何かに頼り幸せになれるという幻想
私はSNS等を観ていて、いつもとても気になる事がある。それは、外国と日本の比較をしてどちらが良い国であるとかいとも簡単に結論づける人が多い事。
どこの国でもこういう比較があるのが分かるが、私は、オーストラリアに住んでいたのでオーストラリアと日本の比較について少し書く。
良く挙げられるのは、
オーストラリアに住めばライフワークバランスが良く自由度が高い
オーストラリアには同調圧力がない
とかそういう主張。
これは、はっきり言って間違っている。
所詮、根底には“日本はライフワークバランスが悪い”とか“日本は同調圧力があって息苦しい”との主観があってこその裏返し。
実際には、オーストラリアにも資本主義社会の奴隷は存在するし、同調圧力だってある。
なぜ、長く滞在している人でさえこういう事を気づかない人がいるんだろう?いや、気付かないふりをしているのだろうか?
私はそれを考えてみたけれど、結論は全て”他力本願“ であるということに落ち着いた。
自分がどんな人生を歩みたいか、そしてどうすればそんな人生を満たす事が出来るのかというとても大切な事を、場所や他者に依存している人が多い事実。
海外に行ってしまえば、環境が変わるから色々な事や自分についても発見が多い。しかし、それをどう活かしていけるのかは自分自身にかかっている。
そして、決してそれは他者や場所ではない。
自分以外を変えようと思ったってどうしようもない事はある。ただ、自分の想いに正直に生き自分の行動を自発的に選択する事で初めて自由になるのではないか。
ここで、本来のこのnoteの趣旨である英語についても言っておきたい。
英語を学ぶ事で世界が広がるというのは、事実。
英語は世界で使われている言語だから、様々な情報に触れる事ができ世界の人と会話出来ることからも明らか。
ただ、いくら英語を操っても、自分自身が極度に殻に閉じこもり”日本人である“という場所に依存した過度なナショナリズムを持っていたらどうなるだろうか。
ちっとも国際的な観点や多様な価値観を仕入れる事など出来ないだろう。
ただ、
自分の国はこうなんだ!!
と一方的に他国の人に押し付け主張する傲慢さを見せつけるだけだ。
そして、海外で悪い所を見つければ
日本は〇〇が素晴らしい!だから、オーストラリアはダメなんだ!
となる。
その逆は、
オーストラリアは〇〇だから素晴らしい!日本なんてクソ喰らえだ!
みたいに主張しだすだろう。
ただのマウンティング野郎じゃないか。。。
せっかく、英語を使いながら日本人として住んでいて様々な人種と話していても、柔軟な考えを身に付け自分の人生に活かし周りに還元するどころか、型にハマりまくり不満ばかり垂れ流しているだけ。。国際感覚とは程遠い。。。
私は、オーストラリアに住んでいる間そんな感じの日本人達にたまに遭遇した。「私はオーストラリアに住んでいるからこんな目に遭っている。」と言わんばかり、きっと日本に住んでも同じだろうと思った。
なぜなら、彼らには自分を操縦し自分の人生を自らの力で創り上げていくという気持ちはそもそもなく、全てに於いて依存状態だからだ。
職場に依存、国に依存、パートナーに依存。そして期待する。
しかし、自分は何か想いを起こし伝えそれを行動に移そうとしているのだろうかと疑問に見える人が多い。
そんなんでは、どの国にいたって同じことに思うしいくら国際的に使える言葉を知ったって意味ない気がどうしてもしてしまう。
それより先にどう生きたいか、その為にはどう動いたらいいか考える事の方が余程、重要。
自分がどうしたいか知りたいと想い、英語で仕入れる。そして、もっとすすめばそれを使って自発的にどう動けばいいかをそれを使って創り上げていく。
そういう気持ちが全然なく、ただ海外行って英語使ってるだけで幸せになれる事はないだろう。
幸せとは自分の中にある物であるという事を誤解すれば、とても狂う事は多く不幸せになるとそう思う。