわかったようで、いいわよと微笑みながら返してくれた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?