父と母の住む街
前職の職場は神保町にあり、私は休み時間や仕事終わりに
ひとり、町を歩くのが好きだった。
神保町の駅近く「さぼうる」は70年代にタイムスリップしたかのような
不思議な感覚を味わえる喫茶店。
その日も私はピザトーストにコーヒーを頼み、ひとり時間を楽しんでいた。
ほの暗い店内は、そこだけ時代から置いてきぼりをくったように、
雑然かつ悠然として、時計もゆっくり進んでいるよう……。
窓際の席に座り、行き交う人々を眺める。
私はスマホのプレイリストから昔のアルバムを選んだ。
くすぐるようなアイドルの甘い声。
ふと私は思った。
このまま店を出て、あの町田の実家を尋ねてみよう。
もしかしたら、父も母も元気で私を出迎えてくれるかもしれない。
「遅かったわね」
「おかえり。風呂沸いてるぞ」
そんな当たり前の会話をして母の手料理を食べるのだ。
私はまだ将来に何の夢も恐れも抱かない
「ひろみ」に夢中の女子高生だ。
親はいつまでも元気でいてくれるものと信じて疑わなかった。
本当は両親はとうに亡くなって
あの町田の家にも見知らぬ誰かが住んでいる。
「さぼうる」が見せてくれた
束の間の
せつなくて甘い夢だった。
映画「異人たち」を観て
あの日の事を思い出しました。
大好きだった人たち。
今度会う日はいつになるのだろう。
異人たち | Searchlight Pictures Japan