近江の国・織田信長が築城した幻の安土城
滋賀県近江八幡市に豪華絢爛で巨大な城、安土城があったのはご存じでしょうか?天下統一を目指す織田信長が安土山へ築いた平山城です。
安土城には不可解な話も多く残されています。
今回は安土城をご紹介します。
幻の城・安土城
滋賀県近江八幡市、琵琶湖の東側にある標高198mの安土山へ建造された城が安土城です。織田信長が1576年、佐和山城城主で織田氏の宿老でもあった丹羽長秀に命じ3年かけて完成させました。
岐阜よりも京へ近く琵琶湖の水運を利用できる利便性があるのに加え、上杉謙信を警戒していたとも推察されています。
築城にあたり畿内や東海、北陸など最高の技術を持つ職人が多く動員されたといわれています。
内部は狩野永徳が描いたと墨絵の部屋や金碧極彩色で仕上げられた部屋などがあり、当時にしては日本最高の技術と芸術の集大成で造られていたようです。
1579年に完成した日本初の天主を持つ城は、天下統一の拠点となる城でした。しかし、わずか3年後の1582年6月2日には本能寺の変により主を失います。その直後、火災により安土城は灰となってしまいました。
安土城焼失には、いくつかの説が残されています。
明智軍の敗走による放火
ルイス・フロスからの報告
盗賊や原住民の侵入
落雷での焼失
明智軍の敗走による放火
豊臣秀吉の伝記でもある「秀吉事記」や「太閤記」を元にした説では、安土城の守備についていた明智光秀の家臣である明智秀満軍が敗走したため、殿守に火をつけたと記されています。
しかし、こちらは信ぴょう性が低いと考えられています。秀満は安土城から敗走したわけではないからです。光秀の後攻めとして13日に安土城を出た秀満は、14日に坂本城へ入城しています。
安土城で出火があったとされる15日には坂本城が完全に包囲され、秀満はその夜自刃しているのです。そのため、秀吉側による濡れ衣と考えられているのです。
ルイス・フロイスからの報告
ポルトガルの宣教師でもあるルイス・フロスは戦国時代研究の貴重な資料にもなる「日本史」を記していました。日本史には「織田信雄が放火した」と記されています。
しかし、天主や本丸などの中心部は焼失したのに、二の丸は焼失していませんでした。強風であったのに二の丸が延焼していない点からみて、こちらの説にも説得力が欠ける点があるようです。
信長とともに長男である信忠が亡き後の後継者として次男である信雄が有力候補ではありましたが、清須会議で安土城焼失の責任を取らされ、発言権を失ったともいわれています。
盗賊や原住民の侵入
こちらの説は、神道家でもある吉田兼見の日記「兼見卿記」によるもので、略奪目的で侵入した盗賊や原住民が原因だとする説です。最も現実的である説で、13日に秀光軍が立ち去った後は誰もいなくなり、盗賊や原住民が侵入したと考えられます。
しかし、信長秘蔵の茶器や価値のあるものは本能寺へ運び出されていたため、安土城に高価ものは残されていなかったと考えられているのです。
落雷での焼失
落雷による焼失した説も捨てきれません。かつては京都市伏見区に伏見城が存在し、天守がありました。しかし、1750年に落雷により焼失しているのです。また、江戸時代に入れば多くの天守が落雷により焼失しています。
天守が落雷により焼失するのが珍しいことではなく、可能性として十分に考えられるのです。
臨済宗・摠見寺
安土城跡にある摠見寺(そうけんじ)は、安土城築城に伴い織田信長が他所より移築したと伝わる寺院です。
移築後は自らの菩提寺としたようですが信長の死後、本堂は火災によって焼失しました。その後、仮本堂が徳川家康邸跡に建てられ現在まで残っています。
襖の水墨画は、摠見寺の執事を勤めていた山本燈舟による安土八景です。
安土に住み、折々の風景を眺めながら描かれたものになります。
信長はいろいろな不思議伝説が残っています。こちらの掛け軸「信長公 蛇石曳の絵」にも不可解な伝説が残っているのです。
「信長公記」によれば、天正4年に津田坊という人物が大きな「蛇石」を運んできたといいます。それは、現在でも運搬不可能なほど大きい石でした。
その石を信長公は一万人の人間が昼夜3日かけて城内へ運んだというのです。しかし、現在は安土城内を探しても蛇石といわれる巨石はありません。小さく砕いて石垣に使用したとも、地中へ埋没させたとも言われています。
不定期のようですが、土・日・祝日には特別拝観で寺院の中が観覧できます。また、庭園を眺めながらお抹茶とお菓子のセットもいただけるのはうれしいサービスです。
時間帯によっては混雑して席がない場合があるのでご注意ください。
二の丸跡
天主へ進む途中に二の丸跡があります。こちらの奥には「織田信長公本廟」があります。
1583年、羽柴秀吉が本廟を築いたとされていて、同時に太刀や烏帽子、直垂などの遺品を埋葬したと伝わります。そのため、二の丸での発掘調査は現在も行われていません。
天主台跡
いよいよ天主台跡です。完成からわずか3年で主を失い焼失してしまった安土城にはその後、誰も訪れる人はなく瓦礫と草木に埋もれていたといいます。
一方、大正15年に史跡に登録、昭和27年には特別史跡に指定され、文化財として保護されるようになりました。また、昭和15年には初めて天主や本丸の調査と仮整備が入ります。
昭和35年以降になれば本丸周辺から黒金門にかけての石垣修理もスタートし、城跡整備が進み始めたのです。
調査が進められ、厚く積み重ねられた土を除くと見事な礎石が現れたそうです。四方それぞれ約28mの台地に礎石が1、2m感覚で並んでいます。
「信長公記」やルイス・フロイスによる「日本史」によれば、安土城は高さ33m、5層7階(地下1階、地上6階)の八角形だったのが分かります。
当時の最も高い建物でも東大寺大極殿や興福寺の五重塔でしたが、住居できる建物としては金閣寺や銀閣寺が唯一だったのです。
建物内は5階から地下1階は吹き抜けになっていて、5階は天井や柱が全て朱塗り、茶座席も設けられていたようです。また、5層7階の造りはルイス・フロイスに「ヨーロッパにないもの」と言わしめたと伝えられています。
摠見寺・三重塔
安土山中腹には本瓦葺きで三間三重の摠見寺、三重塔があります。1454年、室町時代中期築に建立されたもので、現在は国の重要文化財です。
棟柱に「享徳三年建立、天分二十四年修理」の墨書きがあり、1604年には豊臣秀頼が修理しています。
織田信長が長寿寺(現在の滋賀県湖南市)から移築したもののようです。
二王門の棟木には「元亀二年七月甲賀武士中山俊好建立」とあります。中山俊好は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、甲賀郡の地侍でした。織田信長により甲賀から移されたものと伝わります。
門と門内の金剛力士像は重要文化財に指定されています。
安土城跡の詳細
【住所】
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6371
【営業時間】
午前9時~午後4時
【定休日】
年中無休
【入山料】
大人 700円
小人 200円
【アクセス】
公共交通機関
JR琵琶湖線「安土駅」下車、徒歩25分
車
名神高速「竜王IC」から約20分
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