他人について
話題になっている物事をざっと見てみると「他人について」がやたらに多いそんな気がする。
これは、SNSのトレンドを見ても明らかだ。
他人の人生の一部を切り取ってそれを話題にする。そして、自分と比べてあれこれ思いそれを共有するとかそういう感じだ。
日本の外でも、そういう話題を持ち出す人はいるにはいるけど、傾向としては日本ほど頻度が多くない。そんな気がする。
そういう話題を雑談で話そうと思えば、そういう内容に相手も自分も興味を持っていないとなかなか難しいはず。
当然、英語での会話は日本人以外と話す機会の方が増えるので、他人を軸にした話題なんかだとあまりにも難しい。世界は広く日本だけではないからだ。雑談の難しさがかなり上がるのではないかと、ちょっと思った。
米国ドラマで、『ゴシップガール』というのがある。題名のとうり、ゴシップで溢れているのだけれどあれはある意味若者の内輪の話だと分かる。言い換えると、確立された狭いコミュニティの中の一部の話で構成されているということ。
ひとり登場人物のダンというのがいる。ダンは社会階層が周りの多くの人物と違うよそ者である。だから最初は全く彼らの輪に入っていく事はできていない。そのため、その場の様子をそこにいるはずなのに、遠くから見ている。そんな人物だ。
けれども、どうやって彼がゴシップの中心に飛び込んでいったかといえば、文学を下地とした教養という武器があったからだ。
彼は、語彙があり口達者であり多くのネタを持っている。だから、一目置かれて無視されない。
物語なので、かなり大袈裟ではあるけどこれは実際に正しい。
英語でコミュニケーションをとる事は、「違い」と接することでもあるので、自分と同じような人を探すのはかなり難しい。無視されない特別な何かを身につける事はかなり大切。
「他人」を見て、それについて評価をくだしたり自分と比べる事を多くしている人は日本では多いけど、そういう人達の行動を見て自分に照らし合わせる人はどれくらいいるのだろうか?
このダンの挙動は、英語圏とは全く別の日本人が英語で雑談などをこなすときのヒントになるとちょっと思った。
彼は、「他人」を良く観察して捉えているのだけれど、それだけではなくある意味相手のコミュニケーションのツボを押さえていて全く違う界隈なのに上手く入り込んでいく。
これは、英語能力だけの話ではなく人間社会の話だ。
他人についてばかりではなく、自分についてを見た方が良い人は多い。
自分を他人が見て、コミュニケーションをとりたいと思うのか?
他人について知る必要も同時にあるのだけれど、自分も見なければ難しい。
語彙力などの言語勉強ばかり気にしてここら辺を無視していたら、実際に使う時に不足が大きくなってしまう。
相手が他人であるように、相手からしたら自分自身も他人である。この視点はコミュニケーションに大切なことだ。