短所を長所に変える
人はそもそも完璧ではない。
しかも、その「完璧」とやらも人の基準で大きく変わってしまうかもしれない不安定なもの
なので、短所ばかり気にしているのもかなりバカバカしい事と言える。
短所は本当に短所なのだろうか? と考えてみると、曖昧な事は結構ある。
なので、短所を長所に変える工夫をするための努力をした方が「短所」をなくす努力をするよりも随分ましな場合もあるはずだ。
「短所」を気にしすぎてアウトプットできなくなるくらいなら、そういう発想の転換をした方が良いかもしれない。
日本人の傾向として、外国の人との雑談があまり得意ではない人も多々いると思う。
大勢集まった時に、苦手だから弱点と捉えすぐに「短所」と思ってしまい避けてしまうのではなくそれを長所と捉えた方が良い気もする。
何も、多く話す事だけが能でもない。
その分良く人の話を聞いて、相手に花を持たせてあげるのもひとつの能力のうちだ。
会話を引き出すのも、場を保つためのスキルである。
だめな所ばかり気にして怖気付く必要もない。
また、こう考えることさえ重要だろう。
場が合わないのに無理して参加する意義が全ての場にあるだろうか?と……
義務でない場合は、そんなに嫌悪感を抱いてまで合わせる必要があるのだろうか?
良く外国人が集まる場というだけで、その場所の内容も考えず、英語力を向上させたいだけの目的で(この場合は、多分喋りの部分だろうが)無闇矢鱈に場に顔を出す人もいる。
けれど向こうからしたら、そんな事情はただただどうでも良く、周りとの交流が目的。相手の英語力など考えてもいないだろう。
そこが“英語練習の為に設定された場”と明確に記載でもしていなければ、それが当然なのだ。
何が何でも誰とでも何でも流暢に話せなければ!
そう思って、それが出来ないと自信をなくすとしたらかなり変な状態だと自覚がいる。
何故なら、こういう事を考えて違和感がないのは、日本語でどんな層の人とどんな会話でもとめどなく話せる人に限られるはずだから。
それなのに、そこのツールが英語になると途端に言語力とコミュニケーション力の混同を起こすとしたら異様なのだ。
いくら話できても、場の空気を乱してはただただうるさいと周りが感じる可能性も高い。
口数が少なくても的確に何か言う人が喜ばれる場合だって多々あるのだ。
英語を沢山話せる事は、英語を教科としての勉強として捉えている人にとっては「長所」と単純に捉えてしまいやすいだろう。
しかし、言語をツールとして使うものと捉えれば、状況によってこの特徴は長所にも短所にも簡単に変化すると理解できるはずだ。
長所は短所にもなり得るし、その逆で短所は長所にもなり得る。この視点はいつも持っておいた方が良い。何も、コミュニケーションに限ったことではなくても。
そう考えると、人なんて単純に評価できないはずなんだけどな……
そういったことからも、短所を長所に変える視点を持っておく事はとても大切に思う。