見出し画像

憧れだった留学の中止、原因不明の病気の発症、それでも前に進み続けた。度重なる逆境を乗り越え、自分と向き合って見えたものとは。~筒井豪さんインタビュー~

筒井豪さん
千葉県出身。大学時代に1年間休学し、長期インターンシップやTOKYOオリンピック2020のITエンジニアとしても活動。休学期間中に発症した原因不明の病・PFAPA症候群での周期的な発熱や体調不良に苦しむも、持ち前のストイックさで乗り越える。現在はSNSマーケティングのインフルエンサー事業を担当。趣味はサーフィンで、父親の影響で10歳の頃から続けている。

得意な英語を生かして世界で勝負したい。試験勉強とプレゼンコンテストに打ち込んだ専門学校時代

ーー今日はこれまでの人生を振り返りたいということでお話を聞かせていただけるんですよね。

僕は自分でもけっこう面白い人生を歩んできたなと思っていまして。日本では高校から大学に進学して卒業後は就職して、というルートが一般的だと思いますが、それとは少し違う流れで人生を送ってきているので、今日はこれまでの人生を振り返れたらと思います。

ーーよろしくお願いします!簡単にこれまでの経緯を教えてください。

高校を卒業後、早稲田大学を目指していたのですが落ちてしまい、一年浪人しました。それでも受からず、英語が得意だったことと同じ高校の先輩が進学したこともあり神田外語学院グローバルコミュニケーション科という語学系の専門学校に入学。専門学校を卒業後に埼玉大学に3年次編入しました。

小さい頃から英語が好きだったので、大学編入後は留学したいと考えていました。留学先でマイノリティとなっても、今の自分が人間力を含めてどこまで勝負できるか、何が通用して何が足りないのかを感じたかったんです。大学の提携先の中でトップクラスだった”タイの東大”といわれるチュラロンコン大学へ留学するチャンスを手にしたものの、新型コロナの影響で留学が中止に。そこで、自分は本当はどうしたかったんだろう?と自分を見つめ直すため、”プランB”として1年間の休学を決めました。

ーー浪人や念願だった留学の中止、休学、そして病気の発症と、高校から大学を卒業するまで色んな経験をされたのですね。
それぞれ聞いていきたいと思いますが、まず留学について。もともと英語や海外に興味を持たれたきっかけは何かありますか?

きっかけとしては小学2年生の時に家族でハワイ旅行に行った時のことです。お店で買い物をして”thank you”って店員さんに言ったらそれを店員さんに褒めてもらえて。純粋に嬉しかったし、「英語を話せると海外の人と繋がれるんだ」っていう喜びを強く感じて、そこから英語が好きになりました。趣味に近い感覚で勉強できて、高校では英語の弁論大会に出場したこともあります。

高校卒業後に入った専門学校は必要な単位数やTOEICのスコアなど卒業要件が厳しく、毎日プレッシャーとの戦いでした。それでも朝8時から夕方5時まで授業を受けて、放課後も学校に残って3~4時間ほど勉強しました。かなりハードでしたが、自分の中で大きく成長できた2年間だと思います。出場した全国英語プレゼンコンテストでは700人中TOP30に入賞することができました。中学校では生徒会長もやっていたりと、昔から人前で話したり想いを伝えたりするのが好きで、中学時代には友達から「熱弁野郎」というあだ名をつけられたこともありました(笑)。


中止になったタイへの留学。自分を見つめ直すため、休学を選択

ーー専門学校の卒業後は大学に編入されたんですよね。

はい。2019年の4月に3年生として埼玉大学経済学部に編入して、2020年の7月から1年間の留学予定でした。しかしながら、パンデミックの影響で留学が中止になり、2020年の9月から1年間を休学することに決めました。

ーー休学は大きな決断だと思うのですが、迷いはなかったですか?

迷いはなかったです。留学もせずに卒業してしまうのが嫌だったので自分を見つめ直すことも含めて、大学生としての時間を止めようと思いました。
休学中はまず長期のインターンシップに参加することに。アナグラム株式会社というインターネット広告運用の会社でインターンシップをスタートしました。パソコン1台あれば働ける働き方が魅力的だったのと、広告って今まで自分がやってきた”想いを文字にして人に伝える”ことに通じるんじゃないかと思ったんです。

その会社の新卒採用がインターン経由だったので、そのまま新卒として内定をもらえればと考えて当初は1年間インターンをする予定でしたが、実際に参加できたのは2ヶ月ほどでした。理由は周期的に高熱が出るPFAPA症候群という病気を発症し、業務を続けるのが難しくなってしまったからです。

繰り返す高熱に苦しむも、意欲的に活動した休学期間

ーーその頃の状況について詳しく教えてください。

2020年1月に初めて症状が出て、それ以降は2~3ヶ月、短いときは1ヶ月に1回くらいの周期で1週間の高熱、頭痛、倦怠感、咽頭痛などの症状を発症していました。

PFAPA症候群は5歳以下の子供に多く、大人の発症例はまだほとんど報告されていないんです。病気自体の認知度も低く、ちょうどパンデミックと被ってしまって、当時は熱が出ただけでも周りにかなり心配をかけてしまう状況でした。その度に、もどかしさや息苦しさも感じていました。始めのうちは熱が出る原因もわからなくて、色々な病院に数ヶ月通い、最終的に大学病院でやっとPFAPA症候群であることが判明しました。

仕事の面ではスキルがまだまだ足りなかったり、仕事のスピード感が思っていたよりも早かったり。それに加えて同年代や年下の人たちと比較して自分で自分を追い込んでしまう部分があって、きつかったですね。もう少し頑張れたかなとは思いますが、体調のこともあってインターンはそこで断念することにしました。

ーー体調も万全でなく、仕事もハードだと追い込まれてしまいますよね。インターンが終わってからはどのように過ごしていたんですか?

ADDressというサービスを使って3ヶ月ほど、千葉の海沿いや鎌倉に住み、サーフィンをしながら暮らしていました。

ーー素敵ですね!お父さんの影響で10歳の頃からサーフィンを始めたということですが、豪さんにとってサーフィンの魅力はどんなところでしょうか。

やっぱり、陸上では体験できない感覚ですかね。水に乗って、波の力だけでボードが前に自然と推し進められる。自分はボードの上に立っているだけなのに周りの景色だけが進んでいく感覚。虜になるとはまさにこういうことだと感じ、気づいたらどハマリしていました。今でも初めて波に乗ったときのことを思い出しますね。子供の頃は毎週父親を朝5時くらいに起こして海に連れて行ってもらっていました。

ーーそれ以降のことについて教えてください。

4月からはTOKYOオリンピック2020の選手村でITエンジニアとして働いていました。海外からも多くの人が来るので英語が使えるし、色々な人と関わることで留学に置き換わる体験になり得るのではと考え、参加を決めました。

大会前の期間は選手村で使うPCとプリンター設置をして、PC2000台、プリンター1000台くらいの設置をしました。ITエンジニアという募集枠だったものの大量の機器の搬入に設置に、、、と実質は肉体労働でしたね(笑)。大会期間中はトラブル対応や選手が機器を使う時のサポートを担当しました。

ーー留学代わりの体験になるのではということでしたが、TOKYOオリンピック2020の一員として働いてみてどうでしたか?

楽しかったですし、本当にやってよかったと思います。選手村ではピンバッジトレードといって、自分の国のバッジをお互い交換する文化がありました。そこで外国の人たちと交流できましたし、大会期間中には、なんとサーフィン会場に派遣してもらうことになったんですよ。サーフィン会場はメディアが入れないので、会場にいるのは選手とコーチ、スタッフのみ。すごい選手を間近で見て、空気を肌で感じて。とても貴重な経験をさせてもらいました。

休学中は、熱が出てしまって制限があったこともありましたが、その中でも色々挑戦できて満足しています。

逃げずに病気と向き合って生まれたのは、周囲への感謝と思いやりの気持ちだった

ーー病気のことを感じさせないほど、色々なことに挑戦して充実した休学期間だったことが伝わってきます。それから大学に戻られたんですね。

復学して、卒論に取り組みました。これはもう、自分の病気のことが研究テーマになるぞと思って、PFAPA症候群のことをテーマにしました。それで無事卒業は決まったのですが、就職活動をしていなかったので卒業時点では就職先が決まっていなかったんです。そんな中Facebookに病気のことを発信したら、友達が今の会社の社長を紹介してくれて、そこで働くことに決まりました。

ーー卒論のテーマにもなった病気について聞いていきたいのですが、原因不明の発熱が定期的に起こることは精神的にもかなりきつかったのでは、と思います。そのことでメンタルが落ち込んだりはしなかったですか?

こればかりはしょうがないなと。熱が出ても「乗り越えよう、わからないなりに自分で何とかしよう」と方向性を見つけていきました。落ち込むことはなかったですが、パンデミックの時期と重なっていたので周りに説明するのが本当に大変でしたね。それでも周りの人も寄り添ってくれたので助けられた部分も大きかったです。
医者でもわからないことはあるし、自分のことは自分で一番責任を持たなきゃっていう風に切り替えられて、持ち前のストイックさが最終的にはプラスに働きました。

ーー気持ちを前向きに切り替えられたということですが、病気を発症する前と考え方が変わったと感じることはありますか?

家族や友人など、人の優しさを感じられるようになったと思います。
特に小学校からの親友で病院の管理栄養士をしている友人がいるのですが、自分が高熱が出た時に体調を気遣ってくれてコンビニで栄養あるものや、熱が出るとビタミンが不足するだろうからといってビタミンの錠剤を買ってきてくれてとてもありがたかったです。

あとはやっぱり、体験してみないとわからないこともあるなと思いました。
例えば電車に乗ったとして、そこにいる人たちが持っている病気やハンディキャップって顔には出ないこともありますよね。言葉にしないとわからないので、人はそれぞれ色んなものを抱えているんだろうなっていうのが想像できるようになりました。そこに寄り添うというか、自分のような思いをしている人は他にもいるんだろうなって考えられるようになったのが、人と接する上でマインドとして持てるようになったのは大きな変化ですね。

ーー関わっている人が持っている背景にも想いを馳せることができるようになったのですね。

はい。それから仕事をする上での変化としては、比較対象を周りではなく自分の中におけるようになったし、その上でやるべきことにフォーカスできるようになったことでしょうか。
これも病気を経験したからかなと思いますが、物事に対する捉え方が変わったと思います。

これまでに2年間で15回熱が出ているので、そうなると向き合わざるを得ないですよね。向き合ったからこそ越えられるし、それは色んなことに生きるはず。目の前のことを一つ一つやることで見えてくるものはあるし、そうして振り返ったときに「これができた」と言えるようになるなと。
高熱が出るのは苦しかったけれど、自分自身と向き合って受け容れることや、周りの優しさを知ることができて、濃い経験というか、今後の自分にとって大事な時間になりました。

直感に素直に。たくさんの人を巻き込んで事業をつくっていきたい

ーー最後に、これからやりたいことがあれば教えてください。

いずれは自分で事業をつくりたいと考えています。今の仕事や色々な経験をする中で、どんな事業にしようか今まさに考えているところです。
自分は頭で考えるより直感を大事にしていて、そのとき何を感じたか、どうしていたいかを大事にしています。
それから、周りの人を大事にすること、向き合うこと。取り繕うことなくありのままの自分でいること。それで自分をいいと思ってくれた人と繋がったり、仕事も人に紹介してもらったりすることが多いので、そのままの自分でいることを大事にしています。
これからはそのスケール感を大きくしていって、周りの人をどんどん巻き込んで、裾野を広げていく中でぴんときたものを極めていって、そこから軸ができたら面白いなと期待しています。

ーー困難があってもひとつひとつ向き合い、乗り越えてきた経験は今後の支えになることと思います。これからの豪さんの活躍を楽しみにしています!

いいなと思ったら応援しよう!

溝川みか|食のインタビューライター
いただいたサポートは執筆のときのお茶代にします!