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相違

自分の伝えたいことって、思っている以上に相手に伝わっておらず、届かないものだなと感じることがある。

自分自身の言語化力の低さ、分かりづらい話し方に起因する部分が非常に大きいことは承知の上、今回気付いたもう一つのことをここに記録しようと思う。



私は自分が話したことについて、記事にしていただいた経験が何度かある。

その時、ライターさんのプロフェッショナルさを体感して圧倒された記憶が鮮明に残っている。

一番驚いたのは、数十分に及ぶ私の語りについて、キーワードになる言葉を辿りながら、話の真髄をおさえた要約をしてくださったことだ。

私が『伝えたい』と思っていたことと、受け取ってくださったことにズレがなく、それどころか紡いだ言葉が生き生きと綴られていて感動した。

さらには、うまく言語化できなかったニュアンス部分を的確な言葉で言い換える提案もしてくださった。そのことにも大きな感謝が生まれた。
とても貴重な経験であった。


一方、最近私は自分の語りについて、別の方にも文章化していただく機会をいただいた。

その記事を読んで、なんだかもやもや、、、うーん🤔このもやつく気持ちは一体何だろう?と、濃霧が立ち込めた。
そのため、何にもやついているのか、一つ一つ気持ちを覗いていく過程を踏もうと考えた。


記事を読んだ時、
あまりにびっくりして言葉を失った😳

「!?、、、」
「いや、そうなんだけれど、だからつまり?」
「力強く語った部分が何一つない」
一番伝えたかったことが、その文章の中のどこにもなかったのだ。私の発した言葉ではあるものの、一番伝えたかった部分が残されておらず、さらには抽象度の高い言い換えられた言葉ひと言に変換されていた。
説明文の構成でいえば、「はじめ、中、終わり」の「中」が抜けている、つまり、結論に至るまでのプロセスが抜けてしまっている、そんな印象を受けた。

当時、隣で私の言語化を聞いていた夫にその記事を見せた。
その記事から感じたことをとおして、『伝えたいことは自分が思っている以上に、相手には届かないものだ』ということを二人で再認識したのだった。


今回のことは私にとって、話を要約してもらうという場面において、対照的な経験であった。

ラジオや映像媒体などから、ただ聞きたいように聞く場面では、聞き手は受けとりたいように受け取るのがとても自然だと思う。ある意味、それが醍醐味だとも考える。

けれども、相手の話を要約して誰かに伝えるような場面においては異なるのではないか?と。

語り手が『伝えたい』と願う話の真髄に迫る力が必要になるのではないだろうか
語り手の伝えたいことと、聞き手の受け取ったことに大きな相違がなく文章化されている状態が望ましいのではないかと思う。
真髄に迫った文章であれば、語り手と書き手(聞き手)にズレが生じず、より多くの読者に語り手の思いを言葉に乗せて届けられると思う。

こんな経験をとおして、ライターさんのプロフェッショナルさや、私には分からぬ『書く』というプロの世界を少し垣間見た気がした。

私は以上の経験から、相手の話を聴く時に大事にしたい視点を見つけることができた。(要約して伝えることが目的の場合は特に)

❶自分が反応したい部分にだけ終始反応することがないようにする

そのために
❷自分のジャッジを入れずに、最後まで聴ききる

❸相手が一番伝えたい思いとは何か?を大事に、相手の言葉を辿りながら聴く(自分の中で変換した言葉を辿って聞かないように留意する)

自分の価値観を一旦脇に置き、無になってから相手の語りを聴く

(+α ❺相手の語りを聴き終えたら、言語化する


『聴く』について
改めて考えるきっかけをいただきました。
感謝して昇華し、自分に活かします🌿✨

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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#相違
#傾聴する
#視座を合わせる

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