自分の「外」に、ある世界。
SNS やネットを見ていると思うのは、
生き方の選択肢が広がって、
個人に対するカスタマイズ機能が進化した分、
自分の外にある世界に、
出会いにくくなってるのではないかということ。
あくまでも、私自身の体験としての感想。
同じYouTubeやFacebookを開いても、
自分以外の誰かのページは全くの別物に思えた。
流れてくる情報も、
自分の趣味趣向に合わせたものが
生成されて抽出される。
それは、ある意味では
便利で有り難い事だけど、
ある意味では世界の分断も、
意味しているのかもしれないとしたら?
あるコミュニティに属すれば、
それに伴った情報が流れてくる。
好きなもの、知りたいもの、
欲しい物だけに最速でアクセスできる。
でも、私はその外にある世界を、
知らないのかもしれないと、ふと思った。
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更には、最近、文章を書いていて、
あえて使いたいと感じた省略表現や、
響きのニュアンスから選んだ言葉に対して、
文法的な正しさを優先する下線が入る。
これは文法ミスを防ぐためには、
便利な機能である一方で、
批判したいわけではないけれど、
偶然の面白い言葉の響きに出会う楽しさが、
削がれてゆくような気持ちにもなって、
私には少し、窮屈さのような、切ない…
寂しさや虚しさを感じてしまった。
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リアルに色んな方にお会い出来る機会があると、
中にはネットをそれほどなさらない方々も
まだまだ沢山いらっしゃることに
改めて気付かされる。
特に、ご年配の方々…。
そういう意味では、
ネット上に反映されている声というのは、
ネットを利用しているのが前提にある人々の声
なのかもしれないと思うような、
出来事があった。
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リアルの世界にだけ存在する小さな声は、
出会わなければわからないもので、
でも、どんなに小さくても、
存在しているもの。
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そういうことも改めて心に留めて、
忘れないようにしたい。
自分の知らないキーワードも
あえて検索してみることで、
自分の世界は少し、
広がるのかもしれない。
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でも、よく考えれば、
インターネットが社会に浸透する前も、
知らないことだらけだ。
むしろ、今以上に知らないことを、
知る機会も少なかったような気がする。
だから一概に、その傾向が、
良いとか悪いとかという事ではなくて、
立ち止まって考えること。
直感だけで判断しないこと。
それも私が意識的に選んでいる
生き方の1つの姿…という事になるのかな…?