謝る理由
日本人は英語圏のネーティブスピーカーに比べて謝りすぎていると私は良く感じていてnoteにも度々書いています。
別に謝る必要がない時まで謝っている気が私にはどうしてもしてしまっています。
昨日のnoteにも書いたけれど、本来なら相手が自分の為に何かしてくれて嬉しいんだったらお礼を言ったほうがポジティブな感じがして気持ちがいい。
そんな時まで、自然と謝るような言葉が出てしまう日本人は多い。私はそれは深刻と思っています。
「なんで謝ってるの?」
と反射的に聞いてしまう事も多い私。
だけど大した理由が出てくる事の方がうんと少ない。
中には答えてくれる人もいます。
一番納得したのは、
「とりあえず、“失礼します”や“ごめんなさい”を言えば丸く収まる事が多かったからだよ」
というものです。
“とりあえず”が答えなんでしょう。
それに周りとの調和を考えているんですよね。波風を立てないように周りに気遣いをしている。もしくは、自分が上手く立ち回る為なんでしょう。
でも、私はこの事に疑問を投げかけたいわけです。
言葉の大切さ、本来の意味そして重みってなんなんだろうか?
謝る場合は、自分が何かした事で相手に不快な気持ちや危害が加わった場合ですよね。
そして、やってはいけない事をした時。
ただし、自分が正しいという信念がある時に謝るべきなのか?
という問題もあります。
例えば、組織で推し進めている事柄があるとします。それがどうしても悪影響が及びそうな時、疑問を持ち声を上げる事は組織のために良いはずです。
自分が違う事をしてそれを指摘されて、即座に謝っていたら変わりますか?
そういう事です。
これは一つの例ですが、本当に心から謝るべき事ってどれくらいあるんでしょうか?
和を乱さないというのは、取り敢えず決まっている大多数の人がただの空気感で従う事なんでしょうか?
和を乱さない為に謝るという事は、“これが正解”というものが常にあるという考え方なのかもしれません。
しかし、私は常に常識を疑うタイプなので“これが正解”と言われたって納得できない事が沢山あるんです。
だからこそ、過去には受験や就活とかにも疑問を持ち今でもいい制度と全く思っていません。その事を両親に話して理解してもらおうと努力した事もあります。でも全く無理でした。
「あんたは、要領悪い。世間わたりが下手。受験や就活さえ真っ当に出来ないんだね」
「ちゃんと準備もせず訳分からない研究のベンチャーとかにうつつ抜かして苦労している。親に謝って欲しい。しかも大学にも残らんで何考えてるの」
これは母から言われた言葉です。
だけど、私は絶対に謝りませんでした。
自分のやってきた事は、正しいと説明できるからです。それに自分の人生だからです。
それに環境やどうしようもない事も沢山あった。それでもその中で自分の考えに基づき動き精一杯やってきた。何故謝らないといけないのか。説明を求めても答えはありません。
だから私は決して両親には謝っていません。
謝れば簡単かもしれない。でもそうやって逃げは作りたくなかった。今では、両親も昔よりはまだ私の事を理解してくれるようになりました。
何が“正しい”かというのは、人が決めている事です。
人によってその“正しい”はブレる事だってある。
それに人は完璧でなく間違う事もある。
そして人間はそんなに完璧な動物じゃない。時には自分の場所を守る為に醜い事や争い事を起こしてしまうものです。それは事実。受け入れなければいけない。
受け入れた事で妥協点を探すものなんです。そうやって良い循環が生まれてくる。
それには意見交換を活発に行う必要があります。
人は皆違うのですから…
一つの正解が必ずあってそれを乱さないように謝るのが理由としたらそんなバカバカしい事で謝るべきではない。そう思います。
人によって、場所によって、組織によって様々な考えがある。
一つである事なんてあり得ない事実なんですよ。
取り敢えず謝って事をおさめたって本質的な部分は変わらないんですから…
自分の考えや思いを我慢し続ける事で幸せになれるのでしょうか?自分が幸せでなければ良い循環なんて外に還元させる事はかなり難しい。
出来たとする人がいるとしたって、どこかで心を痛めつけてしまいます。それを守る為に陰口言ったり、陰湿になるんです。
私は謝るならただの空気出なくて理由を持って謝るべきと思います。
それに謝る事で逃げを作ってませんか?甘えてませんか?と思う事も多いです。
それに良い循環を社会に還元していくのは、一人一人個人なんです。個々が主体性を持って自分から変えていこうとしなければ変わらないんです。
何が“正しい”かは意外と難しい。
だから直ぐに謝るのは正解ではないです。
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