簡単な道を探すこと
今は、とても便利な世の中です。なので、昔よりも簡単に出来るようになったことは多い。
英語学習もそのひとつです。
それなので、簡単な道を探すことについて今回は書いてみたい。
1日は誰でも24時間で、使える時間は限られている。なので、何事も効率的に取り組めるように工夫することはとても大切だ。けれど、その一方で基礎を疎かにしない重要性は消えることはない。
便利なものに頼って、簡単にすることばかり追求し、全く努力をしなければ、便利なはずの道具にただ使われてしまうこととなる。
その弊害は色々あるのだが、そのひとつとして自分で出来ていると勘違いして逆に後退しどんどん個人が弱くなるという事もある。しかもそれにも気づかないという状態になることさえあり得る。
すると、むしろ害の方が大きい。自分を客観的に見ることができなくなるからが理由。
こんな簡単なことを言語化するのもどうかと思うのだけれど、
読みたくない、書きたくない、聞きたくない、練習したくない、話したくない……
その状態で言語を上達させるなんて、到底無理な話になる。
それと同じで、この表現さえ覚えればスラスラとコミュニケーションが取れるなんてバカげた話もない。全ては、環境、相手との関係性によって変わるからだ。
それなのに、英語になると途端にそのような考えをしてしまう人がいる。
日本語でも、場合によって言語を使い分ける必要があるから、そんなに単純なものではないはずなのに。。。
よく人の話を聞かない人は、聞くのは下手
文章を書かない人は、書くのが下手
文章を読まない人は、読解するのが下手
話すことをしない人は、話すのが下手
なのが、平均的な人間。
例えば、ピアノ演奏。
何も練習しなくても、慣れなくても上手く聞き取れて、演奏できるし自分の曲を作れる。たかが1小節をおぼえただけで、どこでもどんな曲でもスラスラと弾ける。
そういう人は何人いますか?とたずねると分かりやすい気もする。
いないとは言い切れないけれど、一部の天才しかいないのは明らかだ。なのに、英語になると途端に練習しなくても慣れなくても使いこなせると思い込む人がいるのが奇妙だと思った方がいい。
例えば、AI 。自分の英語力が低いままでどうやってそのAIの出力した英語が、その場に正しいと言い切れるのか?
それを判断するのであれば、そもそも言語力とコミュニケーション力が高い人であればあるほどよいはず。
自分の使う言語がその場に正しくなくても自信たっぷりに使うとしたら、自分は大して語学力とコミュ力がないと自覚した方が随分ましだと思う。
道具を手にしただけで、怠け気分が出て楽ができると思い、自分さえ見えなくなるとしたら、便利なものも害でしかないだろう。
今の状況を冷静に見て欲しい。SNSを見渡せばゴミのようなコンテンツが増えている。そんなものに操作される人が増えたら、バカの大量生産品なだけだ。便利なはずなのに全く便利ではない。少しは離れて、現実との乖離も見るべきだ。
何かを身につけたりするのはそれなりの苦労がいるし、時間もかかる。だから、なんとか工夫して自分のできる範囲で楽をしようと考えるのと、簡単な道を探して全く努力しないのでは大きく異なる。
ただの怠ける言い訳を道具に転化して、誤魔化しているだけ。そんなものは、かなり脆い。
書いて、聞いて、読んで、話して、練習して場を踏んで慣れる。しかも、コミュニケーションの幅を広げたければ言語以外も学ぶ必要がある。
その原則はずっと変わらない。
簡単な道を探すことは悪いことではないが、その原則を忘れるくらいなら、便利な道具など忘れてしまった方が良い。便利なものとは、そのくらいに害があるものと頭の片隅に置いた方が良いはずだ。
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