他人に合わせる限界
日本語でも英語でも、人と対面する時に「他人に合わせる限界」は必ずあるはずなのです。
人は本来、皆違うもの。
それなので、他人には常に分からない部分があることは忘れてはなりません。
だからこそ、必ず通じ合っていない部分がある。対話したければ、一定の気遣いが生まれます。
それこそが、他人に合わせることの一種。
ある意味、誰でも自分の範囲内でしか理解できない部分はある。多くの人と関わりたければ、それなりに広い知識が必要。そして、経験に基づく勘や想像力が必要なのです。これは、語学力とは別
勉強だけして頭でっかちになっても、超能力者になるわけではない。
自分の範囲で、全く異なった経験をしてきた人や性格の人を推し量るのは不可能なのです。
英語以前にこの部分を理解する必要はある。
もしも、勝手に相手を予測して他人に合わせようとしたら……
これを英語圏で、しかも多民族が集まるところで発動したらどうなるのだろうか?
他人に合わせる限界のレベルにすぐ達す。
じゃあどうすれば良いのか。
限界があると意識すること。
それを踏まえて、相手を知る努力をすること。
これはコミュニケーションを取る際の最低限の礼儀である。
英語が生まれた国の人々は、日本とは全く違うのでそれがかなり鮮明に現れる。
けれども、実際には日本でもこれは同じなのではないだろうか?
結局は、相手に合わせるという思考が少しおかしいと一旦思ってみる必要さえある。
なぜなら、その相手にとってあなた自身も相手だからだ……。違う他人だからだ。
自己はどこに??
相手に伝える努力。分かり合おうとする礼儀。
その2つが揃ってこそ、互いにちゃんと向かい合って話すことができる。
そしてこれは事実だが、それを自分だけが行っても相手の配慮のレベルが違えば会話なんて成り立たないのだ。
まずは、礼儀を持って相手をちゃんと知ろうとする。それを持って自分を伝えようと努力する。
それが前提になり始めて、会話が成り立つかどうかが決まるのだ。
他人に合わせる限界があるからこそ、自分自身を上手く表現する能力も同時に必要となる。
それでも通じなければ、諦めなければいけない事実があるのを日本の人達はもっと知るべきだろう。互いになんとなく離れる距離感も時に必要なのだ。
英語だけ勉強したって、互いに異なるもの同士のコミュニケーションの本質を見極められなければずっと通じ合えないんだ。
日本語と何が違うというのか?
他人に合わせる限界。
それを、下げるか上げるかの本質を考えてみるべきなんだ。
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