【FF7二次創作】 秘密基地
小さな集落と木立の間の空白にポツンと濃い影が一つ。影の主は、ひょろりとした一人の少年だ。
先ほど降った通り雨が嘘のように空は晴れ渡り、天頂にある太陽が容赦なく地表を灼いていた。むっとした熱気が纏わりつき、その少年は不快げに顔をしかめた。少年の肌は白く、淡い色合いの金髪に深い泉のような青い瞳と相まって、一見儚げな印象を見るものに与えるかもしれない。だが、よく観察してみれば、例えば引き結んだ唇や眉間のちょっとした筋肉のつき方に彼の頑固さが表れていた。
夏の盛りに生まれた彼は、両親から「クラウド」という名を与えられた。半日かかったお産の後、疲れ切った母親が最初に目にしたものは村の近くに聳えるニブル山の頂きから湧き立つ見事な入道雲だった。それが名前の由来だと聞かされて、目を輝かせた幼い彼は何度も空を見上げたものだった。
だが、彼が今恨めしげに見上げた天には雲ひとつ浮かんでいない。
そよとでも風が吹いてくれればいいものを──ぐいと乱暴に服の袖で額の汗を拭うと、クラウドは村はずれの森の奥目指して歩き出した。昨日仕掛けた罠の様子を見に行くためだ。だが、こんな暑い日に動物は物陰から出てこないものだ。獲物はかかってはいまい。罠のことは口実で、ただ村から離れたいだけなのだとクラウド自身が一番よくわかっていた。腹立ち紛れに足元の地面を大きく蹴るが、柔らかい土と腐りかけの落ち葉が湿った靴に纏わり付いただけだった。
もっと遠くへ行きたい──漠然とした想いを抱えながら、クラウドはがむしゃらに歩を進めた。
拾った木の枝を振り回しながら歩いていたその時、クラウドは誰かに呼ばれたような気がした。恐らく、上の方から。
夏の日差しに色素の薄い目を灼かれまいとクラウドは手で庇を作って頭上を振り仰いだ。堪えていた涙が目尻から首筋へ落ちていき、鎖骨の窪みに溜まった汗と混じり合った。目を瞬くと、長い睫毛に涙が宿り、世界はまるで光を撒いたように見えた。涙のプリズムが作り出した輝く夏の森はどこまでも明るく、その眩しさに顔をしかめると、殴られた頬がひりつくように痛んだ。先ほど自分を殴った少年たちの嘲るような顔が脳裏をよぎる。
クラウドの傍らに立っているのはブナの古木だ。夏の盛りを迎え、春の頃の柔らかさを失った葉は分厚く硬くなり、ギラギラと濃い緑に輝いている。
しばらく耳を澄ませてみたものの、虫たちのぶうんという羽音のほかは何も聞こえなかった。
──気のせいだったろうか。
再び歩き出そうとしたその時、こんもり繁った葉の間からか細い鳴き声がかすかに聞こえた。その声で、密集した葉の裏側にいるのが何者であるか、クラウドには見当がついた。
クラウドは大きく湾曲した根を跨いで幹に近づいた。再び声が聞こえた。
クラウドは一番低い枝に飛びつくと、幹の所々にできた瘤に足をかけ、慎重に体を引き上げた。太い枝が交差するところに、予想通りの姿があった。白い、ふわふわの子猫──隣の家にすむティファの飼い猫のマルだ。大方、この樹に登ったはいいものの自分で降りられなくなったのだろう。この猫はいつもこうなのだ。向こう見ずで無鉄砲、後先考えずに飛び出しては迷子になったりこうやって木の上で心細く鳴いていたり。
「お前なあ、俺が偶々通りかからなかったらどうする気だったんだよ」
目元を和ませながらクラウドが指を近づけると、マルは背中を丸めて精一杯威嚇の構えを見せた。
恩知らずなやつ、と思いながらクラウドは尚も手を伸ばすと、そっとその体を掴んだ。マルはクラウドの人差し指の匂いを嗅ぐと、ようやく相手を思い出したのか時折甘噛みを交えながら勢いよくクラウドの手首や腕を舐めだした。ざらついた舌の感触がくすぐったくてクラウドは声を上げて笑った。
幹にもたれてみると、思いの外枝の上は居心地が良かった。子どもの自分が寝転がれるくらいの広さはあるし、地面の上よりも風が通って気持ちがいい。葉で覆われた空間は外から隔絶されたような感じがしたが、視線の先に枝葉が重ならない部分があった。その窓から外の世界を少し覗くことができ、遠目にティファの家の2階部分が見えた。何かとクラウドに突っかかってくる3人組が屯する広場や、クラウドとその母親が通るたびにひそひそと囁き交わす大人たちの井戸端会議の場はここからは目に入らない。見えないというだけでこれほど気が楽になるのか、という気づきを得たクラウドは満足気に息を吐いた。マルはクラウドの腹の上で丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らしている。服越しに伝わってくるその単調な振動と子猫の体の温かさは眠気を誘った。あくびが一つ、口から漏れる。穏やかな風がブナの葉をさやさやと鳴らした。
伸びをするマルの爪がちくりと腕に刺さり、クラウドは目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい。夕暮れの気配が辺りに漂っていた。ぐうと鳴った腹の音が空腹を思い出させた。朝食以降何も食べていないのだから当然だ。昼食を準備して自分を待っていたであろう母親の姿が否応なく思い浮かび、クラウドは胸の奥に鈍い痛みを感じた。そろそろ帰らなくては。
子猫を抱えたまま慎重に木を降りると、クラウドは重い足取りで村へ向かった。ブナの林を抜け、村を囲む柵が見えてきた頃に、聞き覚えのある声がした。腕の中のマルが耳をピクピクと動かし、声の方に顔を向けた。
「ほら、お前のご主人だぞ」
クラウドが声をかけると、マルは身をよじって地面に飛び降りた。
──ちぇ、俺が助けてやったことなんて覚えてないみたいだ。
所在のなくなった手をポケットに突っ込み、クラウドは小さな白い背中が遠ざかっていくのを見守った。その場からすぐに離れずにぐずぐずとしているうちに、声の主が姿を現した。ティファだ。グレーの地に白い縞模様の入ったシャツワンピースを着ている。暑い日でも首元まできっちりボタンを留めているのがいかにも彼女らしかった。
マルをあちこち探し回っていたのだろう。上気した顔に汗で髪が幾筋か張り付いている。よく見れば、服の薄い生地が汗で濡れているであろう胸元や腹回りの肌に密着し、ティファの華奢な体の線を浮かび上がらせていた。クラウドは下腹がかすかに疼くのを感じ、ティファから目を逸らした。
クラウドの煩悶をよそに、「マル!もう…心配したんだから!」と言いながらティファは子猫を抱き上げた。顎の下をかいてやると、マルはますます喉をそらしてもっと撫でろとティファの指に自分の体を擦り付けた。
クラウドはそれとなくティファの後ろをうかがったが、他には誰もいないようだ。ポケットの中で握りしめた拳を緩め、クラウドは木陰を出た。足元で踏みしだかれた草ががさりと音を立て、ティファがパッとこちらを向いた。
ティファはクラウドを認め、深い紅色の大きな瞳をさらに大きくする。その口が、クラウドの名前の形に動いた。マルの体のあちこちに付いている小枝や葉っぱを取ってやりながら、ティファは小首を傾げてクラウドを見た。
「クラウドが見つけてくれたの?」
一歳下の幼馴染みは、無邪気な表情を浮かべている。なんとなく後ろめたい思いで目を伏せたまま、クラウドは「まあ」と口の中で呟いた。
「この子、どこにいたの?」
私が探しても全然見つからないの、と付け足してティファは困ったように笑った。
「……森の中。窪地で、蝶を追いかけてた」
とっさにクラウドの口をついて出たのは事実とは違うことだった。なぜ嘘をついたのかは自分でもわからなかった。
ふうん、と呟きティファはマルをまじまじと見つめた。
「おばさん、クラウドのこと探してたよ」
ティファの言葉にクラウドは「ん……」と返し、二人と一匹は連れ立って村へと向かった。
村に近づくにつれて、ますます足取りは重くなるようにクラウドには感じられた。同情、嘲り、落胆、そして拒絶。幼いクラウドにとって、狭い村で己に絶えず向けられるそれらの感情全てが我慢ならなかった。ティファと隣り合った家に向かって歩きながら、クラウドは先ほどのブナの木の上の空間を思い出していた。自分だけの秘密の場所。
両手の親指と人差し指でフレームを作り、目の前にかざしてみる。そこから、クラウドは数歩前を行く、マルにしきりに話しかけているティファの後ろ姿を盗み見た。指で切り取った矩形の中には横顔を見せて笑うティファの他には誰もいない。その完璧な世界の中では、ティファが自分だけのものになったような感じがした。捻れた満足感が、クラウドの奥深いところにある暗い水面に静かに広がった。だが、その笑顔が決して自分に向けられることはないのだと思うと、行き場のない衝動だけが胸の中に残った。
村に戻ると、あちらこちらの家の煙突から夕餉の支度のためと思しき煙が上がっていた。今更ながらに母のことを思い出し、クラウドは足を早めた。夕飯の前にお説教を覚悟しなければならない。そんな差し迫った心配事が頭を占め、先程のティファに対する独占欲めいた気持ちはどこかに行ってしまった。
一目散に家の中に駆け込んだクラウドは気づかなかった。ティファが自分の家の扉の前で、言い忘れた礼を言おうと笑顔を浮かべて振り返ったのを。
小さな家では完全に1人になれる場所はなかった。クラウドは、1人になりたい時に木の上の秘密基地を訪れた。ブナの木はいつも無言でクラウドを迎えてくれた。誰にも邪魔されずに本や雑誌を読むのにこれ以上いい場所はなかった。それらに飽きると、クラウドは枝葉の隙間からぼんやりとティファの家を眺めて過ごした。
季節が変わり、ブナの葉は赤く色付き、やがて散っていった。村ではジュースやワインを仕込むために、山葡萄の収穫に子どもたちが駆り出された。いざ冬が来ると人々は家の中でほとんどの時間を過ごした。クラウドにとってはどこにいても誰かと鉢合わせる不快な季節だ。むっつりと押し黙り、自分の殻に閉じこもるクラウドを見て、母親は心配を募らせた。
ある日、学校からの帰りに、クラウドはあのブナの木のところへ行ってみた。脛まで雪に埋まりながら苦労して歩いていくと、長靴の隙間から入り込んだ雪が靴下を濡らしていくのがわかった。
雪深い森の中はしんと静まり返っていて、大きな音を立てるのが申し訳ないような気がした。冬は眠りの季節なのだ。
人間も冬眠すればいいんだ。そんなことを考えながら歩き続け、木のところまでやってきた。冷え切った足の指先がじんじんと痛い。頭上を見上げると、澄み切った空気の中にたくさんの冬芽が天を仰いでいた。その褐色の鎧の内側には若い葉が窮屈そうに押し込められているのだということをクラウドは知っていた。
早く春になればいい。冬にこの木がどんな様子をしているのかを自分の目で確かめたことで、クラウドは小さな満足感を覚えていた。村へと続く道を戻りながら、指でフレームを作って周りの景色を好きなように切り取ってみた。青い空だけを、ブナの木だけを、そして村の広場で友達と雪遊びに興じるティファだけを。
春が来た。
芽吹いたばかりの頃は瑞々しく柔らかかったブナの葉は、外気にさらされて徐々に硬く分厚くなっていった。
まだ若さの残る春の枝葉に囲まれて、クラウドは太い枝の上に腹這いになって雑誌を眺めていた。流行りの音楽、流行りの洋服、ミッドガルで人気のデートスポット……どれもこれも自分には関係ないと醒めた気持ちで流し読みしながら、頭のどこかで青春というものへの淡い期待が捨てきれなかった。
何気なくめくっていた雑誌のあるページに英雄セフィロスを見つけた。神羅軍の隊員募集のための広告ページの中央にセフィロスの写真が使われていたのだ。待遇や採用条件などがあれこれと周りに細かく書いてあるが、クラウドの目には入らなかった。セフィロス──銀髪の美丈夫にして最強のソルジャー。誰もが知っている、スーパースターだ。その不敵な笑みはこの世に君臨する王のようだった。こんな風になれば誰も俺を見下したりしない。ティファだってきっと──俺だけを見てくれる。
クラウドは久しぶりに晴れやかな気持ちになった。人生の目標ができた。くだらない村の人間関係にかかずらっている暇はなくなった。だって、俺はソルジャーになるのだから!
少年の、運命が動き出した。まだ誰もそれを知らない。
秘密の隠れ家の内側で、若く青い夢が育っていくのを、ブナの木だけが眺めていた。