悪食(11) FF7二次創作小説
FF7エバークライシスのバハムート衣装に着想を得て書いた二次創作小説です。第一話のリンクはこちら。
第十一話
ぽたり、とどこかで雫が落ちた。夜遅く人気のない実験室で、その音はまるで形と重さを持っているみたいにはっきりと聞こえた。
不規則に、断続的に響く音の出どころを確かめたいと思ったが、振り返った先に何か予期せぬもの……いや、予想通りのものが僕を待っていたら──
僕は小さく首を振ると、手元に意識を戻した。両手を軽く開いたり握ったりすると、よく肌にフィットした水色の使い捨てグローブがキュッという音を立てた。ふうと息を吐く。さあ、もうひと頑張り。集中だ。
砕いた氷に挿して冷やしてあったプラスチックチューブの蓋を開け、その中身を慎重にシャーレに移した。薄赤い色をした培養液と一緒に流れ出たのは、黒っぽい塊だ。その上を交差するように両手に持ったメスを走らせる。メスの刃が素早く動くたびに、塊は形を失っていった。切り離された組織の断片が培養液のなかにふわりと舞い、そして沈んだ。
この塊は腎臓だったもの。未処理のあっちのチューブには肺だったもの。骨髄からとった細胞はすでに細胞培養器の中だ。
──ばらばらになった体には、ばらばらの魂が宿るのだろうか。
そんなことを思った瞬間、ぎっという感触があった。余計な力が入ったせいで、右手に持つメスの刃がシャーレの底に食い込んでしまったのだ。
頭の中で、シューッという蒸気の漏れる音が聞こえた気がした。ばらばらにされたバハムートの体は、プラスチックバッグの中で再び一つにまとめられて熱された後、焼却炉に放り込まれるのだ。1日の終わりの雑務として。
胃液がせり上がり、僕の食道を酸で灼く。口の中に苦い味が広がった。涙を滲ませながら嘔気をなんとかやり過ごし、僕は荒い息をついた。もう無理だ──そう思ったが、こんな作業は今まで何度もこなしてきたはずだ。今更、今更──!
顔に熱が集まるのを感じながら、苛立ちに任せてメスを引いた。シャーレの底にぎりぎりと深い傷が刻まれる。その傷は、僕に解剖台の表面に走る数多の傷を思い出させた。名前もなく生きて死んでいった彼らの墓碑銘……
メスを動かす手が止まった。
培養液の中で、腎臓だったものの破片がゆらゆらと揺れている。緑のポッドの中でゆらゆらと揺れる人の形をしたモノたち、生命を構成する要素だったモノたち。
揺れているのは僕自身だった。手が小刻みに震え、右手のメスの刃の先端を伝ってシャーレの中の培養液の海にさざなみを作り出している。
初めて見たバハムートの解剖は、僕の中身をすっかり変えてしまった。
──いや、違う。以前の僕だったらきっとはしゃいでいたはずだ。解体をやらせてくれと言い出しすらしただろう。ティファに会う前の僕ならば。
死体の頭に被せられた袋の下には誰の顔があった?
視界が回っていくような感じがした。薬──何か薬を飲んだ方がいい。確かデスクの引き出しのどこかにアスピリンの小瓶を放り込んであったはずだ。
立ち上がろうとしたその時、膝の力が抜けた。思い切り体がぶつかり、実験台が大きく揺れた。ガチャガチャと派手な音を立てて、シャーレがひっくり返り、メスが床に落ちた。シャーレの下に敷いたペーパータオルに、こぼれた培地が飛び散ってまだら模様を描いた。その真ん中に、黒い塊がごろりと転がった。僕は反射的に手を伸ばしかけ、そしてやめた。腎臓の破片……汚れてしまったからこれはもう実験には使えない、ゴミになってしまったものだ。
いつの間にか、吐き気も視界の揺れもおさまっていた。今、僕の中に居座っているのは暗い穴のような空虚さだった。朝、僕を満たしていた明るい気持ち、望みに向かって進んでいこうという前向きな展望もその穴の中に消えた。Do your best──くそ喰らえ、だ。
穴の中から、どす黒い色をした霧が噴き出している。
たった今、僕が無駄にしたのは、ささやかな科学の進歩なんかではない。胎児のような姿勢で体を丸めたバハムート、うなりを上げる電動のこぎり、滅菌缶の中で弾け飛んだ緑色の卵。
僕は深い息を一つ吐くと、使い捨てグローブを脱ぎ、実験台の上にそれを放った。バハムートの体から抉り取ったものに囲まれて、この先どうしていけばいいのかわからなかった。
僕が信じた光は、なんだったのだろう?そのあまりに強い光に照らされて、僕の後ろにはくっきりとした濃い影が伸びている。よく目を凝らせば、影の中には生命の抜け落ちたたくさんの塊が転がっていた。人間が、せっせと築き上げてきた屍の道。
ふと上げた視線の先、実験台の奥に積み重ねられたシャーレと、ラックに立てられた何十本もの遠沈管の間に、ありえないものを見たように思った。
「………っ!」
声にならない声が漏れた。
実験台の暗がりからこちらをじっと見る、誰かの陰鬱な顔……あれは、僕を責めるバハムートの赤い瞳──違う、違うよ、ティファ……あれは君じゃないんだ…
──もう無理だ。
僕は実験台に背を向けて駆け出した。
4………5………
エレベーターは上がっているようでもあり、下がっているようでもあった。順に点灯していく階数パネルをぼんやりと見る。内臓が浮き上がるような軽い浮遊感が、僕の目眩に拍車をかけていた。
僕は、発泡スチロールの箱の中で溶けていく氷と、温い水に浮かぶサンプルチューブのことを思った。その中に入っている肺の細胞は、僕がこうしている間にゆっくりと死んでいくだろう。
ふと目に入ったエレベーターの中の鏡に映る僕は、げっそりとして顔色が悪く、あちこちに飛び跳ねている髪の毛はいつも以上におさまりが悪かった。それでいて落ち窪んだ目だけが妙な生気に満ちていて、その異様な風体に自分でもぎょっとした。
僕は咄嗟に鏡から顔を背け、視線を落とした。その時、「あ」と心の中で呟いて、僕は薄汚れた白い襟元をそっと握りしめた。実験用白衣を着たままだ。実験室から飛び出した後、何も考えずにエレベーターに飛び乗ってしまったから。僕は胸元のボタンをしばらくいじったのち、手持ち無沙汰になった両手を白衣のポケットの中に突っ込んだ。自分の中に一瞬生じた焦りに対して自嘲の笑みがもれる。今更、ちっぽけなルールを破ったところでなんだというのだ。
──ここを辞めよう。はっきりとその可能性を意識してみれば、僕の逃げる先はこれしかないという気がした。せっかく掴んだ憧れの職を手放す口惜しさと、彼らを殺すことへの葛藤が嵐のように渦巻いて、その真ん中で科学への信頼と僕自身の好奇心は今にも折れそうになっていた。全部手放して楽になれたら……
僕のせいで中途半端に使われた命と、これからも消費されていくであろう命のことを思い、僕はしばし目を伏せた。
ここの研究所から去る前に最後に一目、ティファに会いたいと思った。だけど僕はソルジャーじゃない。首からぶら下げた「一般兵」のIDカードにちらりと目をやる。その時、体が沈み込むような感覚があり、エレベーターが止まった。するすると扉が開く。
いつだったか先輩が調達してきたみたいに高レベルのゲスト用IDがあればよかったのだが。でもあれは、あちこちに顔が利き、受付嬢にウインク付きでこっそり便宜をはかってもらえるあの人だからできた芸当だ。それに、偽のIDでティファの前に立ちたいとはもう思えなくなっていた。それでも、僕はここに来てしまった。
第七天──僕の心は今にも決壊しそうな有様で、それなのにここは前と変わらず世界の中のどんな混沌とも、無論僕の内部に吹き荒れる嵐にも一切関わりがないといったような静謐さに満ちていた。エレベーターホールの中央に鎮座するホログラムの女神は慈悲深い笑みをたたえ、両の腕を広げていた。それはあくまでもプログラムに過ぎないのだが、この場所を訪れたものに歓迎の意を表しているかのような錯覚を与える。
端正な顔の周りをうねるように流れる豊かな髪、穏やかながら凛とした佇まい──女神は、どこかティファににているような気がした。以前来た時は気が付かなかった。
その顔をよく見ようと思わず僕は身を乗り出した──とその時、ピッという軽快な電子音が耳を掠めた。
え、という間の抜けた呟きが口から漏れた。音は僕の胸元から聞こえてきた。見れば、女神を戴く台座の読み取り機に、首から下げたIDカードが偶然触れている。思わずエレベーターホールの先にある分厚い扉に目をやると、先ほどまで赤く点灯していたランプの色が解錠可能を意味する緑に変わっていた。僕は軽く目を見開いた。権限はないはずなのに──機械の誤作動か、女神の気まぐれか。
混乱し切った頭の中で、理性やプライドが何かを喚いている気がしたが、今目の前に差し出されたチャンスを捨て去るにはあまりに誘惑が大きかった。だってこれが最後かもしれない。
力を込めてハンドルを回すと、あの時と同じように壁の内部で複雑な機構が動作する気配があり、重々しい音を立てて扉が開いた。陽圧になった部屋の向こうから、風が吹きつけてきた。風は、芳しい南国の植物の香りがした。
抗いがたい香りに引き寄せられる昆虫のように、僕はふらふらとした足取りで奥へと向かった。前の来訪時と同じように、身を清め、服を着替える。
暗く狭い通路を抜けた先、楽園から何か聞こえてくる。
僕は濡れた髪をかき上げると、目をすがめ、耳をそばだてた。
ああ、これは歌だ。ティファが歌っている。
──行かなくちゃ。