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悪食(18) FF7二次創作小説

注意書き:FF7エバークライシスのバハムート衣装に着想を得て書いた二次創作小説です。いえ、二次創作小説のはずだったんですけど、設定とか話が独特すぎて二次創作とはいえない感じに仕上がっています。
…ですが!話も佳境に入り、二次創作と銘打っている所以がついに明らかになっています。

第一話のリンクはこちら。

第十八話 ※グロテスクな表現があります


僕は、目の前にぽっかりと口を開ける四角い穴を静かに見つめていた。常時施錠されているはずの第七天へと続く扉は大きく開け放たれている。
教授の仕業だろうかという考えが脳裏をよぎったが、そんなことはもうどうでもよかった。この先にティファが待っている、それだけが僕にとって大事なことだった。
物言いたげに赤い光点が明滅する天井の監視カメラに一瞥をくれると、僕は第七天へと続く通路に足を踏み入れた。

紫色の血で汚れた患者衣はボロ布のようで、今にも千切れそうになりながら、かろうじて僕の体に引っ掛かっている有様だった。煩わしい──僕はその布切れを引き裂き、体から払い落とした。
がさ、という感触に僕はぼんやりと自分の手のひらを見つめた。肉体が変質した際の名残らしき乾いた血の塊が指の先に張り付いていた。まるで炭のようだ。指と指を擦り合わせると、その塊は紫色の光を発しながら粉々に崩れ去った。

ゆらり、ゆらりと体を揺らしながら、僕は暗い道を進んでいく。僕の内部で何かがぎしぎしと唸っている。一歩前に進むたびに、背中が裂けていくような痛みが走った。
──と突然、ざあっと音を立てて冷たい水が僕の体に降り注いだ。内部で熱がうねっている体にはその冷たさが心地よかった。その感触に一瞬意識が鮮明になる。ああ、そうか……これは第七天に入る前の消毒液だ。
しばらくの間、僕は自分の体を覆う、黒々としたいびつな鱗の上を水滴が伝い落ちていくのをただ眺めていた。鱗の境目が作る窪みに集まった水滴は一つにまとまって、勢いを増してさらに下へと流れ落ちていった。遠い昔に見た窓の向こうの光景がふと頭に蘇る──雪山を滑って遊ぶ子どもたちのカラフルな上着の色、斜面の終点でひとかたまりになって笑い声を上げる彼ら…。どうしてだろう、林檎の匂いが一緒に思い出された。そして、ひんやりと心地よい誰かの手も。あれは一体誰だっただろうか──?

水が止まり、静寂が訪れた。いつの間にか痛みがおさまっていた背中を触ってみると、菱形のプレートが背骨に沿って並んでいるのがわかった。さっきまではなかったはずだ。腰のあたりのプレートをぐいぐいと揺すぶってみると、その揺れは体の内部にも伝わった。体内から突き出た椎骨の棘突起でできた構造物なのかもしれない。じわり、とまたぞろ熱が僕の内部でうねり出す。その熱に押し流されて、瑣末な思考は全て溶けて消えていった。

力を込めて前方を塞ぐドアを押すと、内部で何かが折れる音がした。耳障りなビープ音が鳴り響く小さな部屋を後にして、僕は先へと進んでいった。

最後のドアを開けた瞬間流れ込んできた緑の匂いに自然と口元が綻んだ。
夜の庭園にはところどころ照明が灯っている。辺りはきらきらと輝いているようで、胸いっぱいに空気を吸い込むと、新しいエネルギーが体中を巡るのが感じられた。舗装された通路から外れ、草むらを踏み越えて、僕はただまっすぐに歩いていく。この先に行けば幸福が待っているという確信が僕の足を急かす。
進めば進むほど、体も心も軽くなっていった。なんて気分がいいのだろう!

バタバタという軽い羽音の気配にふと足を止めた時、僕はあたりに漂う甘い香りに気がついた。ほの白く発光しているかのような、放射状の細い花弁を持つ変わった形の花がいくつも地面に散らばっている。羽音を追っていくうちに、その花が房状に連なって枝から垂れ下がっているのを、僕は頭の上に発見した。羽を広げた巨大な蛾が、花と花の間を忙しなく飛び回っていた。

僕の視線の先に、花と蛾を見上げる人影があった。
皺だらけの白衣がほんのりと暗がりの中に浮かび上がっている。心の奥底に、チリチリと微弱な電流が走った。警戒心が首をもたげる。僕は目を細め、足を止めた。体内の熱がわずかに鎮まり、思考が浮上する。

「この蛾はもうすぐこの世界から消える。豊富なライフストリームを含む水場がないと生きていけない、脆弱な種……バハムートと同じだ」
平板な声でそう言いながらこちらを向いた灰色の顔、その目を隠す色つきの眼鏡は二つの穴のようだった。明かりを受けて眼鏡がぬめりとした光を放つ。
僕は口を閉ざしたまま、銀色の樹皮を持つ細い木の幹の影からその人物を──教授をじっと見た。
教授の目の前で、1匹の蛾が緩やかな螺旋を描く口吻を花の真ん中、奇妙に捻れた蜜壺の一番奥へと差し込んだ。蛾は太った体を震わせかと思うと、翅をばたつかせて花から離れ、別の花へと向かった。その顔には黄色い花粉がたっぷりと付いていた。
「蛾に受粉を極度に依存するこの白い花も同じく絶滅する。もうすぐな。君も今のうちに見ておきたまえ。観察だよ、観察こそが研究の本質だ」
教授は手近な白い花をむしり取ると、花弁を、雌蕊めしべを、雄蕊おしべを、ばらばらに分解していく。そして、すりつぶした花をのせた手のひらに顔を寄せ、鼻をヒクヒクと蠢かせた。滲み出た蜜をべろりと舌で舐め取ると、「甘いな」と呟いた。
舞い戻ってきた蛾が教授の顔の前を横切った。教授は素早く手を伸ばしたが、蛾はその手を逃れ、もっと高いところへ飛んでいった。
きっと蛾を捕まえていたら、花をむしるのと同じように教授は蛾の体もバラバラにしたのだろう。僕にはその様子がありありと想像できた。
微かに吐き気を感じる。早くここから立ち去りたい。だけど──

僕は明かりの元に姿を晒し、教授の顔を静かに見つめた。体は早く先へ行きたいと訴えているのに、何かが僕の足を引き留めている。
教授は僕の全身をじろじろと眺め回すと、片頬だけを引き上げて、唇を大きく歪めてみせた──笑っているのだ。
「……これは興味深い。……さあ、病院にいる間にあったことを詳しく教えてくれないかね? 血液データは回してもらっているが、本人の口から聞きたいのだよ。あそこのカメラの解像度はいまいちでね」
ため息をつきつつ、教授はひらひらと片手を振った。”こんなデータではダメだ”と報告書を見て言うのと全く同じ仕草だ。
カメラという単語に嫌な予感を覚え、僕は体を硬くした。

「単に体液を注入するだけではダメでね。1例を除いてこれまで何度やってもうまくいかなかったのだよ。被験者はここが──」教授はとんとんと人差し指で自分のこめかみを叩く。「おかしくなったり、全身が黒い液状になって溶けてしまったケースもある。一体何が違う? 君と、彼らと。なんら──そう、なんら特筆すべきところのない君が選ばれるとは思っていなかった。まあ、肉体や頭脳の優秀さはさほど関係がないということなのだろうな」
ソルジャー制度は無駄だったかな、と付け加えて教授は肩をすくめてみせた。

沈黙が落ちる。リーリーという虫の鳴き声が聞こえ、すぐに止んだ。その時、さく、と草を踏みしだく音がした。
ピンと張られた糸に引っ張られたみたいに僕がハッと顔を上げた時、木立の間の闇の中から滲み出るように、一体の竜が現れた。腰まで届く長いたてがみに赤い双眸……ティファだ。
僕は彼女のしなやかな動きを目で追う。しかしティファはこちらを見ない。

「おお、来たか」と、にんまりと笑みを浮かべた教授は猫撫で声で呟いた。
教授が懐から取り出した携帯端末をチラつかせると、ティファの首に嵌められた電子錠がチカチカと点滅し、彼女の瞳から生き生きとした光が消えた。
一切の表情を無くしたティファは従順に膝をついた。皺の目立つ教授の指がティファの顎を掬う。僕はそれ以上見ていられなくて目を背けた。
それを見た教授は、ああ、と何か思いついたふうな忍び笑いを漏らした。下卑た笑みを浮かべ、僕の顔に目線を据えて囁く。
「……異種間交配! 君の場合は少々特殊だったな」
じわ、と頬が熱くなるのを感じ、僕は顔を歪めて目を伏せた。観察﹅﹅──見られていたというわけか。何もかも。
こちらの羞恥などお構いなく教授は言葉を続ける。
「恥じることはない。素晴らしいサンプルの提供に感謝したいくらいだ。映像と、体液と。いずれにせよ興味深い! 体が変わっていくというのはどんな感じがするものなんだね? ん?」
僕は何も答えない。
教授はティファの鬣を鷲掴みにすると、ぐいと引っ張った。露わになったティファの喉元、その剥き出しの白さが僕の目に突き刺さる。胸が痛い。目が熱い──食いしばった歯が割れる音を立てていた。
「そうだ、もう一つ」
そう言いながらパッと教授が手を離すと、ティファは草の上にどさりと倒れた。
僕は咄嗟にティファの元へ駆け寄り、その肩にそっと手を触れた。顔を地面に伏せたままの彼女の冷たい肌がごく静かに上下していた。
薄ら笑いを浮かべて僕たちを見下ろし、教授は続ける。
「もう一つ……産地の影響はあったかもしれんな。君の出身地……あそこはいい土地だ。ライフストリームが豊富で、水場も多い。いや、多かった、というべきか。そうか……同じ地で生まれた者同士の……相性か? 君と……ティファ! 君たちは同郷なのだよ。待てよ……もしやライフストリームに流れる情報に地域ごとの偏りがあるのか? おお、いいぞ!」
徐々に上擦っていく声で長々と語る教授は、今にも歌い出しそうなほど上機嫌だ。大きく手を振り動かしながら、草の上を歩き回る。
「ふむ……再現性があるとなれば検討する価値はあるな。君もそう思わないかね?」
教授は白衣のポケットに両手を入れ、こちらを見た。その顔には晴れやかな笑みが浮かんでいる。新しいおもちゃを手に入れた子どもみたいに。
頭の中が麻痺したように、僕は何も考えられなくなっていた。だが、教授の言葉には微かな引っ掛かりを覚えた。
「再現性……? なんのことです?」
しゃがれ、ひび割れた声が僕の喉から発せられた。どくどくと拍動が体内に響いた。ひどい耳鳴りがする。
「君も科学者の端くれなら自分で少しはものを考えられないのか?」教授は馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らすと、続けて言った。「……まあいい。君で2例目ということだよ、ニブルヘイムの男が良好な結果を示したのがね」

”ニブルヘイム”──教授の口から出てきたのは、僕の故郷の名だった。

僕の脳裏に、ぽつんと黒い点が浮かぶ夕焼け空が浮かんだ。点は、翼をもつ人のように見える──意識の内側で僕は懸命に目を凝らすけれど、細部を捉える前にその点は山の向こうへ消えてしまった。
残ったのは、何もない空だけだ。

「崖から落ちでもしたのか腹から下がほぼちぎれかけていた瀕死の男がいてね……アイデアを試すのにちょうどいいと思った。あの時移植したのは……そうそう。孵化寸前の幼体を丸ごとだ。その男は、溶けて泥状になることもなく見事に再生した。翼をもつ、バハムートの形で!」
カッと目を見開いた教授は次の瞬間、がくりと肩を落とすと、心底残念そうに首を振った。
「随分前になるが、記録映像に残しておかなかったのを今でも悔やんでいるよ。捕獲し損ねたのもね」

──その男は僕に似ていましたか?
そう訊いてみようかと思ったが、きっと教授は覚えていないだろう。サンプル﹅﹅﹅﹅の顔なんて。

”ソルジャーになれよ”という明るい声が僕の耳に蘇った。背中をグッと押す、僕を励ます力強い手も。
もう顔も思い出せない彼の温かさも、顕微鏡越しに見る細胞への愛着も、朝靄の向こう側に立つ研究所の静かな佇まいも、何もかもがこのからっぽの空に通じていたのかと思うと、僕は息が詰まった。

何もない空が落ちてくる──

「雄のバハムートを、人工的に造る。この、私が……! ようやく光が見えてきた」
戯れに手の中の端末をいじりながら教授はうろうろと歩き回った。
「また…ニブルヘイム出身のサンプルを手に入れないとな。それに比較のために他の地方のサンプルも。両方をティファと交配させ、何が起こるか見てみなくては。結論を得るためにはサンプル数はどれほど必要だ?」
その口からぶつぶつと漏れる独り言──僕にはその意味がわからなかった。

ただ、その邪悪な音の羅列をティファの耳に入れまいと、僕は彼女の頭を震える腕の中に抱え込んだ。弱々しく首を振りながら、僕は彼女に言い続ける──大丈夫だ、と。
のろのろとティファは片手を持ち上げると、僕の頬にそっと触れた。
ティファが囁く。あいたかった、と僕たちにしかわからない言葉で。ティファの指の腹が僕の頬を優しく撫でる。ほんのりとした温かさが肌の上に残った。その温かさは、鱗と化した僕の肌を透過して、ずっと奥の方まで沁み込んで行った。ごとり、と心臓が跳ねる。

冴えざえとした冷たい光があたりに満ちていた。
僕が見上げた先、透明な屋根の向こうには星々の輝きがあった。たなびく雲が月の周りに暈を作っている。大きく目を見開くと、まなじりから熱い涙がこぼれ落ちた。
遠い宇宙の彼方から響いてくる歌が聞こえた。この星の内部を満たすライフストリームの流れに乗って、僕たちはどこへでもいくことができるのだと歌は教えている。

僕はティファの手を握りしめた。強く、強く。

教授は何もわかっちゃいない。
人間がバハムートに変身するんじゃない。
僕とティファは元々一つの生き物だったんだ。
ニブルヘイムのライフストリームの中で、僕たちは2つの命に分けられた。
一対の翼を分け合った半身が僕の魂を呼び起こす──

ああ……ティファは全部知っていたんだ。生まれる前に僕が忘れてしまっていたことまで、全部…

可哀想な父さん──父さんは半分だけ僕と同じ。だからきっとああなった﹅﹅﹅﹅﹅
だけどヒトとの混じり物のような半端な姿のバハムートは完璧とはいえない。母さんはある意味正しかった。

めき、と僕の内部から発した鈍い音があたりに響いた。その衝撃に僕は呻き声をあげた。
体が作り替えられていく──
血管が裂け、また繋ぎ合わさった。あたりに飛び散る血が、紫色の閃光を放つ。肌を覆う黒い鱗がざわざわと波立ち、美しく整列した。ぼとり。胸のあたりの皮膚が剥がれ落ちた。剥き出しになった真皮は、噴き出した血と硬く結びついて頑丈な装甲板となった。ぎ、ぎ…と軋む音とともに爪が伸び、蹴爪が生えた。肩甲骨のあたりが燃えるように熱くなったかと思うと、骨の瘤が皮膚を突き破って現れた。瘤は見る間に成長し、破裂した──中から出てきたのは、粘液でねばつく紫色の皮膜を持つ竜の翼だ。
体の平衡が狂ったせいか、僕は一瞬よろめいた。

教授が静かに後ずさりながら、醜く歪んだ顔で笑い声を上げる。
「あは…ははは…く、ひひ…! 雄のバハムート……最高のサンプルだ! ティファともどもここで永遠に飼ってやろう」
その言葉に潜む純粋な悪意、それが僕の背筋を凍させた。

──この男を生かしておいてはならない。
首を押さえ、青白い顔で浅い呼吸を繰り返すティファを背中に庇いながら、僕は教授に向かって距離を詰める。
新しい肉体が急な動きに悲鳴をあげるが、僕はそれを無視して地面を蹴り、未だ焦りの見えない教授に肉薄する──
「……!?」
急に体から力が抜け、僕はその場で膝をついた。
ポケットの中をカチャカチャと鳴らしながら、教授がゆっくりと近づいてくる。
「よく効くだろう? バハムートの細胞の機能を一時的に阻害する薬剤だ。病院で仕込んでおいてよかったよ。ははっ!」
悦に言ったように教授は言う。余裕を隠しもせず。
教授の片方の手には端末が、もう片方の手には環が開いた状態の電子錠が握られている。見せびらかすように教授はそれらを軽く振ってみせた。
「お前にも揃いの首輪をはめてやろう」
教授の靴先が僕の胸を突く。ごろりと僕は仰向けに寝転がされた。指先ひとつ動かせないまま、僕は教授を睨みつけた。せめてもの抵抗として。

その時、僕ははっとした──目は動く──僕の頭部はまだ人間のまま﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅なのだ。

教授が僕に覆い被さる。眼鏡の奥のその目には、知識への、この世の真理への底知れぬ欲望がぐるぐると渦巻いている。かつて僕の中にあったのと同じ種類の欲望が。
「さあ、実験のやり直しだ。人間を、完璧な生物に造り変える…そのメカニズムを明らかにするのだ!」
己の勝ちを確信している教授はうっとりと呟いた。
僕は乾いた唇をゆっくりと開く。
「……ニブルヘイムの竜は不完全だったのでは?」
教授は体をぴくりと動かした。その顔に怪訝そうな色が浮かぶ。
「なんだと?」
「あなたは知らない……完璧なバハムートだけが持つ真の姿を」
秘密を打ち明けるように、僕は掠れた声でひっそりと囁いた。
教授は食い入るように僕の言葉に耳を傾けている。
「ニブルヘイムであなたが造ったのは、紛い物﹅﹅﹅だ」
教授は、今やぶるぶると震えていた。唇がわなわなと開いては閉じた。髪を振り乱し、けえっと鳥のような奇声を発すると、教授は僕に飛びかかった。
「……教えろ! 教えろ!! 何を見た!」
「……う…!」
「貴様が…貴様如き……くそっ、くそ! 何を知っている!? 早く言うんだ!」
僕の首をきつく両手で絞めながら、教授は唾を飛ばして喚き続ける。
ぽん、と草の上に何かが落ちた。教授の手から離れた、電子錠と端末だ。
僕は目を見開く──かかった!──その瞬間、教授の後ろに音もなく滑り出た影があった。
「お前は──がっ……!」
僕の上に馬乗りになり、なおも喚き散らす教授の喉から突如鮮血が噴き出し、ごぼりと音を立てた。ぐらりと傾いだ教授の体の向こうに、爪を水平に構えたティファの姿が見えた。たった今教授の頸動脈を抉った爪から、血の雫が地面に落ちた。赤い瞳に鋭い光を宿した彼女は、倒れかけた教授の頭を鷲掴みにすると、軽々と宙に持ち上げる。
僕は自由になった首をさすりながら、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
「こん──で、なぜ──お────」
驚いたような目で教授は僕を見下ろしている。
その口からぶつぶつと漏れる今際の際の言葉の意味は、ほとんど僕にはわからない。
ティファがその手に僅かに力を込めると、教授の頭蓋骨が不吉な音を立てた。一瞬小刻みに震えたかと思うと、力が抜けたように教授の体はだらりと垂れ下がった。まだ動作を止めない心臓の鼓動に合わせて首から吹き出す血が地面を染める。血飛沫の勢いが弱まると共に、その目から光が失われていった。またぐらが失禁した尿で濡れ、すえた匂いがほのかに漂った。
顔色ひとつ変えずにティファは教授の体を地面に放り投げた。ぱき、と骨の折れる軽い音がした。
手足がおかしな方向にひん曲がった教授の体にはもう目もくれず、ティファは首に嵌められた電子錠を破壊すると、せいせいしたというように鬣を振った。

ふわりとティファが僕の元に駆け寄ってくる。
まだ体を動かせない僕の頭を慈しむように触れ、彼女はにこりと微笑んだ。その首には、長く枷がはめられていたせいで濃い色の痣が残っていた。
撫でてやりたいと思ったが、腕が持ち上がらない。
ずっとずっと待たせて悪かった──僕がそう小さな声で呟くと、ティファはふるふると首を振った。その瞳から一粒の涙が溢れ、ティファの頬に淡く光る軌跡を描いた。

その光景を最後に、僕は瞼を閉じた。

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