【FF7二次創作】 霧の底
谷の底は乳で満たされていた。いや、乳ではない。霧だ。鬱蒼とした森の樹々が巧妙に隠していた突然現れたすり鉢状の谷──モンスターの群れから逃げる間にクラウドが迷い込んだのはそんな場所だった。
先のミディールを襲った大地震の影響か、この辺はあちこちで地割れができていると聞く。地表近くのライフストリームの溜まりなんかに落ちてしまえば一巻の終わりだ。クラウドは鋭くあたりを見回した。
分厚い雲の向こうから差し込む弱々しい太陽光が霧に散乱し、あたりは乳白色の光に満ちていた。視界は最悪だ。クラウドは足を止め、耳をそばだてた。散り散りになった仲間の足音か自分を呼ばわる声を期待して。それとも自分から存在を知らせるよう画策すべきだろうか?
逡巡するクラウドの耳にどこかの斜面から石くれが転がり落ちる音が聞こえた。いつでも抜き放てるよう剣の柄に手をかけると、よく使い込まれた黒い革のグローブがクラウドを励ますように軋む音を立てた。谷の縁は鬱蒼とした樹々にぐるりと囲まれていた。遥か上空では大型の肉食鳥が鋭い声で鳴き交わしている。それを聞いてクラウドは位置を知らせるために大声を出すのをやめた。自分の声を聞きつけてやってくるのは仲間だとは限らないからだ。
ずしりと重い背中の大剣──友に託されたバスターソードの柄から手を離し、クラウドは小さく舌打ちをした。
以前ならば重い装備を担いで一日中悪路を歩き通した後の野営地で平然と素振りを始め、仲間に呆れられたものだった。それが今はどうだ──。
クラウドは唸り声のような荒い息を一つついた。
魔胱中毒がクラウドから奪ったのは自我だけではなかった。ろくに動けず、ベッドかティファの押す車椅子の上で過ごした日々は、クラウドの肉体に多大な影響を及ぼしていた。全身の筋肉が久しぶりの運動に悲鳴を上げていた。今すぐ膝をついてへたり込みたい。それでも体内の気力をかき集め、萎えそうになる膝を叱咤してクラウドは前方を睨みつけた。じっとりと体にまとわりつく霧をかき分けてクラウドは慎重に歩を進める。どうにかして谷底から抜け出す道を見つけなくてはならない。
随分歩き回ったが、事態は一向に進展しなかった。磁場が狂っているのか疲労のせいか、自分がいま登っているのか降っているのかも判然としない。
どうにも俺は間違ってばかりだ──先刻避けたはずの大岩に前を塞がれて、クラウドは薄く自嘲の笑みを浮かべた。堂々巡りだった。どの道を選んでも必ず何かにぶち当たり、いつの間にか自分の望みとはかけ離れた方向に進む羽目になった。
沈む夕陽が空を赤く染め上げているのが霧越しにも見て取れる。本格的な夜が来る前にせめて隠れられる場所を見つけなくては。
クラウドは無性にコーヒーが飲みたかった。それもうんと濃いやつだ。野営の際、火の番をする時にティファが必ず淹れてくれるのだ。「眠くならないように」と。休もうとするティファを引き留めて、コーヒー一杯を飲む間に他愛のない話をした。自分の大して面白味のない話に頷いたり笑ったりするたびに、焚き火に照り映える黒髪が煌めいていた。2人の間にはいつも手の平一つ分の距離があった。以前の自分だったらそんな距離とっくに超えて、ティファの腰を引き寄せていた。絡み合う指先の震えも、唇の柔らかさも…全部覚えているのに、今や全てが遠く、臆病な欲望をティファに気づかれまいとつい素気ない態度を取ってしまうのだ。本来の自分を取り戻す前は、どうしてあんなに簡単に触れられたのだろうと不思議に思う。傲慢で、自信満々な元ソルジャー・クラスファースト──”あいつ”だったら、もっとたくさんのことをうまくやれるのだろう。
また石塊に足を取られ、クラウドはよろめいた。バランスを崩した拍子に背中のベルトの留め具からバスターソードが外れかかり、その重さを支えきれずにクラウドは膝をついた。一度膝がついてしまうともう立ち上がることはできない。ごわごわとした布地越しに尖った石が肌を刺す。その痛みにクラウドはほんの少し顔をしかめた。
心の奥底で誰かが意地の悪い声で言う。「そんな使い古しの剣はここに置いていってしまえ」と。
誰か──ではない。それは紛れもなく自分の声だとクラウドは知っていた。クラウドは右手で左腕を強く掴んだ。グローブ越しに爪を突き立て、鋭い痛みを感じるまで。痛みに、己の意識を集中させるために。
ソルジャーにすら選ばれなかった人間が──弱くて卑怯なこの俺が背負うには重すぎる。夢も誇りも、この剣も。
歯を食いしばり、クラウドが空を見上げた時、谷底を覆う濃い霧が一瞬晴れ、砂漠色をした半月が姿を現した。半分の月が放つ淡い光に照らされて、クラウドは岩と砂だらけの灰色の風景に別の色が存在することに気がついた。導かれるようにして歩を進めると、なだらかな窪地の真ん中辺りに緑色の光が揺らめいている。微かな風によって渦巻く霧に、谷底の亀裂から漏れ出した柔らかな緑色の光が溶け出しているようだった。いや、緑だけではない。よく見れば、その揺めきの中にはいくつもの他の色が浮かんでは消えていった。
──あれはなんだ…?
クラウドは目を細めてその色の重なりを凝視した──と、すぐに大きく目を見開いた。窪地の底には町があった。正確には、どこかの集落が霧に投影された、蜃気楼のようなものだ。あの村を自分は知っている、とクラウドは思った。
ひどく懐かしい、だけど胸をかきむしるような寂しさがクラウドを襲った。よろり、と無意識のうちにクラウドが一歩踏み出すと、それに応えるように近づくごとに蜃気楼の中の像はより鮮明になった。村の周囲を囲む静かなブナの林、一際大きい村長の家、村のシンボルとも言える風車のついた給水塔、凝った字体で入り口のゲートに掘られた村の名前…
あっと思う間も無くクラウドは光の奔流に飲み込まれ、ぎゅっと目をつぶった──。
*
「…ド…クラウド!」
ゆさゆさと揺さぶられ、クラウドはハッと目を覚ました。目の前には眉間を寄せた誰かの顔。目尻と口元にもはや消えそうにない細かい皺がくっきりと刻まれたその顔に、艶を失った金髪がはらりと垂れた。窓から差し込むぼんやりとした日の光に浮かび上がるこの顔は──
「母さん…老けたな……ぃでっ!」
思わず口から漏れた言葉に瞬時に鉄拳制裁が加えられ、まだ覚醒しきっていないクラウドの目の前に火花が散った。
体を起こして頭を撫でさするクラウドを、母親──クラウディアはじろりと睨みつけた。
「久しぶりに帰ってきたと思ったら親に向かってなんて口利くんだい!」と、荒いため息とともに吐き捨てる。
「ごめん…」
その剣幕に押されてクラウドは視線を落とし、小声で謝った。その時、鮮やかなブルーが目に入った。母親お手製のキルトのベッドカバーだ。指先が布地の表面を掠めた。少しごわついたその感触が無性に懐かしく感じられた。
どうやらこのベッドに横になっていたらしいが、自分はなぜここにいるのだろうとぼんやりと考えながら、クラウドは周りを見回した。同じ木材で誂えた、机と椅子、それに小さな衣裳戸棚があるだけの簡素な部屋──全てがクラウドが村を出た瞬間に時を止めていたかのようだ。部屋の主人が帰ってくるまで。そう、この部屋でクラウドは13歳までの日を過ごしたのだ。ニブルヘイム。母と2人で暮らしたクラウドの生家。あの頃世界はとても小さかった。その小さな世界の中で、少年は鬱屈した心を持て余し、むやみやたらと攻撃的に振る舞っていた。そうすることで己を守れると信じていたから。塗り直した跡のある壁の傷を目にして、当時の痛みが蘇り、クラウドは拳をそっとさすった。
「とっとと顔洗って朝ごはん食べちまっておくれ」
ぼうっとしたままの息子をちらりと見やり、「ほとんど昼になっちまったよ…片付かないったらありゃしない」などとブツブツと独り言をこぼしながらクラウディアは部屋を出て行った。
その母の背中を見るとはなしに見つめながら、クラウドは霞む頭で考えを巡らせていた。大都会ミッドガルで働くために14歳の時に村を出たのは覚えている。だがその後は──?
その先を思い起こそうとすると、分厚い不可視の層に阻まれるかのようだった。触れられはするがどうしても通り抜けられない。
軽く頭を振って、クラウドはひっそりとため息をついた。ベッドから立ち上がり、窓の外を見てみると、日は昇っているはずだが太陽は出ていない。霧がかかっているのか、空全体がぼんやりと白く光っているかのような不思議な天気だった。その空の下、よく知る村の家々が目に入った。斜め向かいの家の庭先では今にも擦り切れそうな革紐に繋がれた灰色の犬が地面を嗅ぎ回っている。小さい頃はそばを通ると吠えかかってくるあの老犬が怖かった。
クラウドは無意識のうちに手で背中を探った。だがそこには何もなく、右手が虚しく空を彷徨った。あるはずのものがない──その欠落はクラウドを落ち着かない気分にさせた。
どうやってここまで来たのだろうとクラウドがふと思ったその時、居間から自分を呼ぶ母の声が聞こえ、クラウドはひとまずそちらに向かうことにした。
蛇口の栓を捻ると水が勢いよく流れ出し、小さな洗面ボウルを飛び越えてクラウドの腹のあたりに水滴が散った。シャツが肌に張り付く感触を感じながら、ぐっと体をかがめて手で水を掬い、顔を洗う。山間の村ニブルヘイムはその中心に立つ給水塔と各家庭の貯水タンクで生活用水を賄っているため、季節によって水の温度が変わる。このぬるい感触は夏の水だ。
本当に自分は今ニブルヘイムにいるのだと、クラウドは漠然と思った。顔を上げると、鏡の向こうから水滴を垂らしたもう1人の自分がじっとこちらを見返していた。軽く眉間に皺を寄せたその顔は、驚くほど母に似ていた。
食卓には所狭しと皿が並び、小さな籐のバスケットには焼きたてのパンが湯気を上げている。
「やっと来たね」
尚も追加の皿を両手に持つクラウディアが台所から姿を現し、クラウドに席に着くよう促した。家の外からは子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。あの灰色の犬も一緒になって吠えている。外の音につられて窓の方へ顔を向けたクラウディアの口元に幸せそうな微笑みがふわりと浮かんだ。
少し離れたところからそれを見ていたクラウドはどこか胸の詰まるような気持ちを感じた。一瞬でも気を緩めると涙がこぼれそうな気がして、クラウドはぎゅっと目を閉じた。その途端、瞼の裏で昏い炎が燃え上がり、何もかもを焼き尽くす様が浮かび上がった。燃える世界の中でクラウドは見た。血塗れで倒れ伏す母、よろず屋の崩れ落ちた梁の下でもがく真っ黒な影、ズタボロになった灰色の汚れた毛皮の塊、赤ん坊の絶叫するような泣き声……そして、ぱっくりと開いた致命的な傷口からごぼごぼと血泡を吐き出す幼馴染の父親と、絶望と憎しみに魂を染め上げられたその娘を──。
慌てて目を開けると、そこには先ほどと変わらない光景があった。困ったような母の笑顔、懐かしい料理の数々──それら全てが今目の前にあることがまるで奇跡のように思われた。窓の外からは再び子どもたちの明るい笑い声が聞こえてきた。先程までの恐ろしいイメージは徐々に薄れていった。
「どうしたんだい、クラウド?」とクラウディアが言った。そのよく通る声はクラウドの内側に明朗に響き渡った。クラウドは顔を上げた。クラウディアは、腰に手を当て、怪訝そうな、しかし何かを面白がっているような表情を浮かべている。クラウドのよく知る、母の顔だ。
「…長い、夢を見ていたみたいだ…」
その一言をやっとの思いで絞り出した息子を労わるように、クラウディアは優しく声をかけた。
「悪い夢かい?」
「ああ…」
──本当に、ひどい夢だったんだ。
クラウドはそれがどんなにひどい夢だったかクラウディアに説明しようとしたが、確かなイメージを掴む前にそれらは頭の中で霧のように消えてしまった。だって母さんはここにいるじゃないか?
言葉に詰まり困ったように立ち尽くすクラウドの背中をバンと音を立てて叩き、「疲れていたんだろうさ。さ、食べな!」と言ってクラウディアは息子に席に着くよう促した。
クラウドは家を出るまで自分が座っていた席に着くと、飴色に変色したテーブルの天板をそっと撫でた。そのテーブルの上を、母の手があちこち動き回り、皿の位置を細かく整えていた。よく日に焼けた手に節の目立つ指。短く切り揃えられた爪の表面は滑らかさを失い、溝が刻まれていた。
クラウドが目を上げると、外したエプロンをくるりと丸めて空いた椅子に置き、母も向かいの席に着いたところだった。じっと見ていたのを母に気づかれる前にクラウドはさっと視線を落とし、手近な皿を掴んだ。
「…いただきます」
一度口をつけると手が止まらなかった。食べるごとに腹の底から温まっていくような気がした。
黙々と料理を口に運ぶクラウドを眺めるとクラウディアは満足そうに一つ頷いた。ご近所さんに頼み込んでいつもより多めに分けてもらった山羊乳のチーズ、ささやかな畑で採れた夏野菜、自家製のパンには奮発してバターをたっぷり入れてある。
さりげなく幾つかの皿を息子の方に寄せながら、クラウディアは口を開いた。「さ、母さんにあんたの話を聞かせとくれ」
そのキラキラと輝く瞳をほんの少し鬱陶しそうに見やり、クラウドは不承不承頷いた。
「ミッドガルはどんなところなんだい」
「人が多い」
「ご飯はちゃんと食べてるのかい」
「ああ」
「掃除は?洗濯は?きれいにしとかないと虫が湧くよ!」
「わかってる」
「仕事は順調?」
「まあな」
何を聞いても、よく言えば朴訥な、悪く言えば単調な返事をする息子をクラウディアはまじまじと見つめた。
「……あんた、そんなんでちゃんと女の子と会話できてんのかい」
クラウディアが頬杖をついて呆れたようにそう言った。唐突な質問にクラウドは軽くむせた。右手に持っていたフォークを置くとクラウドは母親を軽く睨み、「関係ないだろ」とボソリと反論した。クラウディアは大仰な表情で肩をすくめて見せた。
ムッとしたクラウドが何か言い返そうとしたその時、お湯の沸いたやかんの立てるピーという甲高い音が聞こえ、「あらやだ」と言いながらクラウディアは台所に消えた。
振り上げた拳が行き場を失い、クラウドはなんとはなしに窓の外を眺めやった。柔らかな風に揺れるレースのカーテンの向こうで、隣の家の扉が開き誰かが出てくるのが見えた。1人は恰幅のいい男性で、もう1人は白い服の華奢な女性だ。軽い抱擁を交わすと、男性に向かって手を振って、その白い服を着た人影は村の大通り、店の立ち並ぶ方へと消えた。
顔立ちは分からなかった。ただ、先の方で束ねた長い黒髪を背中でゆらす楽しげな足取りだけがクラウドの目に灼きついた。やはりという思いとまさかという気持ちが交錯し、心臓がごとりと鳴った。
──あれは夢だったのだ、あんな悲惨なことは起こらなかった。母にも、そしてティファにも──クラウドはそう思った。
クラウドがぼんやりと動くもののない窓の外を眺めていると、香ばしい匂いが漂ってきた。
カンという鋭い音がすぐ近くから聞こえて目線を落とすと、テーブルの上に母が運んできてくれたカップがあった。コーヒーの濃い茶色の中に不定形の白い靄が浮かび、二つの色は見る間に混じり合った。
「ありがとう」
クラウドは縁の欠けた懐かしいマグカップを手に取ると、がぶりとミルクコーヒーを飲み下した。久しぶりの優しい味に思わず目元が緩んだが、牛乳の油っぽさが喉にまとわりつく感じがして、母にわからないように咳払いをした。クラウドは静かにカップを置いた。
カップから立ち上る湯気の行方をなんとなく目で追ううちに、隣家の玄関先に再びクラウドの視線が向いた。あの白い人影がチラとでも見えないかと期待して。
クラウディアはそんな息子をニヤニヤしながら眺め、「あんたは全然変わんないね」と言った。
「何がだ?」
「もう会ったわけ…はないか」クラウドの質問には全く答えず、クラウディアは忍び笑いを漏らす。「まあ、びっくりするだろうよ」
「だからなんの話だ?」
「さあねえ。あ、そういえば──」
母親の語る、村の誰かに子どもが生まれたという話を聞き流しながらぼんやりと考える。一体いつからだろうか、ブラックコーヒーの方を好むようになったのは、と。記憶の中のコーヒーはなぜか焚き火とセットで思い出された。そしてティファの姿も。長い睫毛が落とす濃い影の奥で、意志の強そうな赤い瞳がどこか遠くを見つめている…そんな横顔が頭に浮かんだ。
あれこれと続く母の問いかけに上の空のまま返事をしつつ、クラウドはぼんやりと自分の中の空白を眺めていた。
何度目かのやり取りののち、クラウディアは生返事を繰り返すクラウドを怪訝そうに見やり、「あんた、大丈夫なんだろうね」と語気を強めて言った。
「何がだ?」
目を瞬かせ、間の抜けた顔でクラウドはやっと母の顔を見てそう答えた。
「山道の手入れだよ」と、深いため息をつきながらクラウディアは答えると、こめかみに手を当てて小さな声でぼやくように付け加えた。「…ったく何も聞いてないんじゃないか」
いつの間にか話題は大きく変わっていたらしい。クラウドは一つ瞬くと、ぼそりと呟いた。
「山道の手入れ…」
「あーもう、ニブル山の道だよ!この前の大雨で緩んでる箇所があるからって言っただろ?」
「そう、だったか…」
頼りない息子の様子に首を振りながらクラウディアは立ち上がり、食器を片付け始めた。かちゃかちゃと皿のぶつかる音の合間に再度ため息が混じった。
「まったく…よろず屋のご主人が怪我したもんだから代わりにあんたに頼んだんじゃないか」
クラウドは目を見開いた──”よろず屋”──母の言葉に再び炎の光景がフラッシュバックする。焼け落ちた梁と地面の間で弱々しく蠢く黒い人影も。
「よろず屋の?生きてるのか?」
「生きてるに決まってるだろ!」
ハッとしたように顔をあげ、そんなことを訊くクラウドにクラウディアはピシャリと言った。
「そう…だよな」と、クラウドは呟いた。軽く頭を振って、夢の残滓を体から追い出すと、どこかぼんやりとしていた焦点が定まった。クラウドは忙しく立ち働く母の姿を目で追った。
あそこのご主人は母親と同世代だ。なにしろ自分と同い年の息子──村のボス気取りでいつも2人の子分を引き連れて妙に突っかかってくる嫌な奴というのが息子に対するクラウドの印象だったが──がいるのだから。あまり愉快ではない思い出が脳裏に蘇り、クラウドはわずかに顔をしかめた。
「いいけど…なんで俺なんだ。息子がいたろ、あの家には」
気乗りしない風のクラウドにクラウディアは人差し指を突き付けた。
「だってあんた、ミッドガルで『なんでも屋』だかやってるんだろう?」
え、と虚をつかれたようにクラウドは大きく瞬きをしてからゆっくりと頷いた。
それはちゃんと覚えている──そう、俺はミッドガルで金次第でどんな仕事も請け負う『なんでも屋』を生業にしていたのだ。
「ああ、そうだ。ちゃんとやってるよ」
だが、猫を探したり、チョコボを探したり──という依頼内容は言わないでおいた。なんとなく、『なんでも屋』に対する母の心証が悪くなるような気がしたからだ。
「ちゃんと、ね。21歳か…立派になったもんだね」と言い、クラウディアは晴れやかな笑みを浮かべた。
「それなりにな」
今度はクラウドが大仰な表情を浮かべて肩をすくめて見せた。一転して上機嫌になった母は笑い声を立て、片付けを続けながら鼻歌を歌い出した。あまりに母が楽しそうにしているので、つられてクラウドも久しぶりに声をあげて笑った。
*
村を抜けた先にある雑木林の中をクラウドは歩いていた。どこからか鳥の鳴き交わす声や何かの動物の立てるカサコソという足音が聞こえた。足元は腐葉土と落ち葉でふかふかと柔らかく、忙しそうに木の実を集めるリスが時折目の前を横切っていった。まるで子どもの頃に戻ったみたいだとクラウドは思った。あの頃は裕福でない暮らしの中、家計の足しにときのこや木の実を集めたり、兎を狩るために山や森を歩き回ったものだ。
地面から突き出した木の根を跨いだ時、その木の根本にせっせと穴を掘っている1匹のリスと目が合った。リスは毛を逆立ててキーキーと威嚇の鳴き声を発した。その土まみれの鼻面の先には、地中に生える旨いきのこがあるに違いない。よく彼らのおこぼれに預かっていたのを思い出してクラウドは小さく笑みを浮かべると、「お前の食料を取りはしないよ」と呟いて、そっとその場を離れた。道具類を入れた重い袋の紐が、肩にきりきりと食い込んだ。
ニブル山に近づくにつれて森はさらに豊かになっていき、斜面には山葡萄がチラホラと見え出した。まだ粒の小さい緑色の実が房状に垂れ下がり、秋の終わりに収穫されるのを待っている。久しぶりにニブルヘイムの山葡萄で作ったジュースが飲みたかった。去年の分がまだ残っているか帰ったら母に聞いてみようとクラウドは思った。
太陽はすでに中天を過ぎたところだろうと思い、ふと上を見上げると、分厚く濃い緑の葉が重なり合って天然のひさしを作っていた。その隙間から見える空はやはりぼんやりと白く光っていた。不思議な天気だったが、クラウドはあまり気にしていなかった。ギラギラと太陽の光を反射して眩しいほどの日もあれば、雲に覆われ肌寒いほどの日もある──山の天気は気まぐれなのだ。それにクラウドの色素の薄い目は強い日差しに弱いため、明るすぎないのはむしろありがたかった。
ニブル山を抜ける道は頻繁に人の行き来があるらしく、傾斜のきつい箇所には丸太で作られた階段が設置されていた。また、ところどころ枝が払われ、見通しが悪くならないようきちんと整備されているのが見てとれた。
特に傾斜のきついあたりで、クラウドは補修が必要な箇所を発見した。先月の大雨のせいで地面がぬかるみ、丸太を割って並べただけの簡素な足場が浮いてしまっていた。確かにこれでは運の悪いものが足場もろとも斜面から転げ落ちてしまうかもしれない。出発前によろず屋のおやじに聞いてきた通りだ。
クラウドはまずは足場の半丸太を全て取り外した。持参した修繕道具の横にそれらを並べると、顎に手を当ててひとしきり思案した。やがて一つ頷き、クラウドはどっかりと腰をおろして杭をナイフで加工し始めた。時々杭と丸太を突き合わせては削る角度を調整していく。狙い通りに荒い削り面の杭のくぼみに丸太がピタリとはまると小さな満足感を覚えた。加工作業を終えたクラウドは、印をつけた場所に木の杭を打ち込んでいった。杭に丸太を嵌め込むと、外れないようにロープでがっちり縛る。出来上がった足場は、急拵えながらもなかなかのもので、これなら誰からも文句は出なかろうと思われた。
修繕を終えたクラウドは強張った腰をほぐしながら立ち上がった。木々の間をひゅうと鋭い音を立てて風が抜けていった。長時間力仕事をして火照った体にその心地よい涼しさがありがたかった。クラウドは肩に担ぎかけた荷物を再び地面に置くと、風の吹いてきた方にじっと目を凝らした。先にあるものに思い当たり、クラウドはそのまま足を進めてみることにした。はるか頭上から鋭い鳥の鳴き声が聞こえてきた。それはまるで警告のようだった。
木立を抜けると一気に眺望がひらけた。下を覗き込めば目も眩むほどの断崖絶壁が見渡す限り続いている。ニブル山の谷だ。この大きな谷には一本の古い吊り橋がかかっている。村の子どもは、絶対にこの橋を渡ってはいけないと、きつく親から言い渡されていたものだった。
橋の向こうは”死者が棲む山”だ──冬の間の農閑期に村の年寄りが子どもたちを集めた囲炉裏ばたでそんな話をしていたのを思い出す。今思えば子どもだけで橋を渡るような愚を犯さないようにという大人たちの方便だったのだろうが、子どもたちは体を寄せ合って恐怖に震えながらその話を聞いていた。ティファより一つ年上のクラウドは前の年にすでに同じ話を聞いていたため、少し気持ちに余裕があったのかもしれない。幼いティファは大きな目をさらに大きくして食い入るように大婆の語る言葉に聞き入っていた。その肩が震えているのに気がついて、クラウドがそっと手を握ってやると、ふくふくとした手で安心したようにきゅっと握り返してきた。
今、クラウドの目の前で、その吊り橋は谷底からの風にあおられてぎいぎいと音を立てている。橋の中ほどから先は白いカーテンがかかったようにぶつりと途切れていた。谷から湧き出る霧のせいだ。クラウドは頭を巡らせると、その霧が村を中心にぐるりとこの一帯を囲んでいるらしいことを知った。筆を乱雑に突き立てたような、特徴的なニブル山の峰々の姿も霧の中に沈んでいた。
橋の先には何があったろうか、と霧の先に目を凝らしながらクラウドは考えた。思い出せない。思い出せないが、何故だか胸の奥底でざわざわと騒ぐ気配があった。
かたり──クラウドが吊り橋の最初の横木に足を乗せると、まるで触手を伸ばすかのように霧はクラウドの方にも細い筋となって押し寄せてきた。霧はクラウドの体をすっぽりと包み込み、その冷ややかな腕で肌が撫でられるのを感じた。
この腕は霧の中に誘おうとしているのか、それとも──
突然背後から聞こえた草を踏みしだく音に、クラウドは肩をびくりと振るわせた。
ゆっくりと振り返ると、渦巻く霧の中からじわりと滲み出すようにして現れた人影があった。白いワンピースを着たティファだ。谷底からの風にあおられて、透かし模様のレースがふくらはぎのあたりで大きく揺れている。そういえば子どもの頃に似たような服を着ていたなとクラウドはぼんやり思った。
ティファは長い黒髪を片手で押さえ、真っ直ぐこちらに深い赤の瞳を向けていた。クラウドはピンと張り詰めた糸に引っ張られているような気がした。そろりそろりと橋を後退し、片足が揺れない大地を踏み締めた途端、クラウドは大きく息を吐いた。
ふわりと微笑んで──自分の価値を完璧に把握している微笑だ──ティファが言う。「久しぶり、クラウド」
ざらりとした感触があった。頭の中で焚き火の爆ぜる音がした。久しぶり──その言葉は小さな棘のようにクラウドの胸の奥底の柔らかい部分にちくりとした痛みをもたらした。
「ああ、ティファ…久しぶりだな」
なぜだか泣きたい気持ちになりながらクラウドが同じ言葉を返すと、ティファは今度は花が溢れるような笑みを浮かべた。
その笑顔がやけに眩しいような気がして、クラウドはわずかに目を細めた。
でも──ティファは、こんなに屈託なく笑うのだったろうか。
何かが間違っている──そう思ったが、世界がパチンと弾け飛んでしまいそうで、違和感の正体を直視することは怖くてできなかった。
「おばさんに聞いたの。クラウドが山にいるって。何してるの?」
ティファはキュッと口角を上げると、少し首を傾げて髪をかきあげた。クラウドの方に歩み寄りながら、勝気そうな目でクラウドの顔を下から覗き込む。クラウドは少し視線をずらして崖の方に目を向けた。
「…山道の修繕を頼まれてな」
クラウドは先ほど補修した道の方に顎をしゃくってから、ティファにちらりと目を向けた。
「『なんでも屋』なんだ」
その単語はティファになんの感慨も与えなかったようだ。ふうん、とティファは呟き、クラウドにもう一歩近づいた。クラウドの横から崖の下を覗き込み、「落ちたら大変」とおどけて言った。
クラウドがぎこちない笑みを返そうとしたその時、突風が吹き、ティファの華奢な体がぐらりとかしいだ。クラウドの脳裏に、血だらけで地面に横たわる幼いティファの姿がほんの一瞬浮かび上がった。まるで体中が鎖で縛り上げられたようで指一つ動かせない。クラウドはまなじりが裂けそうなほど大きく目を見開いて、目の前の光景に釘付けになっていた。口に中の広がる血の味にハッと我に返り、クラウドはようやく大きく足を踏み出すと、素早く手を伸ばしてティファの手首を掴んだ。そのままぐいと引き寄せると、クラウドは崖とは反対側に倒れ込んだ。背中が地面に打ち付けられた衝撃で、一瞬息が止まった。ティファが頭をぶつけないよう庇ってやるので精一杯で、受け身をとる余裕もなかった。
ティファの柔らかい体が汗まみれのクラウドの体にぴたりと密着したまま、2人は草地の上にしばらく横たわっていた。荒い息とばくばくと騒ぐ心臓の拍動で眩暈がしそうだった。クラウドは頬の内側にようやく痛みを感じた。舌の先で傷口をつつくと鉄の味がした。
「びっくりしたあ…」
長い沈黙を破ったティファの呟きは、どこか間延びして聞こえた。クラウドは思わずその体を抱く腕に力を込め、細いため息をついた。
「気をつけてくれ…」と言ったその声は微かに震えていた。
「大袈裟」
む、と軽く口を尖らせてティファは言い、体を捩ってクラウドの腕から抜け出した。その拍子に襟ぐりから大きく胸元が覗き、クラウドは慌てて目を逸らした。まじまじと見たつもりはなかったが、傷ひとつないつるりとした肌がクラウドの目を引いた。
「いきなり引っ張るからびっくりしたの」
立ち上がったティファは土埃をはたきながら、背を向けたまま呆れたように言った。
上体を起こしたクラウドは、自分の手がまだ震えているのに気がついた。
「落ちるかと思ったんだ…」
その言葉にか、神妙な口調にか。くるりと振り向いたティファは大きく眼を見開くと、「落ちるわけないじゃない」と言った。なおも強張った視線を向けるクラウドにくすぐったそうな笑みを浮かべると、ティファは続けた。「クラウド、なんだかパパみたい。さっきだってちょっと買い物に出るだけなのに家の外まで見送るって聞かなかったのよ?」
その言葉はクラウドに先ほど自分がレースのカーテン越しに見た光景を思い出させた。一人娘をあらゆる危険から守ろうと心を砕く父親の姿を。その姿は、離れて暮らす息子が自堕落な生活を送っているに違いないと探りを入れる、自分の母親のそれに重なった。きっとどこにでもある、親子の情景だ。その凡庸さに気がついて、クラウドは小さく笑みを浮かべた。
「心配なんだろ。ティファがそそっかしいから」
クラウドがそう言うと、「そんなことない」とティファが反論した。
指先で毛先を弄び、ティファは軽く口を尖らせて父親の過保護ぶりを続けて語り、時折あどけない顔で明るく笑った。その横顔を見つめながら、クラウドは腹の底がまたぞろざわめくのを感じていた。
「パパは私に傷ついてほしくないの。迷ったり、悲しんだりもね。でもそれってすごく難しいことじゃない? だって私はもう子どもじゃないんだから」
ティファがクラウドに笑いかける。傷や悲哀なんか一つもないというような顔で。
胸の奥に鈍い痛みを感じながら、「そうだな」とクラウドはどうにか答えたその時、冷たい風が吹いた。肌寒さを覚え、クラウドは体を震わせた。空が暗い。夕暮れが近いに違いない。だが、ティファの明るい笑顔から目を逸らすようにふり仰いだ視線の先は、またもやぼんやりとした白に阻まれて、クラウドは憂鬱なため息をもらした。
「…そろそろ村に戻ろう」
崖から離れ、山道へと戻る。道端に置いていた荷物をまとめて背負うと、クラウドは村への道を歩き出した──その時、何かに呼ばれたような気がして、クラウドはふと振り返った。橋の先には相変わらず霧が揺らめいていた。じっと目を凝らす。先ほどの鳥がもう一度鋭い啼き声をあげ、クラウドは目を瞬いた。
だが、どれだけ目を凝らしても、どれだけ耳を澄ませても、霧の向こうに何者の存在も感じられなかった。
すでに歩き出したティファを追って、クラウドは足を速めた。木立に遮られて崖の向こうが見えなくなるまで、何度も何度も振り返りながら。
*
暗くなる前にどうにかニブル山を降りた2人は、村の周りを囲むブナの林を足早に抜けていった。ようやく遠くに見えた家々の明かりはクラウドの心を暖かくした。
村への道を辿りながら、2人はぽつりぽつりと言葉を交わした。そういえば、とクラウドが来る途中で見かけた山葡萄のことを話題に出せば、「今年の夏は暑いから楽しみだね」と言ってティファは微笑んだ。
夏の暑さが厳しい年は葡萄の甘さが増す──ティファがわざわざ言わなかった部分を心の中で付け足して、クラウドは目元を緩めた。生まれた時から同じ村で過ごし、同じ季節を過ごしてきた。2人は同じ夏の暑さと冬の寒さを知っている。ジュースやワイン用に集めた葡萄をこっそり盗み食いした時に口の中いっぱいに広がった酸っぱさも、葡萄の汁でベタベタになった互いの顔に大笑いしたことも。
ざわざわと落ち着かない気持ちがなくなったわけではないが、久しぶりの帰郷に戸惑っているのだろうとクラウドは結論づけた。明日も明後日も──この先ずっとこんな穏やかな日々を過ごせば、そんな気持ちはいずれ輪郭を失っていくに違いない。水の流れに洗われて尖った石が丸くなっていくように。陽の当たる窓辺にそんな石をいくつも並べて、ぼんやり眺めたり手に取って慈しんだり──幸せとはそういう形をしているのかもしれない。
半歩前を歩くティファに気づかれないように小さく首を振ると、クラウドは思い切ってティファに声をかけた。
「あー…先によろず屋に行ってもいいか?少し…遠回りになる」
肩に担いだ荷物を示しながらクラウドが提案した寄り道に、ティファは嬉しそうに頷いた。
クラウドから受け取った布袋の中身の確認もそこそこに、よろず屋のおやじは意味ありげに目を上げた。その視線の先には、ニコニコしながら店の品物をあれこれ眺めるティファがいた。
「…頼まれた修繕は完了した」
ずいと前に出たクラウドが言うと、おやじはニヤリとした。おやじは今度は決まり悪げなクラウドの顔をじろじろと見つめ、「こいつはいいや」と破顔した。
「…何がだ」
「いやなに」
おやじは棚の上やらレジの横に手を伸ばし、目の前に積み上げ始めた。その中にはクラウドがかつて小遣いで買っていたガムなんてものもあった。村の日用品のみならず、情報──といえば聞こえはいいが実際は噂話だ──の供給拠点となっているこの店に2人で姿を現したのは軽率だったかもしれないとクラウドは思い始めていた。ため息が出そうになるのをグッと堪えながら、クラウドは素知らぬ顔でガサガサと音を立てて茶色い紙袋にお礼の品とやらを詰めるおやじの手捌きを見守るしかなかった。
「…お袋さん、喜んでたろ」
乱雑な音の中、独り言のような音量のその言葉はどうやらクラウドに向けられたものらしかった。え、と上げたクラウドの顔をちらりと見て、「都会に飽きたら戻ってこい」と続けたおやじは、縁までいっぱいに詰まった紙袋をクラウドの目の前に勢いよく置いた。
ぶっきらぼうなおやじからの不意打ちに驚きながら、クラウドは丁重に頭を下げて謝意を示した。今ならわかる。村での生活を息苦しいものにしていたのは自分自身だと。やり直せるものならやり直したい──クラウドはそう思った。
よろず屋を出ると、外は一段と暗さを増していた。いつの間にか点いていた、あちこちの街灯の明かりが村全体をぼんやりと照らしている。段々と夜の気配が濃くなる中、ティファの姿は仄かに光を帯びて見えた。ティファから見れば自分も同じ光を纏っているのだろうか。どこかふわふわとした気持ちを持て余すクラウドの顔を怪訝そうにティファは見た。
「おじさんとなに話してたの?」
「いや別に…」
小首を傾げて問うティファの言葉をクラウドははぐらかした。
「それより──」小脇に抱えた紙袋をがさりと鳴らして「缶詰やらお茶やら…ちょっともらってくれないか?」とクラウドが言うと、ティファはパッと顔を輝かせた。
「え、いいの?」
「ああ」
「ありがと。助かるな」
ティファのにこりと微笑んだ唇の形に思わず見惚れた──とその時、バタバタと羽音を響かせて、太った蛾が近くの街灯にぶつかった。拡大された蛾の影が一瞬、2人を掠めていった。その陰で、ティファの口が柔らかに動き、何か言葉を紡いだ。「────」
ひらひらと手を振り、ティファはスカートの裾を翻して軽やかにステップを駆け上がると、振り返らずに家の中に消えていった。その残像をぼんやりと見つめながら、クラウドは思った──”ママも喜ぶ”──さっきティファはそう言わなかったか?そんなことあるはずがないのに。
クラウドの頭の中で、燻っていた灰の中に埋もれた熾火がパッと弾けた。その光に照らされて、霧の中に暗い山道を一心不乱に駆けていく少女の後ろ姿が見えた気がした。死者が棲むというニブル山の向こうを目指して。あの少女はティファだ──消えない悲しみを抱え、それでも前に進もうとしている、あの少女こそが。
クラウドはぎゅっと目を瞑ると、軽く頭を振り、自分の家へと向かった。
クラウドが玄関のドアに手をかけた時、家の中から母親の楽しげな話し声が聞こえた。来客だろうかと思いながらそっとドアを開けて家に入ると、笑い声をあげる母親の背中が見えた。ここに相手はいない。
「もう…じゃあ切るよ」
かちゃんという音とともに振り返ったクラウディアは、クラウドの姿にわずかに目を見開くと、「あら、おかえり」と言った。
「ただいま」靴の泥を落としながら、クラウドはその手元にある電話の受話器に目を止めた。「珍しいな、電話か?」
「あんたにだったんだよ」
「俺?」
高額な通信料を払ってまでニブルヘイムに電話をかけてくるとは酔狂な人間だ。一体誰だろうと思いながら、テーブルの上によろず屋でもらった品物を置き、クラウドは洗面所に向かった。
蛇口から流れ出る水に手を浸す。日中とはまるで違う、冷たい感触にクラウドは思わず息を飲んだ。ゴシゴシと石鹸を肘から下の皮膚に強く擦り付ける。隅から隅まで綺麗に洗い上げないといけない──そんな気がした。クラウドがざあざあと水音を立てて泡を残らず洗い流していると、その背後からクラウディアが話しかけてきた。
「そうだ、ティファちゃんに会ったろ」
振り返って顔を見なくてもわかる。母の、平静を装った弾んだ声。
「ああ」と言葉少なにクラウドは答えた。
「本当に綺麗になっちゃってねえ」ほうとため息を漏らしながら母が続ける。「村でずっと待ってたよ、あんたのこと」
母の言葉に、クラウドはピクリと肩を動かした。
「それに──」
「母さん!」とクラウドはやや強めに、なおも楽しげな調子で話を続ける母を遮った。排水溝に飲み込まれていく水がつくる渦巻きを見つめながら、クラウドは微かな吐き気を覚えていた。
「俺に電話って?」
その硬い声音にクラウディアは一瞬驚いたような表情を浮かべ、やけに時間をかけて手を洗う息子を怪訝そうに見遣った。
「ザックスだよ。『なんでも屋』、一緒にやってるんだろう?」壁にもたれて腕を組んだクラウディアは何気なく言った。
”ザックス”
キュッと音をさせて蛇口を閉めたクラウドは、ぶるりと震えた。ゆっくりと振り向くと、母親の顔を穴が開くほど見つめた。喉が狭まったような感じがする。
「ザックスだって…?」
「そう。しかしまあよく喋る男だねえ。聞いてもないのに彼女との馴れ初めやら花屋の仕事を手伝った話やらあれこれ教えてくれたよ」
そう言いながら、クラウディアは苦笑を浮かべた。
「仕事の予定がどうとかで連絡したんだとさ。可愛い彼女とデートに行くから今度の仕事はあんたに任せたいとかなんとか」
ちゃんと伝えたよ、と付け加えると、母親はクラウドに背を向けた。
クラウドの頭の中でまた火がはじけた。無数の銃口が火を噴いたのだ。雨のように降り注ぐ弾丸は、しかしクラウドの体に届く前に全てはたき落とされた──いや、叩き損ねた一発の銃弾が、クラウドを庇う逞しい背中の持ち主の脇腹を抉る。呆然とへたり込むクラウドの頬に生暖かい血飛沫が飛び散った。
──あの血は、ザックスのものだ。
クラウドは視界がぐるぐると回るような感覚に陥った。背中をじわりと嫌な汗が伝う。頭の後ろで血管がどくどくと脈打っている。今にも足元が消えてなくなりそうな心地がした。無理やり唾を飲み下し、クラウドは母に声をかけた。
「…少し…風に当たってくる」
「外は暗いから気をつけるんだよ」
快活な母の声を背中で聞きながら、クラウドは家の外へ出た。地面に伏せていた灰色の犬が、目の前を通り過ぎるクラウドに向かってクウンと鼻を鳴らした。近くの街灯の灯りを受けて、犬の濡れたような黒い瞳がきらりと光った。
どうして気づかなかったのだろうと思いながら、ふらふらとした足取りでクラウドは村の外れへと向かった。村の外へと続く、ニブル山へと続く道を少し逸れると、思った通りそこには高い石壁と鉄柵で囲まれた場所があった。ほぼ真四角に村の一角を切り取って聳える壁の内側──その空間には、何もなかった。平らにならされた広い敷地の中で、まばらに生える草むらが乾いた風に揺れているだけだった。
そのがらんどうを前にして、クラウドは自分の家で目を覚ました時のことを思い出していた──右手が背中を探る──あるはずのものがないという、あの落ち着かない感じが鮮明に蘇る。
ざわざわと足元から見えない何かが這い上ってくるような気がした。乾いた舌が口の中で膨れ上がる。目をすがめると、はるか下方に続いていく石組みの螺旋階段が見えた気がした。そこから吹き上がる、湿った風に混じるカビ臭い匂いまでが鼻の奥に感じられないか──?
翡翠の色に染まった視界の中で、白衣を着た顔のない人の群れが蠢いている──そんな光景が頭をよぎった。肌が粟立ち、全身に震えが走った。
どこからか焼けた肉の匂いが漂ってきた。クラウドは胃がせり上がってくるような感覚を覚え、胸元を強く掴んだ。そうだ、これは恐怖と怒りだ。恐怖と怒りは、鮮明な像を伴って、クラウドの心の奥底から立ち上ってきた。
憂いを帯びた、けれど強い意志を秘めたティファの横顔が脳裏に浮かんだ。血に塗れ、雨に打たれてなお笑みを浮かべるザックスの安らかな顔と、一人きりで冷たい水底に沈んでいくエアリスの静かな顔も。
広場まで戻ってきたクラウドは、縋るような目で古い給水塔を見上げた。広場の中央に聳える給水塔は記憶の中のそれよりも随分と小さく感じられた。はしごを登った先には貯水槽を支えるための狭い足場がある。
クラウドはそこに腰掛けて足をぶらぶらとさせてみた。生ぬるい風がクラウドの髪を揺らした。見上げた先には白くぼやけた空があった。
星の無い空の下で、腹の中が空っぽになったような感じがした。それが寂しいという感情だと頭のどこかでクラウドは静かに理解した。
しばらくの間、クラウドは自分の家の窓から漏れる明かりを眺めていた。その中で朗らかに立ち働く母の姿を思い浮かべながら。
やがてくるりと踵を返し、クラウドはニブル山へと続く道を歩き出した。
──ばち、と火の爆ぜる音がした。この白い世界のどこか一点に火がついたのだ。
炎が踊り、黒い影が踊る。薄ら明るい林の中を駆けながら、クラウドはニブル山を目指した。かけがえのない者たちが大勢死んだ、山の向こうに戻るために。
黒褐色に変色した樹皮に覆われた樹々はねじくれ、さながら幽鬼のようだ。鳥や獣はおろか虫1匹見かけなかった。地面を覆う白っぽい土は乾き切り、谷底から風が吹くたびに空中に舞い上げられた。豊かな森は、もうどこにもない。
谷は、変わらずそこにあった。霧の中からこちらに伸びる古い木の橋も。その橋のすぐ手前に人影があった。
スカートの裾を風にはためかせながら佇むティファの姿を目にして、クラウドはようやく足を止めた。じっと見つめ合う2人の間に、びょうびょうと風が吹き渡った。
「通してくれないか」
クラウドが静かに言うと、ティファは首を振った。その大きな瞳から一粒だけ涙が溢れた。俺の代わりに泣いているんだと、クラウドの胸は鈍い痛みを覚えた。
「どうしても行くの?」
「ああ」と短く答えてクラウドはティファから目を逸らし、足を踏み出した。
ざりざりと砂の音を響かせて、クラウドティファの横を通り過ぎようとした。その横顔にティファが囁く。
「ここにいればお母さんにいつでも会えるんだよ。ザックスとエアリスにも会いたくない?」
「そうだな…」
ティファの言葉にクラウドは足を止めてうなだれた。
神羅も魔晄炉もない、ここは悲しいことが起こらなかった世界──自然も、そこで暮らす人々の生命も損なわれることのない、穏やかで満ち足りた暮らし。すでに徹底的に破壊され、永遠に戻ってこないと思っていたそれらが何の因果かクラウドの目の前に差し出されたのだ。緑に揺蕩う夢の中で。いつまでもここで微睡んでいられたらどんなにいいか。だが──
「でもそれは本物じゃない。あんたも…」
「言わないで」か細い声でティファが言う。
「あんたも…本当のティファじゃない」
ライフストリームの中の束の間の夢──俺の弱い心がつくった幻だ。
顔を上げたクラウドがきっぱりと言うと、霧が吹き払われるように、ティファの姿は千々にちぎれて消え去った。そのあとには見慣れた一振りの剣──バスターソードが残されていた。クラウドは、地面に深々と突き刺さったそれを引き抜いた。慣れた仕草で剣を背負うと、クラウドは橋の先、霧の向こうに目をやった。クラウドは橋の上をずんずん進み、霧の中に入っていった。背後からはごうごうと炎の燃え盛る音がする。誰かの悲鳴が聞こえた気がして、クラウドは歯を食いしばった。あの声は母かもしれない。今駆け寄れば助けてやれるかもしれない。今度は間に合うかもしれない。
だがクラウドは知っていた。過去には決して追いつけないことを。
一歩進むごとに体が鉛のように重く感じられ、体のあちこちが痛んだ。それでも進まなくてはならない。受け取ったものを放り出すわけにはいかないのだから。
*
涙でぼやけた視界が真っ赤に染まっていた。クラウドが目をしばたくと、まつ毛に宿った涙が飛び散り、殺風景な岩肌に囲まれた窪地に自分が立っていることに気がついた。霧は、晴れていた。ニブルヘイムの幻は、跡形もなく消えていた。
クラウドはその場に膝をつき、嘔吐した。胃液しか出ない胃がひきつけを起こしたように痛み、腹を抱えてうずくまった。
クラウドはきつく目を閉じた。起きたこと、起きなかったこと。あらゆる光景がでたらめな紙芝居のように脳裏を駆け巡る──
神羅が魔晄炉を造らなければ、ソルジャーなんてものを生み出さなければ、あんな穏やかな日々があったのだろう。
いや──もっとささやかな可能性がクラウドの頭をよぎった。それはゾッとするほど現実味のある、ありえた未来だ。
ザックスは重い剣とお荷物でしかない魔晄中毒の自分を抱えてミッドガルを目指した。彼にはいくつもの選択肢があった。
そうだ──俺が魔晄に負けなければ、ソルジャーなんてものを目指さなければ。俺が、いなければ。
きっとザックスはうまく切り抜けられたはずだ。そしてミッドガルにたどり着き、エアリスに再会できた。ザックスならばセフィロスからだってエアリスを守れただろう。
世界はもっと、マシなものになっていたんだ。
抜けるような青空の下で、大きな口を開けて笑うザックスと、その隣で柔らかく微笑むエアリス…そんな光景が頭に浮かんだ。
──俺が、その可能性を奪ったんだ。
「…ザックス…どうして俺を選んだ…?」
喉の奥から絞り出すように、クラウドは呟いた。土に汚れた頬を這う、涙の筋の上を真新しい涙がこぼれ落ちた。乾き、ひび割れた唇がその涙に触れると、ピリリとした微かな痛みを感じた。
右手の指の関節が軋んだ。クラウドは、のたうちまわりながらも自分の手がバスターソードを決して離さなかったことに気がついた。緑の夢の中でまどろんでいた最中ですら。
ずしりと重たいその剣は、ザックスからクラウドへと受け継がれる中で全てを見てきたのだとクラウドは今更ながらに思い至った。血と炎に染まるニブルヘイムも、ザックスに降り注ぐ銃弾の雨も。そしてセフィロスの凶刃にエアリスが倒れるその瞬間も。
己に託された剣を支えにして、クラウドはじりじりと前に進んだ。今足を止めて仕舞えば、永遠に動けなくなる気がした。上を見上げると、燃え上がる空の片隅に残された一つの星が静かに光を放っていた。
谷底から這い上がると、昇りゆく朝日を受けてますます赤く燃え上がるメテオが目に入った。深い深い、紅。光の屈折の加減で巨大な隕石は揺らめいているように見えた。その色と相俟ってまるで脈打つ心臓のようだ。
その光景を背に、ティファが立っていた。はぐれた自分を探していてくれていたのだろう。両の拳を握り、厳しい瞳で彼方を見据えているのが顔を見なくてもわかる。
──ああ、ティファだ。
身体中に傷を抱え、それでもなお戦うことを選んだ人。
そして、苦境にある時も他の人間に何かを差し出そうとするティファの姿が、自身の奥深くに刻まれているのをクラウドは発見した。自分もそうやって救われてきた。悪臭を纏い、泥と血に塗れた自分に差し伸べられた、あの手の美しさをクラウドは想う。そうだ、確かに俺はティファとミッドガルのスラムの片隅で再会したんだ──。
大事なものを失い続けたこの世界が、クラウドは堪らなく愛しいと思った。同時に耐え難い痛みが胸を突き刺す。
きっと俺は何度でも選ぶだろう。
数多の人々の絶望と嘆きに彩られた道だとしても、その先に君が待っていると知っていれば──
ここまでお読みいただきありがとうございます😊
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