辰砂
東京で働きはじめ、半年ほど経った頃の話です。
占いの店には出ていましたが、なかなか客はつかず、相変わらず私のブースだけは人気が無い日が続いていました。占いをしてほしい、というセリフを聞くことはほとんどなく、私は他の人の手伝いや、レジ、掃除などをやり、他にバイトを一つ掛け持ちしながら生計を立てていました。
愛想もなく、会話も面白くない。無表情でぼーっと一日中占い師らしからぬカジュアルな格好で座っている。傍から見ると、何の職業なのかわからなかったと思います。私は表面上は平気そうにしていましたが、心の中は焦りでいっぱいでした。プライドと不安を行き来する毎日。この仕事で本当に生きていけるんだろうか。
そんな私に寄って来るのは、近くの地下鉄に住んでいたホームレスのおじさんだけでした。離れていても臭ってくるボロボロの衣服。お酒とタバコだけは何故か切らすことなく、いつもどちらかを手にもってうろうろしていました。白い髭とぼさぼさの髪に顔は覆われ、その奥にある表情はあまり見えず、喜怒哀楽は主に大きいそのダミ声で表していました。
よう、元気かいと当たり前のように私の前に座り、タバコ吸うか、酒飲むかとこちらに差し出してきます。お酒もタバコも苦手な私は思いっきり眉をひそめ、鼻をつまんで睨みつけ、いらないよ、臭いよ。おじさんお風呂入んなよ。
馬鹿を言うな俺はホームレスだぞと、何故か得意げに返すその人は、私の嫌がる様子など全く意に介さず、飽きもせず、毎日暇そうな私をからかいに来ていました。
ある時、胃が痛えなー、とその人がポケットから何かを取り出して私の前で広げました。大事そうに広げたそのハンカチの中からは、紅い、見たことのない石の欠片が出てきました。まるで肉を切り刻み、黒ずんだ血が滴っているようなその鉱物をおじさんはそっとつまみ、口の中に入れていました。
美味しいの?それ何と聞くと、薬だ、漢方薬だよ、と神妙な顔付き。その大事そうにくるむ仕草から考えると高価なものなのでしょうか。その人はゆっくりと口の中でそれを転がすと、目を閉じ大きくふうっとため息をつく。まるで何かの儀式かのようなその光景をよく覚えています。
——
或る日の夜遅く、いつもの帰り道で、私は2,3人の酔ったサラリーマン風の男に絡まれました。しまった、と思った時には腕を掴まれ、ずるずる引きずられました。周りに人気はなく、恐怖で声が出ません。血の気が引いていくのがわかりました。
その時、後ろからくぐもった声で、おめえら何をやってるんだと怒鳴る声が近づいてきました。振り向くとあのホームレスのおじさんが、空き瓶を振り上げながら奇声を発して走り寄ってきたのです。サラリーマンたちはうわ汚ねえと驚いて、ブツブツ言いながら去っていきました。すごい迫力だったので、助けてもらったくせに私も思わずヒィと叫んでしまいました。
なんでおめえも叫ぶんだよと文句を言いながらゼイゼイ肩で息をしているおじさんに、ありがとう、奢るよとお礼を言うと、要らねえよ占いしろよ。お前占い師だろ、と珍しくまともなことを言ってきました。
その人の背後に見え隠れする、ぞっとするほどの怨恨。真っ黒に塗り潰された計り知れない憎悪の念。海の底に沈むような、何よりも深い失望。それらをずっと前から見ていたので返答にためらい、ずいぶん悩んだ後、私は、哀しいものが見えるとだけ伝えました。
おじさんは詩的だねえと満足気に笑い、タバコとライターを取り出すと、金属音と共に火を点けました。街灯もまばらなその闇の中で、ライターの炎は生き物のように白い髭を灯の色で照らして、美しくゆらゆらと揺れていました。
ポケットからまたハンカチでくるんだ石を取り出し、タバコを吸いながら口に含む。薬なら私にもちょうだいと手を伸ばすと、お前にだけはやらんと体をよじります。これは高いんだぞシンシャなんだぞ。何言ってるの新車がどうしたの、と笑い声が煙と共に暗闇に消えていくのを、二人で肩を並べて見ていました。
——
おじさんの臭さに慣れてきた頃、珍しくお客様が私の前に座りました。居眠りしそうになっていた私が慌てて顔を上げると、初老のスーツを着た男性が座っていました。
よう、占いしてくれよ。座っていたのはあのホームレスのおじさんでした。さっぱりと髭をそり、髪型を整え、グレーのスーツに身を包んだおじさんは、どこかの企業の役員のような風格も備えていました。身なりの変わり具合もさる事ながら、実はこんなに端正な顔立ちをしていたのかと、驚きを隠せませんでした。
家族に会いに行くんだ、と真っ直ぐに私を見つめたその人は、黒い瞳にある決意を湛えていました。時計を見ると、いつのまにか閉店時間をとっくに過ぎた午後10時をまわっていました。おじさんそれよりお酒を飲みに行こうよ、お前飲めねえだろ、大丈夫だよ奢るよ。いらねえから占いしろよ。今日は気分じゃないんだもん。商売だろちゃんとしろよ。
時計を横目に、私は内心焦っていました。机の下で握りしめてた手にはじっとりと汗が滲み、あと2時間、なんとしても引っ張れたら、引き留められたら、そしたら、そしたら。
まるで現実ではないような、真っ暗な東京の片隅で。この世にはまるでおじさんと私しか存在しないようでした。
何度か問答を繰り返し、占いを一向にしようとしない私に、じゃあ行くから。と席を立とうとしたおじさんは、柔らかい笑みを浮かべてこちらを見下ろしました。私は自分の予感に絶望しながら、ここにまた来てくれないか、とおじさんを見上げました。その人は、私の頭を撫でると、嬉しそうに笑い、また来るよ、と暗闇の中に去って行きました。
——
次の日、警察がやってきて、この近くの地下鉄に住んでいたホームレスのことを聞きにきました。二三質問をすると引き上げていきました。
おじさんがよく舐めていた石は辰砂(しんしゃ)と言う、有名な鉱石でした。
水銀を含むその石は人間には猛毒であり、口に入れるなどもっての他です。おじさんの言う通り、はるか昔は漢方薬としても使われていたようで、おじさんがその石の特性をどの程度知っていたかどうかは、今となってはわかりません。体を治す為に摂取していたのか、違う目的だったのか。
柔和な笑みを湛えたその人の、死に向かう深い絶望を、私には止める事も、その権利も、微塵もありませんでした。
私には何ができたんだろうか。その悲しさに何かできたのではないのか。答えが出ないこの問いはずっと未だに私の中にあります。
暗闇に浮かぶあのゆらゆらとした美しい炎や、血肉のような鉱石。黒く澄んだ瞳を、今でも時々思い出します。
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