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【FF7二次創作】 an old vintage


1


いびつな男がおりました
いびつな小道をあるいたら
いびつな木戸のその裏で
いびつな小銭を拾ったと

いびつなネズミをつかまえた
いびつな猫を買って帰り
いびつな小さい彼の家
いびつに仲良く暮らしたと

昼下がりのセブンスヘブンのキッチンで、くつくつと音を立てて鍋が煮えている。大鍋いっぱいのミネストローネだ。その他にも仕込みを終えて調理を待つばかりの食材がバットやボウルに並んでいた。ごく小さい声で唄いながらティファは食材を切り、鍋をかき混ぜ、大量の皿を用意している。
「ねえ、ティファ。それってなんの歌なの?」
カウンターのスツールに座り、その様子を飽きもせずに眺めていたマリンがティファに訊ねた。
「あは、聞こえちゃってたか」
ティファは照れたように笑った。
「うん!」
「マザーグースっていう…昔の詩をたくさん集めた本に載ってたやつなの」
正確には、その詩にティファが勝手に節をつけたものだ。
「ふーん…なんか変わった歌だね」
「そうなの。でもなんだか癖になっちゃって」
その詩集はティファが子どもの頃、父親の書斎で見つけたものだった。コマドリを殺したのは誰かとか少し不気味な詩ばかりが印象に残っているが、不思議な魅力に溢れていた。幼い自分は怖いと思いながらも惹きつけられ、繰り返し読むうちに幾つかの詩はすっかりそらで言えるようになってしまったのだ。
「あ」
ティファはバットに並べられた卵を一つ手に取ってマリンに見せた。マリンはきょとんとして小首を傾げた。
「ハンプティ・ダンプティって名前の卵の詩もあるのよ」
「えー?」
変なの、とマリンは体を揺らして笑った。その動きに合わせて髪を結えた水色のリボンが背中で揺れる。ティファもつられて笑いながら詩の中身を説明してやる。
「ハンプティ・ダンプティは塀の上から落ちて割れちゃうの。たくさんの人が集まってみんなで戻そうとするんだけど、殻が壊れちゃってるから元に戻らない…っていうお話」
手足を備え、どこかひょうきんな顔をした卵が塀の上に腰掛けている挿絵が描かれていたっけ、とティファは思い出す。
「ティファだったらどうする?卵が割れちゃったら」
「うーん…美味しいオムレツにしちゃう!…かな?」
突拍子もないマリンの言葉にしばし考え込み、自身の中から出てきた答えはいかにも料理人らしいものだった。
「すっごくいいね!ティファのオムレツ大好き!」
マリンのまっすぐな賛辞にくすぐったそうな表情を浮かべたティファは、大きなボウルを取り出すと、わくわくした表情で自分を見つめる少女に向かって片目をつぶって言った。
「よおし、じゃあ今日はおっきいオムレツも作ろうかな!」
やったーと歓声を上げてマリンはスツールから飛び降りた。そのまま店の外に通じるドアを走って開け、表にいたデンゼルにティファがスペシャルなオムレツを作ってくれることを告げる。店の前のアプローチの階段に腰掛けたデンゼルはうるさそうな表情を浮かべて見せるが、内心ではマリンと同じくらい喜んでいた。その証拠に茶色い猫っ毛を指でいじっている──照れ隠しの時の癖だ。
埃っぽいエッジの通りには強い日差しが降り注いでおり、店内から見ると光が溢れているような眩しさだった。
その時、一陣の風が吹き、なにやらマリンをからかっているらしいデンゼルの額をあらわにした。白く、滑らかなその額を。
──帽子…帽子を買ってあげなきゃ。ティファは声を上げて笑うデンゼルを見て、ふと思った。あの病が癒え、これからはたくさん外に遊びに行くのだろうから。エッジはこれから暑くなる。

「ティファー!デンゼルと遊びに行ってきてもいい?」
ティファの思考を読んだかのように、マリンは手を口に当てて訊ねてきた。その隣のデンゼルも首だけ巡らせ、期待を込めた眼差しをティファに向けている。店の外に、この辺に住む子どもたちが何人か集まってきているのが目に入った。
「あまり遅くならないようにね!夕方にはみんな来ると思うから」
わかってる、と言うが早いかマリンとデンゼルはくるりと背を向け、すでに遊びに行ったらしい他の子どもたちを追って駆け出した。
靴音が歓声と共に遠くなっていく。

ベッドで伏せっていたあの少年がここまで元気になるんだもの。全くもう、奇跡ってやつよね──ティファは内心で呟いた。
黒い膿を拭いてやり、薄めたスープをひと匙ずつ口に運んだ日々を思い出す。出来ることは全て試したが、日に日に体調が悪化していく少年を傍で見守るしかなかった。毎朝目が覚める度に祈るような気持ちで青白い顔を覗き込んだ、あの薄氷を踏むような日々。結局星痕を祓ってくれたのは、伍番街スラムの教会に湧いた泉だった。ライフストリームにいるエアリスの祈りが起こした奇跡。デンゼルを含めた多くの人々に、そして病に侵され黙って姿を消したクラウドに光の慈雨が降り注ぐ光景をティファはこの先忘れることはないだろう。

…私は、なにもできなかった。離れたところから見ているだけだ。いつだって。

ティファは手に持ったままだった大きなボウルをひとまず横に置き、冷蔵庫から出しておいた塊肉の処理に取り掛かることにした。鍋の火を止めると店の中は恐ろしく静かで、壁掛け時計の秒針がコチコチと鳴るのがやけに気に障った。黙々と肉の下ごしらえを進めていく。作業をこなしながら、ティファは1人静かに自嘲の笑みを浮かべていた。
いつからか世界とティファの間を透明な膜が隔てているような気がしている。時々思うのだ。またライフストリームの海に漂って行けたら、あの純粋な光の奔流に溶けてしまえたら、と。
だが、そんな考えは、誰よりも未来を渇望していたエアリスに対する冒涜だと思えた。しばし目を瞑って気持ちを切り替える。呼吸。セルフコントロール。

生きている以上、なんとかして日々を過ごしていかなきゃいけない。食べて、眠って、力を蓄えること。そして果たすべき役目を全うすること。目を開けたティファは再び包丁を握り直し、肉を切り分け、筋と血合を除く作業に没頭した。今日は大飯食らいたちが集まるのだから、ぼうっとしている時間はない。


2


1週間前、カダージュたちが召喚したバハムートの討伐にエッジまで駆けつけてくれた仲間たちが、ここセブンスヘブンで今日ようやくゆっくり顔を合わせることになっている。その宴会のための大体の下準備を終え、紅茶で一息入れようかとティファが考えていた時、ドアが大きく開き、赤い影が店に飛び込んできた。大型犬ほどの大きさの、人語を解する古の種族の生き残り──旅の仲間の1人であるナナキだ。
「ティファ!」
「ナナキ、いらっしゃい!」
手を拭き、キッチンを出てティファは膝をついて両腕を広げた。ナナキが照れ臭そうにおずおずと近寄ると、ティファはその首に腕を回し、温かな毛皮に顔をうずめた。全力で走ってきたのか鼓動が速く、筋肉にまだ緊張がみなぎっている。ぎゅっと抱きしめると荒々しい大地の匂いがした。ナナキは笑みを浮かべて、先端に炎の灯った尻尾をゆったりと振った。
「みんなと飛空艇で来たんだけど、オイラだけ先に走ってきちゃったんだ」
嬉しそうに言うナナキのお腹がぐうと鳴った。
「お腹空いたのね。ちょっと待ってて」
くすりと笑ってティファは立ち上がり、ナナキのために用意しておいた骨付き肉を出してやる。ありがとう、と律儀に礼を言ってからナナキは目を輝かせて肉にかじりついた。
──と、その食べっぷりを眺めていたティファはナナキの後ろ足から血が出ているのに気づいた。
「足どうしたの?」
「あれ?ほんとだ。走ってくる途中で引っ掛けちゃったみたい」
どうやら怪我は大したことはないらしい。安堵のため息をもらしたティファは、ナナキにちょっと待っているように声をかけてから薬箱を取りに2階の居住スペースへ向かった。


洗面所はよく整頓されており、目的の薬箱は上の棚からすぐに見つかった。鏡を備えた洗面ボウルの周りには住人それぞれの歯ブラシや化粧品、整髪料が並んでいる。その中で1本だけ比較的新しい歯ブラシがティファの目を引いた。およそ3週間ぶりに家に戻ってきたクラウドのものだ。更新時期を間近に控えた、ややくたびれた他の3本に囲まれて、先日封切られたばかりのそれは心なしか居心地が悪そうに見える。鏡に映った自分の顔はどこか冷ややかで、ティファは思わずたじろいだ。クラウドが帰ってきてから1週間ほどになるが、いまだティファは新しい状況に馴染めないでいる。クラウドの不在にようやく適応した矢先の突然の帰還だったからだろうか。
鏡から目を背け、足早に洗面所を出る。階下に向かう途中でクラウドの事務所兼寝室の、ピタリと閉ざされたドアに目をやった。その部屋から荷物がすっかり消え失せているんじゃないか──そんな気がするのだ。ドアを開けてみればはっきりするが、開けずにいれば恐ろしい現実に直面せずに済む。
自分のことが好きかなんて聞かなければ良かったのだ。答えを返されたなら受け入れざるを得ないのだから。
「シュレディンガーの、クラウド」
笑えない冗談をひとり呟き、ティファは一階で待つナナキの元へ戻った。

ナナキは肉をきれいに平らげて、満足そうに前足で顔を洗っているところだった。こういうところは猫のようだとティファは思った。毛並みの色合いは狐に似ているけれど──連想が連想を呼び、ティファの胸に忘れかけていた思い出が蘇った。
床にしゃがみこんでナナキの足を手当てしてやりながら、ティファは懐かしい気持ちになっていた。傷を消毒し、包帯を巻いてやると思わず笑みがもれた。それに気づいたナナキがどうしたの、と問う。遠い昔を思い出すために、ティファはしばし目を瞑って過去へと心を彷徨 さまよわせた。その手は無意識のうちに、ゴワゴワした赤毛のたてがみを優しく撫でている。ナナキはうっとりして、前足の上に乗せていた顎をもたげてティファの脛に擦り付けた。
「昔…子どもの頃ね、怪我した狐の子を助けたことがあるの。包帯を巻いて毎日ご飯をあげたわ。寝床も作ってあげて」
口許に優しい笑みを浮かべてティファは言う。ここじゃないどこか遠くを見る目をして。ナナキはその顔を無邪気に見上げた。
「今のオイラみたいに?」
「そう」
答えたティファの顔はとても優しいけれど不思議と遠くにいるように感じた。きっと素敵な思い出に浸っているのだろう。ナナキはその気持ちを共有したくて重ねて訊ねる。
「その子はどうなったの?」
「怪我が治ってもなかなか離れなくてね」
「きっとティファのことが好きになって離れたくなかったんだ」
オイラと同じに。オイラだけじゃない。クラウドも…他の仲間たちも。
「ふふ、違うの。ご飯と暖かい寝床があったからよ」
「そうかなあ…」
「暖かい季節になったら行ってしまったもの。私じゃなくても…誰でもよかったのよ」
あっけない結末にしょげかえるナナキを励ますようにティファはにっこり笑って見せた。その顔にナナキは胸がツキンと痛む。どうしてそんな寂しいことをティファは言うんだろう。

「そろそろうちの狼が寝床に帰ってくる頃だわ」
ちょっとおどけてティファは言った。ナナキの胸が再び痛んだ──ティファ、クラウドはあの狐の子とは違うよ。
「…さっきの話、クラウドにはしないであげて」
「どうして?」
「だって…」
両耳の間にティファの掌を感じながら、ナナキは床を見つめていた。

──オイラはそれ以上なにも言えなかった。きっとクラウドは傷つくよ、と伝えたかったけど。それを言ったらティファが悲しい顔をするのがわかってたから。
泣いているのではないかとその顔を見上げると、ティファは乾いた目をしてどこか遠くを見つめていた。ただオイラは項垂 うなだれて床に臥せた。心なしか尻尾の炎も勢いが弱くなっている気がする。ニブルヘイムが焼かれた時、ティファはたくさんたくさん泣いたってずっと前に言ってた。エアリスが死んじゃった時、それにクラウドがいなくなった時もきっと。そのせいでティファの心の一部は乾き切ってしまったのかもしれない。

コスモエリアの渇いた風景がナナキの脳裏によぎる。太古の昔に大地を侵食し、あの複雑な高低差のある地形を生み出した川があったとブーゲンハーゲンから聞いたことがある。その川はとうに干上がって、そのかつての河床だけがコスモキャニオンを取り巻く崖として今も残っている。ずっと地下の方にまだ水脈が残っていると主張する研究者もいるけれど、真実はわからない。


3


店の外がにわかに騒がしくなった。ナナキと連れ立ってティファが様子を見に行くと、到着した仲間たちが集まっていた。その中に、エッジの被害を見て回っていたクラウドの姿もあった。なにやらバイクの話題で盛り上がっているようだ。
「みんなお疲れ様!」
ティファが声をかけると皆それぞれそれに応えた。ティファの名を呼ぶ者、笑顔で手を上げ挨拶に代える者。それらに混じって何か言いかけたクラウドを押し除けて、真っ青な顔をしたユフィがティファに縋り付いた。
「…ティファ、お願い…中で休ませて…あと何か冷たい飲み物が欲しい…」
飛空艇での長旅が堪えたのだろう。この忍者娘の乗り物酔いの酷さは相変わらずのようだ。そのユフィのためにティファはちゃんと好物の飲み物を用意していた。
「レモネード冷やしてあるよ~」
「うう…ティファ…!愛してる!あの根暗男なんかやめてあたしと結婚しよ…」
苦笑しながらユフィの戯言 ざれごとをハイハイといなし、ティファはその場から動こうとしないユフィをひょいと横抱きにして店の中へと戻る。ティファの首にかじりついたユフィは、クラウドに向けて巧みにあっかんべーをして見せた。ムッとしたクラウドを小馬鹿にするように鼻で笑い、ユフィはティファと店内へ消えた。

「クラウド、今日くらいユフィにティファを貸してやれ!」
残された男どもの中でいち早く我に帰ったシドが、豪快に笑いながらクラウドの背中を叩いた。そのクラウドは浮かない表情のままセブンスヘブンの扉を見つめている。そっとクラウドに近づいたナナキは、慰めるようにその掌に鼻面を押し付けた。気づいたクラウドが柔らかく笑んで頭をガシガシと撫でてやる。
「ナナキもよく来てくれたな」
「クラウド…」
言い淀むナナキにクラウドは優しく首を傾げた。
「…体は大丈夫なの?」
「ああ。もうすっかり治ったみたいだ。心配かけたな」
ナナキはクラウドの顔をじっと見つめた。少し痩せてはいるが、すっきりした表情をしている。色々と決着がついたからだろう。
「早くあのすげえバイクを見せてくれや!」
2人の会話に割り込んだシドがクラウドを急かす。
「フェンリルか。ガレージに行こう」
クラウドはナナキの頭をもう一度撫で、頷いてからシドとガレージに向かった。ナナキは酒瓶が詰まった箱を肩に担いだバレットとともにその場に残された。
バレットは──この騒がしい大男は、常になく静かにクラウドの後ろ姿を見ていた。重いため息を一つ吐くと、セブンスヘブンへと足を向ける。肩の荷物をひとつ揺すり、ガシャガシャと音を立てながらやって来たバレットは、険しい顔をしていた。
「ねえ、バレット…ティファは…」
「ああ。わかってる」
ナナキは見た。辛そうな表情が影のようにバレットの顔を一瞬掠めたのを。クラウドを除く仲間の中では、バレットが1番ティファと付き合いが古い。また、2人がミッドガルで再会した頃からその関係を見てきたのもバレットだ。崩壊したミッドガルの廃材で作られた街エッジで2人の居場所を作り、バレットの愛娘マリンを含めた4人はいまや家族の関係にあるという。
「ナナキ、ティファなら大丈夫だ」
バレットは心配顔のナナキに頷いて見せる。あいつはちっとばかし時間がかかるんだ──と内心で付け加えながら。

これまでバレットは歳の離れた妹のようにティファを思い、そのあまりに辛い半生を側で見守ってきた。何もかも失ったティファがミッドガルのスラムに流れ着き、再び生きる気力を取り戻すまでの苦労。ミディールでクラウドが何者かもわからない状態の廃人として見つかった時の絶望。星を救う旅が終わった後でやってきた、自分たちのせいで多くの人が命を落としたという悔悟。
──そのどれからも、あいつはいつも這い上がってきた。バレットにはわかるのだ。ティファが今、覚悟を固めている最中にあることが。一度腹を決めたら、あいつはなにがなんでもやり通す。
まあその結果、クラウドがどうなるかはわかんねえけどな。どこか無責任とも思えるような境地に至ると、バレットは自分の気持ちが軽くなっているのを発見した。荷物を持っていない方の空いた手で頭をガシガシと掻き、バレットは店内に足を踏み入れた。

ガレージでフェンリルを間近に見たシドは少年のように興奮していた。黒光りする滑らかな車体にその顔が映っている。
「ほー。2気筒だけど、この径のマフラーにして馬力を上げてんだな…エンジンは何積んでんだあ?…へへ、随分古いやついじって使ってんな…」
シドはフェンリルの周りをぐるぐる回り、その下部を覗きこんではサスペンションがどうのとぶつぶつ言っている。クラウドはこのベテランパイロットに褒められて嫌な気はしなかった。聞かれるままに、自分で重ねてきたカスタムの仕様についても素直に答えていく。
「随分高かったろ、これ」
何気なく言ったシドの言葉に、なんとなく気まずいものを感じながらクラウドは答える。
「…いや…セブンスヘブンで一生飲み食いできる権利と引き換えに、元の持ち主から譲ってもらったんだ」
「あん?なんだそりゃ。ティファはよく許したな」
「…まあ」
言葉を濁すクラウドに、シドは呆れて目を見開いた。嘆かわしいというように首を振り、わざとらしく天を仰ぐ。
「おめえ、まさか勝手に…!…かーっ、一生頭上んねえな。まあいいや、ちょっくら跨ってみてもいいか?」
「ああ」
クラウドの許可を得て、シドは恐る恐るフェンリルに跨った。
「…おおっ…やっぱ迫力あるな!まあ俺様のシエラ号には負けるけどな」
これがこの男の最上級の賛辞なのだとわかっているクラウドは黙って肩をすくめた。その肩口に鎮座するクラウディウルフが、主に代わって自慢するように、傾きかけた陽光を受けてチラリと鈍色 にびいろの光を放つ。
「こいつで荒野をぶっ飛ばすのはたまんねえだろうな~!…で、夜は毎晩ティファに跨ってるってわけか。羨ましいねえ」
わざわざ振り返り、下品な笑みを浮かべて揶揄するシドに、クラウドは曖昧な顔をして見せただけだった。意外な反応に押し黙ったシドは何かを言いかけて口をつぐみ、フェンリルから降りると、考え込んだままのクラウドの背中を労るように数度叩いた。ガレージを出たところで煙草に火をつけ、空に向かってぷかりと煙を一つ吐き出す。
「…ま、長い人生そういうこともあらあな」

カダージュやセフィロスとの戦いを終え、星痕も癒えたクラウドを、ティファは何も訊かずに迎え入れてくれた。お帰りなさい、と。
申し訳ないという気持ちや感謝の念はもちろんあったが、二度と会えないと思っていたティファを目の前にして、何よりも強かったのはティファに触れたいという欲求だった。

だが、クラウドが帰ってきてから2人は一度も体を重ねていない。互いの距離を掴みかねている。


4


「ああー…生き返る~!」
セブンスヘブンのカウンターで、ユフィはティファお手製のレモネードを飲み干して満足の吐息を漏らした。丈の高いグラスの中で氷がカランと鳴った。
「大げさなんだから」
「お代わりをお願いしまっす!」
元気よくグラスを掲げるユフィに、ティファがくすくす笑った。食事の準備の合間に冷蔵庫から出したレモネードをグラスに注ぎ、ミントの葉も浮かべてやる。はいどうぞ、とグラスを勧めるとユフィは満面の笑みで礼を言った。
そこに、後ろにナナキを従えて大量の酒瓶とともにバレットがやってきた。大きな体を持て余すようにテーブルや椅子を避けながら店の奥、カウンターの方へ向かってくる。
「おい、ティファ。酒はどこに置いたらいい?」
「たくさん持ってきてくれてありがと!あ、こっちに頂戴」
バレットが訊ねると、ティファはカウンター越しにその大荷物をキッチンに引き取った。それを見てユフィが目を丸くする。
「うわあ、重そう」
まあね、とティファは苦笑する。すっかり乗り物酔いが治まったユフィはぐるりと店内を見渡し感心して、言った。
「ていうかさ、ティファすごいよね。こんな立派なお店1人でやってんだもん。料理作って客に出して片付けして…経営もでしょ?」
カウンター以外にテーブル席がいくつかあり、満席になるとかなりの人数になりそうだ。キッチンでぶうんと微かな音を立てているのは大型の冷蔵庫。奥の方の棚には多種多様な酒のボトルが納められ、客のどんな要望にも応えてカクテルを作る準備ができているのが窺えた。自分の顔が映りそうなくらい磨きこまれたカウンターの天板をちらりと見て、掃除もか、とユフィは内心で付け足した。
その横で、ナナキも一緒になって興味深そうにあちこち目をやった。壁に飾られた黒い額装のモノクロの風景写真は、クラウドが撮ったものだろうか。ナナキに見覚えのない場所も多くあった。
カトラリーを磨きながら、「なんとかね。それに子どもたちも手伝ってくれてるし」とティファははにかんだ。
その謙遜に、小首を傾げてユフィはかねてより思っていたことを言う。
「なんかさ、ティファ頑張りすぎじゃない?もっとあたしを見習ってサボるっていうか、ほら適度な休養をさあ…」
「客商売ですから」
ティファは苦笑してやんわりとその案を却下するが、横から入ってきたバレットがユフィの肩を持つ。
「ま、こいつの言うことにも一理あるな。おめえは根詰めすぎるところがあるからよ」
ほらね、と言うようにユフィは大きな目をくるりと回して見せた。

バレットはきょろきょろと店の中を見渡し、2階の居住スペースに向かう階段に目をやった。
「なあ、マリンとデンゼルはどこだ?上か?」
「それが遊びに行っちゃって…もうそろそろ帰ってくると思うんだけど」
ティファの言葉にいかつい大男はガックリと肩を落としたが、ふと顔を上げる。今日の訪問の前にした電話でティファとマリンから大体の事情は聞いている。デンゼルがこの家にやってきた経緯も。
「デンゼルは随分体調が良くなったんだな。よかったじゃねえか」
うん、とティファは嬉しそうに頷いた。その顔にニッと笑ったバレットは、すぐに真剣な表情に戻った。
「ところでよ、あいつとはちゃんと話したか」
「ん?」
「…クラウドだよ。星痕になって勝手に出て行ったんだろ?どこでどうしてたかは知らねえけど」
「…教会だよ。エアリスの教会に、いたの。ずっとね」
長い睫毛を伏せ、手元に目線を落としたままティファは答えた。不満の声を上げようとしたユフィを目で制し、バレットは続けた。
「仕事が一段落したからよ、マリンとデンゼル連れてどこかに遊びに行こうと思ってんだ。…その間クラウドとちゃんと話せ」
うん、と静かにティファは頷いた。ナナキもバレットの言葉に賛意を表すために神妙な顔をして鼻を鳴らした。

言いたいことは山ほどあったが、ユフィは黙ってその様子を眺めていた。自分も仲間ではあるが、バレットとティファの仲は特別だ。その間にある絆に割って入る気はない。ただ、ユフィからすると、ティファがなぜクラウドと今も一緒にいるのかわからなかった。はっきりしないし頼りがいもないし甲斐性だってなさそうだ。強いのは認めるけど、ティファだってその辺のドラゴンの一頭や二頭1人で倒せるくらいの猛者だ。
また、クラウドにその自覚があるのかはわからないが、エアリスの存在がクラウドの心の一部を占めているのは確かなように思われた。それがどういう形の感情に基づいているのであれ、ティファとの関係に微妙な影響を与えているのは想像に難くない。恋愛にさほど興味がない自分にだってわかる理屈だ。
幼なじみって言うけど、昔の話じゃん?とリアリストのユフィは思う。ま、何があろうとあたしはティファの味方だよ、と心の中で勝手に宣言し、ユフィはレモネードの最後の一口をズズっと啜った。

「父ちゃん!」
その時、セブンスヘブンのドアが開き、マリンとデンゼルがヴィンセントと連れ立って帰ってきた。マリンの声に振り向いたバレットはたちまち相好を崩し、愛娘のもとへと駆け寄った。
親子はがっしりと抱き合ってから、シェイクハンズ、ハイファイブを早業で交わし、最後はフィストバンプで締めた。息ぴったりだ。その様子を遠巻きに見るデンゼルに気づいたバレットがマリンの頭を撫でながら言う。
「デンゼルだな。いつもマリンと仲良くしてくれてありがとうな!」
もじもじとするデンゼルにしゃがみ込んで目線を合わせ、バレットは握手の形に手を差し出した。きょとんとするデンゼルの手を強引に握り、レクチャーを始める。
「お前にも教えてやる。こうしてこうして…よし、完璧だ!」
ぎこちないながらもバレットとダップを交わし、デンゼルも満面の笑みを浮かべた。

目を細めてその光景を眺めながら、バレットのあの包容力と強引さに自分もどれだけ助けられてきただろうか、とティファは思った。
一足先にカウンターまでやってきたヴィンセントにふざけてティファが手を差し出すと、不死身のガンマンは苦り切った顔で「勘弁してくれ」と言った。ヴィンセントは握手の代わりに、懐から取り出した一本のボトルをティファに手渡す。
「あんたのマントの内側どうなってんのよ…」というユフィのツッコミは無視することにしたようだ。
「なあに?」
ティファは受け取ったボトルを慎重に持ち、あちこちの角度から眺めるが、ボトルの下部に貼られた、手書きのラベルは字が掠れてしまっている。ヴィンテージワインのようだが、中身についての情報は得られそうにない。辛うじて、濃い色のボトルの中身が赤ワインらしいということと、底に澱が溜まっていることだけがわかった。あまり動かさない方が良さそうだ。
「土産のワインだ」
簡潔に答えるヴィンセントに、ティファはありがとうと呟き、ボトルを立ててセラーにしまった。
「…神羅屋敷の地下で見つけてな。多分、生まれ年のワインだと思う。お前かクラウドの」
その言葉にティファはピクリと肩を震わせた。ニブルヘイムにあった手製と思しき赤ワイン…きっと山葡萄のワインだ。思い出の中のニブルヘイムの山葡萄は、5月のティファの誕生日の頃に葉が開き、8月のクラウドの誕生日の頃に果実が色付き始めたものだった。そして村では雪が降る直前の11月に収穫し、自家製のワインやジュースにしていた。ニブル山の魔胱炉のせいであたり一帯のライフストリームが枯渇してしまい、村の近くで山葡萄を見かけることは滅多に無くなっていたため、ティファが大きくなる頃にはそのような習慣も廃れていた。そしてその後の事件のせいで、村自体が炎の中に消えてなくなった。住民と昔ながらの風習を道連れにして。だが、あの大火を免れてそんな古いワインが残っていたとは。
「おそらくあそこに出入りしていた神羅の社員が村で収集していたんだろう。製造年ごとに分類されて何本かずつあったからな」
確かに、荒廃したミッドガルからやってくる人間にしてみれば自然の中で取れた葡萄で作るワインは希少価値があったのだろう。そういえば、父も都会でしか手に入らないようなものと引き換えに、家のワインを神羅の人間に渡していたような記憶がある。村と神羅が良い関係にあった頃のことだ。それが流れ流れてニブルヘイム出身の自分のところにやってきたとは…

2人で飲むといい、と言ったヴィンセントに穏やかな笑みを浮かべて、ティファは丁重に礼を述べた。


5


表では、バハムートの騒ぎ以降休みが続いていたセブンスヘブンの営業再開かと幾人かの客がやってきていた。いつもと違う賑わいを目敏く見つけてきたのだろう。しかし、そのドアに掲げられた『本日貸切』という手書きの張り紙を見て、皆残念そうに帰っていく。もし客たちが店の中を覗いたとしたら、年齢も種族も異なる彼らに一体なんの共通点があるのだろうかと訝しんだかもしれない。だが、注意深く観察すると、彼らが体のどこかに揃いのピンクのリボンを身につけていることに気づくことができただろう。その意味まではわからないにしても。
かつて共にこの星を救った旅の仲間たちはそれぞれに多忙な日々を過ごしており、全員で──ただし1人を除いて──集まるのは久しぶりのことだった。

皆が店内のテーブル席やカウンターなど、思い思いの場所に陣取った。手にはグラス、目の前には湯気を上げる料理の数々。準備は万端だ。

「えーでは僭越ながら」
レモネードのグラスを片手によっこらせと立ち上がったユフィが乾杯の口上を述べかけたところで、シドとバレットから強烈なブーイングが飛んだ。
「ここはクラウドだろうよ。頼むぜ、リーダー!」
バレットが声をかけると、渋々ながらクラウドが立ち上がった。ぶうぶう言いながらもユフィは大人しく座る。
若干からかいの空気が混じっているのは否めないが、あまりこういうことが得意でないクラウドの挙動を皆が固唾を飲んで見守っている。少しの間考えていたクラウドは、ふいと顔を上げ、グラスを掲げた。
「…エアリスに」
仲間たちもそれに倣い、エアリスの名にそれぞれの杯を掲げた。ここに来ることができなかったただ1人の仲間、忘らるる都の水底で眠るエアリスの冥福を祈り、そして星痕を癒した彼女の奇跡に感謝して。1人カウンターの向こうで、ティファもしばし瞑目した。

「さあ、食おうぜ。せっかくの料理が冷めちまう」
シドの一声で宴会は始まった。あれだけ用意した料理は皆の胃袋にどんどん消えていき、ティファの料理人としての矜持を満たしてくれた。みんなの好みの味付けにしたんだけど気づいてくれたかしら、と密かに思う。
ティファが巨大なオムレツを中央のテーブルに置くと、盛り上がりは最高潮に達した。
「ワールドマップじゃねえか!」
いち早く察したのはシドだった。さすが飛空艇の艦長である。旅の仲間が集まるということで、オムレツの表面にケチャップやパセリでワールドマップを描いてみたのだ。
「なかなかやるでしょ」
ふふ、と笑って言ったティファに皆やんややんやの大喝采を浴びせた。
その料理に舌鼓を打ちながら、皆で旅の間に食べた料理や互いの故郷の味の話で盛り上がった。時間が進むにつれ、小さなグループに分かれてそれぞれに話が弾んでいく。

先の戦いで武勲を立てたクラウドは、忙しい仕事の合間を縫って参加してくれたリーブに捕まっていた。クラウドも配達業をしながら世界を回って得た情報をリーブと共有し、各地域に必要な支援について提言する機会が得られたことを喜んでいた。大体の話が終わったあたりで、リーブは寛いだ様子で強めの酒を飲み出し、クラウドのグラスにもどんどん注いだ。リーブはすっかり出来上がっているように見せているが、時折クラウドを自身が立ち上げている組織である世界再生機構WROに言葉巧みに勧誘するのを忘れていないあたり、この隠れた酒豪はやはり曲者だ。
シドとバレットは酒を酌み交わしながら仕事と、そして子どもの話で盛り上がっていた。なんとシドの奥方シエラが妊娠中だという。バレットの愛娘であるマリンは父の隣にちょこんと座り、彼らの会話を聞きながら、自分の横のヴィンセントに携帯電話の操作方法を教えていた。ヴィンセントは今日シドの飛空艇でエッジに到着した後、街中で携帯電話を買い求めてきたのだという。呆れた顔でため息を連発するマリンの表情を見るに、なかなか前途は厳しそうだ。
デンゼルは初めクラウドの横に張り付いていたが、大人同士の退屈な話に飽きて今はナナキの語る冒険譚に夢中なようだ。だんだん小さくなっていくオムレツの地図を見ながら、エッジの外の広い世界に思いを巡らせ、果てのない海、熱帯のジャングル、氷の大地、陽炎の立ち昇る熱砂…そこでナナキが見てきた動物や人の営みについて、耳を傾けている。
カウンター席に座り、ユフィは配膳を手伝いながら久しぶりのティファの料理を堪能していた。そのユフィと他愛のない話をしながらティファは皆の様子を眺めていた。どうやらお客様たちは満足してくれているようだと胸を撫で下ろす。

はしゃぎ疲れて船を漕ぎ出したマリンとデンゼルをバレットが寝室に連れて行くと申し出た。2階への階段の前で振り返り、子どもたちは礼儀正しく「おやすみなさい」と挨拶した。おやすみ、と口々に返す大人たちに手を振って居住スペースへ向う。デンゼルとすっかり打ち解けたナナキも、一緒に子ども部屋で寝ると言ってあくびをしながら彼らに着いて行った。
それを潮にリーブは席を立ち、また忙しい日々へと戻っていった。
リーブから解放されたクラウドは今度はへべれけに酔っ払ったシドに捕まり、飛空艇シエラ号と、その名の由来である奥方シエラの悪口とも自慢とも取れる話に延々と付き合わされることになった。合間合間に男たるもの斯くあるべしという有り難い訓示付きだ。それに閉口したヴィンセントは要領よくカウンターに退避済みである。

ユフィは相変わらずカウンターを占拠し、ティファが店で出そうと試作中のノンアルコールカクテルを片っ端から飲んでいた。意外に的確な指摘をするため、ティファも面白がってどんどんシェイカーを振り続ける。その横ではヴィンセントが寡黙に杯を重ねていた。こちらはもちろん度数の高いアルコールだ。
「そういえばヴィンセント、ティファかクラウドの生まれ年のワイン持ってきてたじゃん。意外に気が利くよね」
先ほどのやりとりを思い出したユフィが言う。
「年の功だ」
意外に、という言葉に腹を立てることもなくヴィンセントはほんのかすかに口の端を持ち上げた。ヴィンセントはその見た目とは異なり、このメンバーの最年長なのだ。
確かに、とティファとユフィは声を揃えて笑った。
「ところでさ、古いワインって高いんでしょ?」
心なしか目をギラつかせてユフィが言う。
「ものによるけど、大体そうね。とにかく時間がかかってるから」
「今から仕込んだら何十年か後にすごい高値で売れるかな!?」
その遠大な野望にティファは苦笑した。
「どうかしらね。うちでもおじいちゃんが作ってたけど家族で飲む用だったし…たくさん作れないと商売にはならないと思うわよ」
子どもだった自分はワインよりジュースにしか興味がなかったが、父は数年寝かせておいたものを大事そうに飲んでいた記憶がある。母が亡くなってからはすっぱり酒を断っていたが。
──そうだ。ロックハートの家にあった、祖父お手製のワインは全てどこかへ行ってしまったのだった。人にあげるなど、父が処分してしまったから。大人になった自分がその味を知る機会がなかったと思うと残念だ。
でもヴィンセントのおかげで思いがけず、ニブルへイムの山葡萄のワインが手に入った。じっくり堪能させてもらおうとティファは思った。

2階からは子どもたちとバレットの笑い声が時折聞こえてきていた。普段の就寝時間はとうに過ぎているが、今日くらいは良いだろう。ティファは困ったように笑い、大目に見ることにした。しばらくして気がつくと、その声も聞こえてこなくなっていた。
なかなか戻ってこないバレットを案じてクラウドが子ども部屋に様子を見に行くと、2つのベッドをくっつけたその真ん中で、マリンとデンゼルを両脇に抱えたバレットが眠っていた。床にはナナキが丸くなっているため、子ども部屋は満員もいいところだ。一瞬、クラウドはバレットを起こそうかとも思ったが、そのあまりに幸福そうな表情を見て、そのままにしておいた。枕元には本や学校で貰った賞状、お気に入りのぬいぐるみなど2人の持ち物が散乱している。親子が過ごしたであろう温かな時間を想い、クラウドは小さく笑みを浮かべた。それと同時に申し訳なさも胸をよぎる。マリンやデンゼルに余計な心配をかけるような俺が“父親“でいいんだろうか、と。

階下では、この細い体のどこに入っているのかと思わずにいられないほどユフィが食べ、そして喋り続けていた。ユフィのアドバイスを受けてレシピを改良したノンアルコールカクテルのグラスをその手に握りしめながら。ティファはその様子を見て、彼女の将来の姿が垣間見えたような気がした。お酒のトラブルがないように注意してあげないと、と密かに妹分への心配を募らせる。ティファは思わず手元のリキュール類を確認する。大丈夫、アルコールは入っていない。…入っていないはずだ。

ユフィの仕事や家の愚痴は留まる所を知らず、ついには家に帰りたくないと駄々を捏ね出した。
「ティファの料理、やっぱおいしーい!あたしもここに住んじゃおうかな~!」
「あはは、WROに通うならその方が楽かもね」
現在はフリーだが、何やらWROに対してアプローチをしているとユフィが先ほど言っていたのを思い出す。
「さっきリーブと話しておけばよかったじゃない」
何しろリーブはその組織のトップだ。
「いやいや、あいつは一筋縄ではいかないもん。もっと大勢職員のいるところでユフィちゃんの能力を見せつけないと…」
にししと笑うユフィの言葉に、そういうものかとティファは妙に感心した。
それにしても、彼女がセブンスヘブンに一緒に住むのは楽しそうだ。遊び相手が増えると子どもたちも喜ぶだろう。
「ここならうるさい親父もいないしさあ」
何気なく続けたユフィの言葉に、ティファは彼女が今18歳であることを思った。18歳…親の小言を疎ましく思う年齢なのだろう。すでに家族を亡くしているティファは、それをほんの少し羨ましく思う。だが、ユフィにはユフィの苦労がある。そう思えるだけの寛容さを、ユフィと4歳しか違わないティファはすでに身につけていた。
「客間は空いてるしね~。確かに子どもたちだけ家に置いて行かなきゃならない時とかユフィがいてくれると私も助かるわね」
ユフィとしては軽い気持ちで言ったのかもしれないが、なかなか魅力的な案かもしれないとティファは思う。休日は買い出しや鍛錬に付き合ってもらおう。それに、クラウドとのこともある──

「ダメだ」
2階から戻ってきたクラウドがその会話に横から割り込み、ユフィの提案を即座に却下する。リーブやシドに余程飲まされたのか完全に目が据わっている。ティファは自分の思考が読まれてでもいたかとぎくりとした。
「はあ?あんたに聞いてないんだけど」
手でシッシッと払う仕草をしながらユフィはクラウドを睨みつけた。
あたしはあんたのことまだ許してないからね──ユフィの言外のメッセージをクラウドは正確に受け取った。
「あたしがここに住んだらダメな理由は?」
その問いに言葉を詰まらせるクラウドに、侮蔑の表情を浮かべた顔を向けたまま、ユフィはカウンターの上のグラスを掴んで中身を一気にあおった。
「あ」
ティファが止めようとした時にはもう遅かった。そのグラスはヴィンセントのものだった。一瞬の出来事に、ヴィンセントも珍しく呆気に取られたように自分の手元とユフィを交互に見た。
「ユフィ!大丈夫!?」
慌てて声をかけるティファにうつろな眼差しを向け、にへらと赤い顔に笑みを浮かべたかと思うと、ユフィはカウンターに勢いよく突っ伏した。どうやら一撃ノックアウトされたらしい。その手から落ちかけたグラスはヴィンセントが素早くキャッチした。
「クラウド、ユフィを客間に運んであげて。私はお水とか用意していくから」
「わかった」
ティファの言葉に、クラウドがユフィをぞんざいに担ぎ上げる。冷蔵庫から水の入ったボトルも取り出し、大丈夫だというようにティファに頷いて見せた。

脱力しきったユフィの体は重く感じられた。思わず舌打ちがもれる。クラウドは、荷物が揺れるに任せて大股で歩を進め、2階の居住スペースまでやってきた。どこからか野太い鼾が聞こえてくる。バレットだろうか。
一室しかない客間のドアを開けるとむっと酒臭い空気が流れ出てきた。部屋の中央にあるベッドには、いつの間にか姿が見えなくなっていたシドが大鼾をかいてひっくり返っている。
このままユフィをここに放り出していこうか──そんな考えが頭をよぎったが、さすがに面倒なことになりそうな気がしてクラウドはため息をつき、客間を後にする。叩きつけたい衝動を堪えてドアをなるべく静かに閉めた。シドはともかく子どもたちの眠りを妨げたくはない。
ずり落ちてきた荷物を乱暴に抱え直したところで、ある考えが閃いた。ユフィはティファの部屋で寝かせよう。ティファは…俺のところに来ればいい。
ほんの少しの後ろめたさを感じながらティファの部屋のドアを開けると、窓から差し込む通りの明かりにシンプルな部屋の様子が浮かび上がった。書き物机に椅子、クローゼット。ベッドの隣のサイドテーブルには電気スタンドと読みかけらしい分厚い本が置いてある。クラウドは本の横に水のボトルを置いた。ユフィをティファにベッドに投げ下ろすと、ふわりと甘い匂いが漂ってきた。ティファの匂いだ。酒とは違う酩酊感を頭の芯に感じながら、ティファを部屋に誘う格好の言い訳を与えてくれたユフィに心の中で感謝する。その太平楽な寝顔はいつになく好ましいものに思えた。

階下では、自然とお開きになった格好の宴会の後片付けをしていた。
テーブルに残されたグラスや皿をシンクまで運んできてくれたヴィンセントにティファは礼を言った。食事をしながら洗えるものは洗っていたため、それほど汚れ物は残っていない。静かな店内に食器類を洗う音だけが響く。キッチンに入ってきたヴィンセントは、そのまま無言でティファを手伝い始めた。
「前もこんなことあったよね」
作業を続けながらティファが言う。ほんの少しこそばゆく感じながら。ずっとずっと前のこと…星を救う旅をしていた間のことだ。ヴィンセントに手伝ってもらって、宿の台所で料理をしたことがあった。
「そんなこともあったな」
ヴィンセントの目元が微かに柔らかくなる。こんなことを言うと嫌がられるかもしれないが、ティファはヴィンセントといると落ち着くのだ。自分と似た黒い髪に紅い瞳…記憶の中の祖父に少しだけ似ている気がするから。
「明日WROに行くんだったっけ?」
「リーブに顔を出すよう頼まれている」
「今日はどうするの?泊まるところはある?」
「…私はどこでも寝られるから適当に過ごすさ」
そんなことだろうと思った、とティファはため息をつく。さすが廃屋の棺桶で長年眠っていただけのことはある。
「ヴィンセントさえ良ければここに泊まっていっていいわよ。ソファしかなくて悪いけど」
「…ではそうさせてもらおう」
ふと思い出したようにヴィンセントが続ける。
「…神羅が崩壊した今、あの村には誰も住んでいないようだった。そのうち行ってみるといい」
「…そうね、多分…いつか」
いろんな記憶の角が取れて、遠い思い出として眺められるようになった頃に。ティファは目を伏せ、曖昧な顔で頷いた。今はまだ、正面から相対するには何もかもがくっきりと見えすぎる気がした。

クラウドが自室をざっと整頓してから1階へ戻ったところ、宴会の跡はあらかた片付いていた。ブランケットに包まったヴィンセントが隅のソファで横になっている。ぴくりとも動かない上にあまりに静かなので再び長い眠りについたのかと思ったほどだ。
ティファはカウンターを拭きあげ、店内の電気を消すところだった。ひっそりと階段を降りてきたクラウドに気づいて声をかける。
「ユフィを寝かせてきてくれてありがとう」
ティファと目線を合わせないまま、クラウドはゆっくりと彼女のもとへやってきた。その足の運び方、じわりと滲む熱気にティファはある予感を覚えた。
「…客間はシドが使っていたからティファのベッドに置いてきた」
クラウドが目を伏せたまま言う。ぎこちない沈黙が2人の間を流れた。
「…ティファは、俺と一緒に寝よう」

躊躇 ためらうティファの手を握ると、水仕事をしていたせいか驚くほど冷たかった。その冷たさに胸の奥の炎が鎮められないうちに、クラウドは強引にティファの手を引き、足早に2階へ向かった。


6


クラウドは、家を出て独り伍番街スラムの教会で星痕のもたらす病苦に耐えながら、ライフストリームに一番近い気がするあの場所で死者に赦しを請うていた。その間、ティファのことを考えない日はなかった。自分から離れたくせに、他の誰かがその隣にいるのを想像すると、身を焼かれるような嫉妬を覚えた。焦がれて焦がれて、諦めきれずに教会の冷たい床をのたうち回った…

そのティファが目の前にいる──クラウドは待ってほしいというティファの懇願もろくに聞かずに強引に体を求めた。久しぶりに目にしたティファの体は、2人がスラムで再会した頃よりも筋肉量が減り、腹や腰の辺りにうっすらと脂肪がついている。そのせいで体の輪郭に柔らかさが増し、どこを触っても敏感に反応する痴態と相まってクラウドの男の部分をこの上なく刺激した。
制止の言葉と裏腹に、触れた時にすでに十分濡れていたティファはクラウドの猛りを貪欲に飲み込み、何度も達した。声を殺して交わりながら、クラウドは今まで感じたことのないほど強い快感を覚えていた。最後に昇りつめた時、クラウドはティファの中に長く長く精を放った。汗まみれでぐったりと横たわるティファの、だらしなく弛んだ口元から赤い舌が現れ、腫れた唇をチラリと舐めた。吐精の刺激を受けた内奥は再び蠢いて、もっともっとと言うように繋がったままのクラウドをさらに奥へと誘った。

興奮の波が徐々に引いた頃、こちらに背を向けてシーツに包まるティファの肩がごく僅かに震えているのにクラウドは気がついた。ギュッと閉じた瞳からポロポロと溢れる涙がひっそりとシーツに吸い込まれていく。そっとその顔を覗き込むと歯を食いしばって感情の波が通り過ぎるのをじっと耐えているのがわかった。本当に辛い時、ティファはこういう泣き方をした。その痛々しさに胸が締め付けられる。
「ティファ…ごめん。我慢できなかった…」
己の身勝手さとまた傷つけてしまった自己嫌悪。何も言わずに出て行った男にそんな資格はないと思いながら、ティファの肩を抱き寄せた。黙ってクラウドの胸に額を付けて身を寄せながら、ティファは固い殻に包まれているような感じがした。涙に濡れた頬が冷たく裸の肌に触れる。
「何も言わずにいなくなって済まなかった…マリンと…それにデンゼルも任せきりにして」
“俺の問題だ”などと言わずに何もかも打ち明けていれば良かったのだ。悔恨も死への恐怖も。堪らず強く抱きしめると、ほんの少しティファの殻が緩むのを感じた。
「ずっと会いたかった…」
クラウドは抱きしめたままティファの髪を撫で続けた。どうか大事な人に気持ちが伝わりますようにと願いを込めながら。窓から差し込む月明かりに、最後に抱いた時よりも痩せた肩が浮かぶ。食事はきちんと摂っていたのだろうかと今更ながら心配になった。恨み言一つ言わないティファのその肩にも胸元にも、自分が欲望のまま撒き散らした赤い印が浮かんでいる。
「俺、ティファのこと傷つけてばかりだな…本当にごめん」
遅れてやってきた後悔は、いったいいつの時点の失態に対するものかクラウドにはもはや区別がつかなくなっていた。
偽の人格を演じながらも体の結びつきを求めていた自分、セフィロスを倒した後これからはずっと一緒だと勝手に浮かれていた自分、大事なものを見失い何も言わずに離れた自分──間違いだらけだった。思い返してみるとティファのことを大切にできていた瞬間がこれまでに少しでもあっただろうか。
「ヒーローになるって約束したのに…明るくて強いティファを思い出させてやるなんて言っておいて…俺は…俺が…」

──触れたところからクラウドの温かい気持ちが流れ込んでくる気がする。この思い出だけで、きっとこれから私は生きていける。

声を震わせながら懸命にクラウドが連ねる言葉に、ゆっくりと目を開けたティファはもう泣いてはいなかった。涙の跡が微かに残る頬は星を救う旅をしていた頃よりも丸みがなくなり、少女時代の終わりを感じさせた。ティファは、ひどく透明な光を瞳に宿して真っ直ぐにクラウドを見つめ、「いいの」と優しく首を振った。その様子に、クラウドはなぜだか胸の奥の方がズキリと痛むのを感じた。

ティファはしばらく迷うように言葉を探していたが、やがてそっと身を離し、にっこりと笑みを浮かべた。ほんの少ししゃがれた声でティファは言う。その唇が微かに震えている。
「子どもの頃の約束をずっと覚えていてくれてありがとう。でも…旅を経て、成長して…ニブルヘイムのクラウドでも、“元ソルジャー”のクラウドでもない、今のあなたは…新しいクラウド」
クラウドが記憶と意思を取り戻して、私の役目はたぶん終わったのだと思う。今のクラウドが求めてる人…それはきっと私じゃない。
腕っ節の強さだけの私とは違う、本当の意味で明るくて強い人…大地に力強く咲く花のような親友の笑顔がティファの心に浮かぶ。
…だから教会にいたのよね、心の中でポツリと溢してティファはもう一度にっこり笑った。夢の終わりを告げる言葉を口に出せない弱さを、どうか許してほしいと思いながら。

「ティファ…?」
ティファは、訝しげに名を呼ぶクラウドの腕からするりと抜け出した。長い髪に隠れる前に見えたその顔があまりに寂しげで、クラウドはなんと言葉をかけるべきかわからなかった。
「ゆっくり休んでね。何かいるものがあれば教えて」
じゃあおやすみ、と言い残してティファは手早く服を着て部屋を出て行った。

行き場をなくした腕が力なく垂れた。ティファは本当は何を言おうとしていた?俺のせいでまた不安にさせているのだろうか。わからない。わからないが、クラウドは何かが終わっていく予感に否応なく気付かされた。

──だが。
新しい自分。確かにそうかもしれない。
戦いが終わり病が癒えた今、取り上げられたと思っていた未来が掌の中に戻ってきたことをクラウドは実感する。未来は──卵の形をしていた。壊れ易い殻に包まれた卵。
俺は、今度こそティファとの未来を守りぬかなくてはならない。


7


ティファは、逃げ込んだ風呂場で鏡に映る自分の体をぼんやりと眺めていた。胸元にいくつもの赤い印が残されている。クラウドの欲望の証。彼の肌には私の歯形と爪痕が残っているはずだ。
先ほどの激しい交わりを思い出して下腹部がひくりと痙攣した。脚の間を伝う精液を処理すると、自分の女の部分が柔らかく蕩け切っていて、まだ敏感になっているのがわかった。鏡の中の自分の顔をじっと見る。少し荒れた肌に赤く腫れた唇。
クラウドが欲しくてたまらない。きっとそう顔に書いてあったに違いない。そうと思うと、今更ながらに羞恥がティファの身を苛んだ。

星痕症候群──クラウドの柔らかい心をズタズタに傷つけた忌まわしい病。彼が家を出る前日も、ベッドの中で自分はそんな顔をしていたのだろう。のん気に、そして無様に。クラウドの中で進行する、死への道ゆきに頓着せずに。

足音を殺して廊下を通り抜け、ティファは自分の部屋の前に立った。どうかユフィが起きませんようにと願いながらドアノブを回す。ほんの少しだけ開けた隙間から体を滑り込ませると、再び音を立てないようにドアを閉めた。肌がなるべく隠れるような服を選んで素早く着替えると、着ていた服をクローゼットの隅に押し込んだ。情事の残り香がふわりと舞い上がる。
ベッドを占領して熟睡しているユフィをなんとかどけて、ティファはその隣に潜り込んだ。ユフィがいてくれて良かった。もし今冷たいシーツに包まって1人で寝ることになっていたとしたら、私はきっとクラウドの元へ戻ってしまう。

なんて私は嫌な女なんだろう。記憶と意識を歪められていたクラウドが自分を激しく欲する度に感じた昏い悦びを後生大事に抱えていて、今もなお待ちわびている。ジェノバ細胞の支配から脱し、ようやく自分の意思でその道を…答えを見つけたクラウドを素直に祝福できない己の浅ましさ、それでいてクラウドの言葉も明るい未来も心の底から信じることができない弱さ。自分の醜さに嫌気が差す。

でも…もう手放してあげなきゃ。自分が今もなおクラウドに求められているなんて甘い幻想に浸るのは終わりにしなければ。

古い約束に縛られることはない。自由に生きてほしい。もう私に優しくしないで。

眠ろう。
眠って、食べて、明日も生きていかなきゃならない。クラウドのいない明日を。


8


ティファが寝苦しさに目を覚ますと、まだ朝の早い時間だった。だがもう起きてもいい頃合いだ。確かクラウドは今日から配達業を再開すると言っていた。
いつの間にか絡みついていたユフィの細い手足を引き剥がし、ベッドを抜け出そうとそっと体を動かすと、隣で眠るユフィが寝ぼけ眼をうっすらと開けた。気怠げな様子とは裏腹にその目が一瞬鋭い光を宿し、ティファはぎくりとする。
片腕をついてベッドの上に半身を起こしたユフィは、「ん」と言いながら、自分の首のやや後ろ側を人差し指でとんとんと叩いた。ティファがその意図を察して姿見で確認すると、髪で隠れた位置に見逃していたキスマークを発見した。
「頭いったい…あたし、も少し寝るね~…」
ティファに弁解する隙を与えずに、ほわあーと猫のようなあくびを一つしてからユフィは再び暖かいベッドに潜り込んだ。すぐに規則正しい寝息が聞こえて来る。

気まずさを感じながらティファはベッドから降り、クローゼットを開ける。脱ぎ捨てられた服がその隅の方に押し込まれているのが目に入り、昨夜の秘事の証拠を突きつけられたような気分になった。タンスからハイネックの薄手のニットを取り出しかぶってみると、問題のある箇所はどうやら全て隠れることがわかった。下は手近なジーンズに適当に足を突っ込む。軽く頭を振ると、それだけで背中に流れる黒髪はそれなりにまとまった。ざっと手櫛で整えて終了だ。

階段を降りると、店内にはまだ昨夜の宴会の名残のような浮ついた空気が感じられた。例えば、畳んでソファの背もたれにかけてあるブランケットや、おそらく明け方に誰かが水を飲んだであろうグラスなどだ。ヴィンセントはすでに出て行ったようで姿が見えない。
とりあえずティファはコーヒーを淹れることにした。うんと濃いやつにしよう。

だんだんと朝の気配が濃くなってくる頃、昨夜よけておいた肉や野菜を挟んだサンドイッチを用意し終え、そろそろスープを温めだそうかとティファは考えていた。その時、ドアを開け閉てする音が大きく響いたかと思うと、ナナキと子どもたちがドタドタと騒がしく階段を降りてきた。一晩眠って充電ばっちりというわけだ。それとは対照的に、遅れて現れたバレットは寝違えでもしたのか難しい顔で首筋を揉んでいる。
元気いっぱいの子どもたちが口々にティファと朝の挨拶を交わす。
「ティファおはよう!」
「おはよう。よく眠れた?」
興奮のあまり上気した顔で2人は代わる代わる捲し立てた。
「うん!あのね、父ちゃんがゴールドソーサーに連れて行ってくれるって!明日から行ってきてもいい?」
「すごい遊園地なんだろ!?チョコボのレースもあるって!」
なるほど、それで朝から興奮しているわけか。
「もちろんいいわよ!」
ティファが目を細めて答えると、マリンとデンゼルは飛び上がって喜んだ。早速行きたいところを指折り数えている。2人の会話から察するに、学校で級友がゴールドソーサーに行ったと自慢していたのを羨ましく思っていたらしい。言ってくれればよかったのにとは思うが、普段忙しさにかまけて子どもたちに遠慮させていたことに申し訳なくなる。

昨夜の酒が残っているのか狭いベッドで寝たせいか、疲れが取れていない様子のバレットがのっそりとカウンターのスツールに腰かけた。
はいどうぞ、とティファはバレットの前にコーヒーを淹れたマグカップを置いた。ボソリと礼を述べたバレットはコーヒーを一口飲んで顔をしかめる。
「…随分苦いな」
「ちょっと失敗しちゃって…ミルク入れる?」
「頼むわ」
珍しいものでも見るように、苦笑するティファにちらりと目をやり、バレットはカップを手渡した。それからぐいと身を乗り出し、口を開く。
「今日はエッジをあちこち回ってくる。顔馴染みに挨拶もしたいしな。夜には戻るつもりだ。んで明日シドと一緒にここを立つわ」
なにかを思いついた顔でバレットはニヤリとする。
「おい、デンゼル!明日は飛空艇で出掛けるぞ!」
バレットの宣言にデンゼルの顔が輝いた。ナナキから聞いた海や砂漠を空から眺められる。期待に胸がはち切れそうだった。
その様子を見て、「オイラも一緒にゴールドソーサーに行こうかなあ…」と呟いたナナキの首にデンゼルが抱きついた。子どもたちはコスモキャニオンにも行きたいと大はしゃぎだ。
こりゃあシドをなだめるのに苦労しそうだとこぼし、バレットは苦笑いを浮かべた。燃料がどうのとぶつくさ言われる覚悟くらいは決めておいた方が良さそうだ。

「ティファも一緒に行くよね?」
マリンが振り向いてさも当然といった風にティファに訊ねると、ティファは困ったように眉を下げ、マリンに謝った。
「ごめんね…そろそろお店を開けないとならないから準備があるのよ」
バハムートの襲来の後、街の再建などを優先するために店を休みにしていたが、懇意にしている食料品店や生鮮食品を扱う業者たちから早く営業を再開するようせっつかれているのだ。何をどれだけ仕入れるか長期的な予定──昨日の宴会のためような単発の仕入れではなく──を立てたいという彼らの事情は痛いほどよくわかる。街は、日常に戻ろうとしている。そして、人々の日常を支えることが自分のやるべきことだとティファは考えるようになっていた。
寂しそうな表情を浮かべたマリンを肩に担ぎ上げ、バレットは笑いかけた。
「マリン、元気出せ。その分父ちゃんがいっぱい遊んでやるからよ!」
「…うん!」
マリンにようやく笑顔が戻った。

身支度を整えたクラウドが1階に姿を現すと、すでに食事を終えた子どもたちはもう一度素晴らしい旅の計画について初めから説明した。クラウドはデンゼルの隣に座って時折頷きながら最後まで話を聞くと、気をつけて行ってこいと言った。
「え…クラウドは行かないの?」
目に見えてがっかりするデンゼルの頭に手を置き、「悪いな」と言った。
「大事な用があるんだ。マリンのこと、しっかり頼むぞ」
男同士の約束だ、と拳と拳を合わせる。クラウドにそう言われてはデンゼルも渋々折れざるを得なかった。そこに足音もさせずにいつの間にか現れていたユフィが、聞こえよがしにため息をつく。
「大事な用ねえ。どうせティファといちゃつきたいだけだろ~」とクラウドの斜め向かいの席からチャチャを入れた。
クラウドは無視を決め込んだ。素知らぬ顔で荷物の点検を始める。その様子を苦笑しながら見ていたティファはユフィとクラウドの前にサンドイッチの皿を置いてやる。
「…ありがとう」
クラウドが礼を言うと、ティファはにっこり笑って「召し上がれ」と答えた。クラウドはカウンターへ戻っていくその後ろ姿を見つめ、昨夜自分がつけた印を服越しに目線で追っていく。首筋までたどり着いたところで、ユフィがジトっとした視線を送っているのに気づき、手元のサンドイッチに意識を向けた。

ようやく起きてきたシドは、マリンとデンゼルに飛空艇について質問攻めにされた。二日酔いでガンガン痛む頭を抱えて、シドは「ああ」とか「むう」とか返事とも唸り声ともつかない反応を返している。バレット共々ゴールドソーサーへ送り届けるという約束のはずが、コスモキャニオンにも立ち寄るという話には流石に一瞬怪訝そうな顔をしたものの、か細い声で返事する。
「わかった…コンドルフォートでも北の大空洞でもどこでも連れてってやらあ…頼むから静かにしてくれぃ…」
「違うよシドおじさん、コスモキャニオンだよ」
呆れたデンゼルの言葉にシドは声もなく撃沈した。そこに、サンドイッチをぱくつくユフィが追い討ちをかけるように軽蔑の眼差しを向ける。
「オヤジ、しっかりしなよ…2人ともああいう大人にはなるんじゃないぞ~」
口をモゴモゴさせながらユフィは年長者としての忠告を与えた。
「ユフィ姉ちゃんも口に食べ物入れたまま喋るなよな…」
デンゼルの容赦のない言葉に、シドとユフィを除く大人たちは苦笑いを浮かべて頷くのであった。


9


昼は適当に済ますと言い置いて、バレットは出かけて行った。街を見物してからこちらの大陸を少しうろついてくるというナナキも一緒だ。マリンとデンゼルは明日から私用で休む旨をしたためた保護者──ティファからの書き付けを持って学校へ向かった。WROに用があるというユフィは、今日はそっちの宿舎に泊まるから明日また顔を出すと言い、あっという間に去っていった。シドもWROで会議があるらしく、気乗りしないのなんのと言いながらも出かけて行った。夜は飛空艇のクルーたちと過ごすという。

朝の穏やかな時間にクラウドとティファだけが取り残された。

クラウドは、今日は歩いてエッジ内の様子を見がてら今後の配送の打ち合わせと数件の集荷の予定が入っているだけだった。昨夜の宴会でほとんど空になった冷蔵庫の補充が必要だというティファの言葉を聞き、食料品の買い出しに付き合うと言い出した。
昨夜のこともあり、ティファはクラウドにどう接するべきか態度を決めかねていた。対するクラウドは妙に飄々としており、それがまたティファの気持ちを波立たせる。だが、その申し出を有り難く受けることにした。実のところ今日の買い物は大荷物になりそうなので人手が欲しかったのだ。

馴染みの食料品店に顔を出すと、老店主が朗らかにティファを迎えてくれた。店主はそのすぐ横に寄り添うクラウドの顔を見て、「今日は荷物持ちがいるんだね」と笑って言った。
ええ、と穏やかに答えたティファの顔はクラウドからは見えなかった。

買い物が終わり、食料品を詰め込んだ紙袋を抱えてクラウドはティファとエッジの街を歩いていた。壊れた家屋や店の修繕に精を出す人々を眺めながら、とりとめのない会話をする。
シエラとシドの出産祝いを何にしようかと気の早い相談をしていたところで、ティファからの返事がないのに気づいたクラウドが足を止めた。
クラウドは振り返り、数歩手前で立ち止まっていたティファの顔を見た。その視線の先には通りを歩く花嫁の姿があった。ベールに覆われていてもその口元に笑みが浮かんでいるのがわかる。真っ白なウェディングドレスは緩やかに裾まで広がり、胸元や肩口に花をあしらった刺繍が施されている。花嫁と腕を組んで歩くのは彼女によく似た面立ちの老人だ。何かを堪えるように顔をしかめている。そして2人の歩む先には花婿が待っていた。こちらは純白のタキシードに身を包み、あふれんばかりの笑顔を浮かべていた。
──と、花婿が花嫁に向かって駆け出し、その体を抱き上げてくるくると回り出した。手順を無視した花婿の行動に周囲の人間は慌てふためいているが、幸福な2人は楽しそうな笑い声を上げている。花嫁を地面にそっと下ろし、花婿は強く抱きしめた。よく見ると花嫁の付き添いの老人の手には写真立てが大事そうに抱えられている。離れているため被写体の詳細までは分からないが、何人かで撮った家族写真のようだ。その写真を中心に、若い2人と老人は泣いたり笑ったりしながらしばらくの間抱き合っていたが、やがてお互いを支え合って自分たちを待つ人々のもとへ進んでいった。
クラウドとティファも店へと戻ろうと歩き出して少しした頃、遠くから鐘の音が聞こえてきた。振り返ったティファの目に、その音に驚いた鳩の群れがエッジ唯一の教会の尖塔から飛び立つのが見えた。青い空から舞い落ちる白い羽はあの光の雨を思い出させた。世界の全部が新しい夫婦の誕生を祝福しているかのようだった。

希望、未来、幸福。
密かにティファへの思いを新たにしたクラウドにとって、彼らの門出に出会えたことは幸先の良い兆しだと思われた。
「…ティファもああいうドレスを着たいのか?」
クラウドは勇気を振り絞ってティファに訊いた。黒で統一されたレザーのセットアップというシックな装いや今日のハイネックのニットとジーンズというシンプルな服装はティファによく似合っているが、他の服だって似合うに違いない。特に、純白のドレスとか。
クラウドのいつになく真剣な眼差しに気づき、ティファは小首を傾げて困ったように笑った。
「私?似合わないよ、きっと」
「そんなことない」
力を込めて否定するクラウドに取り合わず、ティファは顎に手を当てて考え込んでいる。
「…うーん、まあ貰ってくれる人をまず見つけないとなあ…」
予想外のティファの言葉にクラウドは心の奥の方が冷たくなるのを感じた。何か言わなければと思うのに、喉がつかえて言葉が出てこない。クラウドは俯いたままのティファを瞬きもせずにただ見つめることしかできなかった。色を失くした世界の中でクラウドは正しい言葉を見つけられずにいる。
先ほどの鳩の群が上空を掠め、ほんの一瞬、2人の上に影を落とした。足元の石畳に歪な千鳥格子が描かれる。賑やかな羽音とともにその影が通り過ぎて再び陽の光が戻った時、顔を上げたティファはとても穏やかな表情を浮かべていた。
「私はいいから…クラウドは誰か好きな人ができたら教えてね。お祝い…させて欲しいの」
クラウドは心臓を冷ややかな手で鷲掴みにされたように感じた。頭の中を物凄い勢いで血が駆け巡り、こめかみがズキズキと痛んだ。自分の鼓動が耳の中で響いていて周りの音がなにも聞こえない。何か言わなくては。そうしないときっと取り返しのつかないことになる。
「…俺が大事なのはティファだ」
「ありがとう。私もクラウドがとっても大事」
人差し指にはめられたクラウディウルフの指輪をティファはそっと撫でた。俺たちの…家族の証だ。
そういう意味じゃない──クラウドは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。ティファはわかった上ではぐらかしていると知っていたから。柔らかい拒絶。

互いの醸し出す気配の意味合いを読み取るのは得意なくせに、それを受け止めることも否定することもできない俺たちは一体何に怯えているのだろう。クラウドはそう思った。

「そろそろお仕事だよね?お店すぐそこだからもう大丈夫よ。気をつけていってらっしゃい」
荷物ありがとう、と言ってティファは未だ呆然としているクラウドの腕の中から食料品を詰めた紙袋を引き取った。にっこり微笑んでから踵を返す。凛としたモノトーンの後ろ姿が雑踏の中に消えるまでクラウドはその場に立ち尽くしていた。周囲のざわめきとともに世界にくすんだ色合いが戻ってくる。

──俺はずっと独りよがりだ。姿を消す前に2人の関係が険悪なものになりつつあった時期、ティファは自分のことが好きかと俺に問うた。その勇気をはぐらかし無かったものにしたのは誰だ?
ソルジャーになると決めた時、精神の最奥で本当の自分を取り戻した時、セフィロスとの決戦に臨む時…いつだって俺に勇気をくれたのはティファだったのに。
ティファの優しさに甘えている──いつかのユフィの痛烈な言葉が耳に蘇った。

あれはカダージュやセフィロスとの戦闘後、手放してしまった合体剣を探してクラウドとユフィが瓦礫の山をうろついていた時のことだ。

「あんたさあ、ティファに甘えるのもいい加減にしなよ」
探索に飽きたユフィが崩れた建物の屋根の先端に腰掛けて足をブラブラさせながら言った。拾った石くれを手の中で弄びながら。
「…今回も遅れてしまったからな」
教会で倒れていたティファの傷だらけの姿を思い出し、改めて自分の不甲斐なさに腹が立つ。その言葉に振り返ったユフィは眉をひそめている。クラウドの顔を穴が開くほど見つめ、それから乱暴にため息をついた。
「そういうことじゃないっつーの。とにかくちゃんと…お礼は言いなよ」
「ティファは分かってくれているはずだ」
ユフィの眼差しに険がこもる。丸い目を細め、クラウドから顔を背けて吐き捨てる。
「…あたしは忠告したからね」

あの時、ユフィはティファのことを──俺たちのことを理解できていないのだと思った。

──なにもわかってないのは俺の方だった。


10


前日とは打って変わって和やかな夜であった。クラウド、ティファ、バレット、マリン、デンゼルの5人で夕食を摂り、きゃあきゃあと大騒ぎしながら旅行の準備を終えた。その後、子どもたちはそれぞれ風呂に入ってから早めにベッドに追いやられた。明日からの冒険に備えて体調を万全にしておかなければ。

「バレット、今日は子ども部屋で寝ないの?」
ティファがからかい半分に訊ねると、バレットは苦笑しながら、「今日は客間の方で寝させてもらう」と答えた。やはり昨夜は相当寝にくかったようだ。まだ体のあちこちが痛いとこぼしている。
「しかしエッジも変わったな。人も増えたみてえだし」
今日見て回った街の様子を思い浮かべて、バレットは言った。ミッドガルの廃材の寄せ集めから始まった街は随分賑やかになり、流通が発達してきたことも窺えた。この逞しさはスラム譲りだなとバレットが得意げに言うと、どこかぎこちない雰囲気だったクラウドとティファもようやく笑みを浮かべた。
昔からよく知る雑貨屋のじいさんがバハムート騒ぎで足を怪我したが大事ないようだったとか、年齢不詳の天望荘の元大家が相変わらずの減らず口だったとか、大仰なジェスチャーを交えてバレットはしゃべり続けた。
その温かい熱のこもった渦はティファにもクラウドにも懐かしい時間を思い起こさせた。大人3人で何か飲もうかという話になったが、宴会で粗方酒が出尽くしてしまったという。
「業者さんが明日あたりに来ることになってるんだけど…」
ティファは申し訳なさそうに言った。
なら仕方ねえなと答えたものの、バレットは残念そうだった。妙に大人しいクラウドをチラリと見やり、「何かねえのか」と食い下がる。
「…あ、ヴィンセントが持ってきてくれたワインがあるの。多分、ニブルへイムの山葡萄のワイン」
神羅屋敷の地下で見つけたんだって、と付け加え、ティファはセラーにしまっておいた古いボトルを慎重に取り出した。ヴィンセントはクラウドと2人で、と言っていたがバレットなら構わないだろう。
神羅屋敷という単語にクラウドが顔を上げた。2人の故郷ニブルヘイム。星空。給水塔。そして約束。
「クラウド、覚えてる?子どもの頃、秋に山葡萄取りに行ったよね。ジュースとかワインとか作ってたっけ…」
懐かしいな、と呟くティファは優しい目線をクラウドに向けた。ようやく目を合わせたクラウドが穏やかに言った。
「…ジュース…酸っぱかったな」
「そうそう」
ふふ、と笑みをこぼしてティファも同意した。
「ニブルのワインは飲んだことないの。ちょっと楽しみ」
ティファは目を輝かせて3人分のワイングラスを用意し、コルク抜きを引き出しから取り出した。

「私かクラウドの生まれ年のワインみたいだからかなり熟成が進んでいると思うのよね」
「へえ!生まれ年のワインか!あいつ案外洒落てるな」
バレットは不器用に口笛を吹き、ここにはいない仲間の意外な一面に驚いて見せた。そもそもヴィンセントがティファやクラウドの年齢を大体でも把握しているとは思わなかった。
「あはは、ユフィも似たようなこと言ってたよ」
ティファの言葉にバレットはあからさまに嫌そうな顔をしたが、気を取り直して緑色の簡素なラベルを仔細に眺めた。確かに消えかけた手書きの字はティファの誕生年である年号のように見える。
「22年か23年ものか…ワインとしちゃあかなり古いが、人間だと思うとまだまだ若えな!」
そう言ってニヤリと笑ったバレットは、自分がその歳の頃はどうしていただろう、とふと思った。故郷コレルの炭鉱で早くから働き出し、こんなところから早く逃げ出したいと苛立ちながら来る日も来る日も石炭を掘っていた。石炭くらいしか取り柄がないと思っていたあの山に魔胱炉を建設すると神羅の人間が調査のために訪れた時、退屈な自分の人生が素晴らしいものに変わるはずだと愚かにも浮かれていたのを思い出す。何も考えていない若者だった。そのせいで多くの取り返しのつかない過ちを犯してきた。

黙り込んだバレットをきょとんとした顔で見つめるティファ。
そして、そのティファをぼんやり眺めるクラウド。

──片やこいつらはどうだ?立派に自分の足で立ってるじゃねえか。もう…もう幸せになってもいいんじゃねえか?

長いような短いような、自分たち3人の過去が濁流のようにバレットの心を覆う。

「…開けようか」
バレットを気遣うように穏やかな笑みを浮かべてティファは言った。手にはコルク抜きが握られている。
「おめえなら素手で開けられるんじゃねえか?」
滲む涙を誤魔化すためにバレットは軽口を叩いた。ニヤリとしながら手刀で栓を開ける真似をして見せる。
「そうね、もちろんできますけど。でも瓶も割れちゃうかもしれないわよ。しかもせっかく沈めた澱が舞っちゃうもの」
腰に手を当て、冷静に言い返すティファに、バレットは両手を上げて降参した。

ティファは慎重な手つきでコルク栓を抜き、なるべく澱を揺らさないよう静かにグラスにワインを注いだ。褐色にほど近い、深い赤が現れる。天井のライトを受けてゆらりと液面が煌めいた。
おお…と、誰の口からか感嘆の声がもれる。グラスをくるくると回すとガラスの内壁にワインが張り付き、緩やかに垂れ跡を描いた。なんとなく目を見合わせてから、3人それぞれに口を付ける。
地下で長い間寝かされていたワインは、複雑な味がするものの渋みや角が取れたまろやかさを備えていた。
「よくわかんねえけど美味い気はするな」
よくわかんねえけど、とバレットは繰り返した。
「昔、ジュースと間違って飲んだ時はもっと苦くて酸っぱかった気がするな」
クラウドは遠い記憶を手繰り寄せる。自分が大人になったせいなのか、ワインが熟成されたせいなのかはわからないが、確かに今飲んでいるものは口に合う気がした。
「…でもなんだか木を噛んでいるみたいな味だな…」
「もう、せっかくのオールドヴィンテージなのに!」
ポツリとこぼしたクラウドの呟きをティファが聞き咎める。2人の野暮天には勿体ない出来のワインだとティファは心の中で嘆いた。
そうか。温度変化が小さく、かつ直射日光が当たらない地下で保存されていたから状態がいいんだ。ワインの想像以上の出来の良さにティファは1人納得する。そうするとむくむくと頭の中で欲が湧いてきた。
「…そういえば神羅屋敷にまだ残ってるってヴィンセントは言ってたわね…」
あの地下にこのまま眠らせておくには惜しい。放置しすぎると熟成のピークも過ぎてしまう。ヴィンセントにはニブルヘイムに行くのは気が進まないようなことを言ってしまったものの、ワインに釣られて気が変わるのだから自分もなかなか単純だ。
さて、どうやって運ぼうか。
「…なるべく揺らしたくないから…海チョコボはダメね。飛空艇を出してもらうのが1番だけど…シドに直接頼むと…それよりシエラさんにまず…」
シドを懐柔する算段についてぶつぶつと呟くティファを笑いを堪えながらバレットは観察していたが、ついに我慢できずに噴き出した。
「おめえ、案外そういうところあるよな」
バレットは大きく破顔した。慎重なようでいて大胆、常識派の顔の下に型破りな部分が隠れている。これもティファの一面だ。
「だって勿体ないじゃない」
ティファが笑いながら答えた。

クラウドは2人のやりとりを不思議な気持ちで眺めていた。居心地の悪さとはまた違う──馴染みのない感情で。
懐かしさと新しさ、変わらぬものと変わっていくもの。漠然とではあるが、何かを掴みかけている気がした。


11


自分の分のワインをしっかり味わってから、今日は早めに寝ると宣言してティファは居住スペースへと消えた。
「自分のグラス、洗っておいてね!」
2階へと続く階段から片付けを指示する声だけが降ってきた。
見えないのは承知で片手を上げ、「あいよ」とバレットは答えた。

さて、階下に残されたのは男2人だ。
「…悪いな、俺が相手でよ」
意地の悪い笑みを浮かべたバレットに、クラウドは肩をすくめて見せた。
「お。懐かしいな、その仕草!興味ないねってか」
クラウドは、揶揄するバレットに一瞬ムッとした顔を向けたが、ふいと力なく視線を逸らした。
「そんなんじゃない…ただ、あんたとサシで飲むのも悪くないと思ったんだ」
クラウドを真似して、「そりゃどうも」とバレットも肩をすくめた。

「しっかし、まさかこんな風におめえと酒を酌み交わすようになるとはな」
バレットは無造作にボトルを掴むと、残っていたワインを勢いよくクラウドのグラスに注いだ。底に溜まっていた澱がワインと一緒に舞い落ちて、グラスの底にふわりと着地した。
「全くだ」と答えてクラウドはグラスを受け取る。お互いの第一印象は最悪だったと言っていいだろう。
「…出会ったばっかりの頃のおめえはよ、気取っててそりゃあいけすかない奴だったぜ」
その言葉に何か言い返そうと口を開いたクラウドを手で制し、バレットは続ける。
「…でもな、ティファのことが大事でたまんねえってのだけはすぐにわかった。今でもそれは変わらねえんだろ?」
バレットはグラスの中のワインを揺らしながら、クラウドに訊ねた。
「ああ」
クラウドは、真っ直ぐに前を向いてきっぱりと答えた。
「…ティファは…どうだかわからないけどな」
顔を伏せて言葉を続け、クラウドも自分のグラスの中でワインの赤が踊るのを見つめていた。バレットは否定も肯定もせず、ただクラウドの次の言葉を待った。
ややあって、クラウドはポツリとこぼす。
「ティファは…ティファにはもう俺は必要じゃないのかもしれない」
神妙な顔をしてこちらを見遣るバレットに、クラウドは日中にあった出来事を話して聞かせた。途切れ途切れで要領を得ない話し方だったが、バレットは辛抱強く耳を傾けた。
バレットは、昨日の様子からティファの方もクラウドに対して似たようなことを考えているのだろうとは察していた。

──面倒くせえ。正直面倒くせえが、こいつらはこれまでに色々ありすぎて、こんがらがっちまってるんだ。
だが──ティファの気持ちはティファのもんだ。俺が勝手にクラウドにどうこう言っていいことじゃねえ。

厄介な感情ってのはワインの澱のようだな、と柄にもなくバレットは思う。
長い時間をかけて形成され、決して消えない不純物。舞い上げてしまわないよう心の底に鎮めておくか、一度口に入れてしまえば何もかも引っくるめて飲み下すしかない。

「で、おめえはどうしたいんだ。諦めんのか?」
遠回しなやり方は苦手だ。バレットは体ごとクラウドに向き直り、直球の質問を投げかけた。
諦める…その言葉は、クラウドの心にあの絶望の日々を思い出させた。ここで諦めるということは、掌の中の卵を握り潰し、ティファとの未来を再び手放すことを意味している。それだけはできない。俺は今も生きているのだから。

バレットは確かに見た。顔を上げたクラウドの瞳に強い意志の炎が灯るのを。紺碧の空に天の川がかかっているような、その不思議な色の瞳はライトの光を受けていくつもの星が煌めいているようだった。
「もう離す気はないんだろ?…だったら踏ん張れ」
バレットの大きな手がクラウドの背中を優しく叩いた。その力強い温かさに不覚にも涙がこみ上げてくるのに気づき、クラウドは慌てて目をしばたいた。それに気づかないフリをしたバレットは椅子から立ち上がり、あくびをひとつすると「そろそろ寝るわ」と言った。
階段へ向かいかけたところで振り返り、ニッと笑ってバレットは言った。
「あいつは頑固だからよ、腹括ると手強いぜ。せいぜい気張って口説くんだな」
グラス洗っといてくれや、と言い残して、大きな体を揺らしながらバレットは階段を上って行った。心の中でクラウドに精一杯のエールを送りながら。
──行き違いも派手な喧嘩も…おめえらはいくらでもやり直せる。お互い、生きてるんだからな。

「…ありがとう、バレット」
1人きりの店内でクラウドは呟いた。
兄のような父のような、大事な家族。共に戦ったかけがえのない仲間。
いつかあんたみたいな男になれたら──クラウドはグラスに残ったワインを飲み干した。澱の混じったそれは喉にざらついたが、悪くない味がした。

自我を取り戻す前に感じていたティファへの強烈な執着心。あれは記憶を補完するためのジェノバ細胞の作用だったのかもしれないが、その奥底にあった変わらぬ恋心だけは本来の自分がずっと胸に秘めてきた嘘偽りのない気持ちだ。例えそれが強すぎる独占欲と肉欲という歪んだ形で表出してしまったのだとしても。
だが──ティファはもっと明るくて強い。忘れたなら俺が思い出させてやる──なんて傲慢なことを俺は言ってしまったんだろう。魔胱漬けの5年間とジェノバに支配されていた旅の間、俺の時間は止まっていた。片や独りミッドガルに放り出され、早く大人になるしか生きる道はなかったティファ。

昨夜、俺は新しいクラウドになったとティファは言った。それはティファも同じだったんだ。
ニブルヘイムで暮らしていた15歳までのティファはもうここにはいない。あそこでは、村長である父親に守られ、村の誰もが彼女をお姫様のように扱っていた。そのティファが7番街スラムのガレキ通りで躊躇なくモンスターを屠るのを目にした時、心底驚いたものだ。『なんでも屋』の依頼を一緒にこなす際には商売人としての如才の無さ──有り体に言えばちゃっかりしているところ──やシニカルな一面も見ることができた。スラムの歓楽街のボスに向かって「すり潰すわよ」という脅し文句を吐いたこともあった。
だが、それでティファへの気持ちが小さくなったかと言えば、答えは否だ。旅の間に自我を失くしたままさらに想いは募り、心の奥底に降り積もっていった。川が海に流れ込んで2つの水の区別がつかなくなるように、あの頃の記憶や想いは今の自分にも残っている。

俺が求めているのはティファだけだ。今とか昔とか関係ない。理屈を超えた20年越しの片想い。ティファに振り向いてもらうこと──これが俺の人生の目標なんだ。
シンプルな事実に辿り着いてクラウドは心が軽くなった。


12


カウンターの内側からだと、セブンスヘブンの店内が隅々までよく見え、そしてやけに広く感じられることにクラウドは気がついた。
冷蔵庫の、客から見えない位置に貼られた家族写真を見て、それを撮った時のことを思い出す。自分はいいと言って写るのを遠慮するティファを、バレットが無理矢理真ん中に立たせたのだった。思えば世界を回る傍ら、カメラであちこちの風景写真を撮ってきたが、俺はティファの写真を撮ったことがない。そばにいるのが当たり前すぎてその必要性を感じなかったからだ。
だが、変わっていくティファの、その時々の瞬間を俺はもっと写真に残したい。

クラウドは、バレットと自分のグラスを洗い、水切りに上げた。ふと、空になったワインのボトルも洗っておこうと思った。なんとなく他の空き瓶と同じようにゴミとして片付けることが躊躇われたからだ。
ボトルを手に取り、バレットを真似てラベルを眺めてみるが、やはり製造年と思しき年号くらいしかわからなかった。ざっと内側を水で洗った後、何気なく頭上にかざしてくるりと回して見たところ、ラベルに何か文章が書かれていることに気がついた。もう一度表から見てみるが、ただ厚手の紙に素っ気なく年号が記載されているに過ぎない。

──裏側に何か書いてあるんだ。
引き出しからナイフを取り出し、震える手で慎重にラベルを剥がしていった。クラウドの心臓がどくりと鳴った。こんなことがあるだろうか。
これは──ティファ宛のメッセージだ。

クラウドは急いで2階へ向かった。ティファの部屋の前で、深呼吸をひとつ。

ティファはベッドに腹這いになって、読みかけの本の続きに取り組んでいた。読み進めたい気持ちはあるのだが、内容が頭に入ってこず、なかなか先に進むことができない。
クラウドのせいだ。今日の日中、街であったやりとりが脳裏をよぎる。

──俺が大事なのはティファだ。

どうしてそんな期待させるようなことを言うのだろう?
でも…大事って…なに?

ティファは諦めて本を閉じると、電気スタンドを消し、ベッドに仰向けに寝転んだ。どこからか光が漏れてくるらしく、部屋の中は真っ暗というわけではなかった。薄い暗闇の中では自分の体の境界線があやふやで、妙に冴えた頭で紡ぎ出されるでたらめな思考がどこかへ溶け出して行くような気がする。体を動かしたい気分だ。
やっぱり部屋にサンドバッグでも置こうかとティファが考えていた時、控えめなノックの音が聞こえた。マリンだろうか。怖い夢でも見たのかもしれない。
「…ティファ、起きてるか?」
聞こえてきたのはクラウドの声だった。

昨夜のこともあって警戒心が頭をもたげる。もう放っておいてほしい、そう思うのに、胸の奥から溢れてくる気持ちは苛立ちの混じった喜びだった。それに、あの少し吐息混じりの声で名前を呼ばれると自分がどうしても抗えないのをティファは知っていた。やっぱりクラウドはずるい。
ベッドから床に足を下ろすと素足にひやりとした感触が伝わる。夜着のタンクトップとショートパンツだけではまずいと思い、肩にカーディガンを羽織った。
ドアの前で深呼吸をひとつ。少し躊躇ってから、ティファはドアを開けた。

窓から差し込む月明かりを受けて、クラウドは少し緊張した面持ちでドアの前に立っている。
「えっと…どうしたの?」
何の用だろうとティファが訝しんでいると、また優しく名前を呼ばれた。
「ティファ…」
「と、とりあえず入って」
話し声で他の家族を起こすのは忍びないのでティファはクラウドを部屋に招き入れた。ベッドの脇の電気スタンドのスイッチを入れると、ぼんやりした明かりで部屋が満たされた。

これ、と言ってクラウドに差し出されたのは緑色の紙片だった。ティファがそれとクラウドの顔を交互に見やり、小首を傾げると、クラウドはただ頷いた。手に取ってしげしげと眺めてみる。
「さっきのワインのラベル…?」
「裏にメッセージが書いてあった。…ティファ宛の」
「…え?」
その言葉にティファは弾かれたように顔を上げ、紙片を裏返した。そこには、ほんの数行の文章が並んでいた。

ティファ 20歳のお誕生日おめでとう!
どんな大人になっているだろう?
人生を楽しんで。

愛をこめて。
おじいちゃんより

追伸 美味しくできているといいんだけど…

それはティファの祖父からの言葉だった。
「…あのワイン、ティファのおじいちゃんが作ったやつだったんだな」
あまりの驚きにティファは言葉を失っている。俺も驚いた、とクラウドは苦笑した。
「ティファの20歳の誕生日に開けるつもりでメッセージも仕込んでおいたんだろうな…」
クラウドの言葉に、ティファは黙って頷いた。もうはっきりとは顔を思い出せないけれど、亡くなった祖父もティファと同じく黒い髪に赤い瞳の持ち主だった。ティファはおじいちゃん似ね、と村の大人たちからよく言われたものだ。忘れたと思っていた記憶がいくつも蘇ってくる。手先が器用で茶目っ気に溢れた人だったこと、ちょっとした悪戯をする時、ティファにこっそり片目をつぶって教えてくれたこと…。そう。悪戯好きな人だった。
「しかも中身を空けてみないと気付かないってわけね」
ようやく衝撃から立ち直りつつあるティファが言った。
濃い色のワインが入っていれば厚手のラベルの表からはメッセージがわからない。誰もこの壮大なサプライズに気がつかなかったらどうするつもりだったのだろうか。現に、ロックハート家から神羅屋敷にその所有が移っていたことから、少なくとも父は知らなかったと思われる。家のワインを処分した際に、気づかずに人に譲ってしまったのだろう。

おじいちゃんたら、と呟いてティファは困ったような笑みを浮かべた。
20歳の誕生日からは遅れてしまったけど、ちゃんと届いたよ。受け取ったよ。

炎の中で何もかも失ったと思っていた。たった1人の肉親である父も、思い出の詰まった生家も。その復讐は遂げたが、何もこの手には戻ってこなかった。代わりに残ったのは重ねてきた罪と贖罪だけ。しかし、贖罪を果たした後、一体自分に何が残るのだろうとティファは時折考えずにいられなかった。

だが、この短いメッセージの中には確かにあった。ティファがティファとしてこの世に生まれてきたことへの祝福と、変わっていくことも含めて、その人生の幸せを願う祖父の祈りが。数奇な運命を辿ってティファの元に届けられた、この緑色の紙片は確かな存在感を持って自分の掌の中に収まっている。
この世界に、未来に。居場所を探してもいいと言ってくれているような気がした。

人生を楽しめ、か。
私は、おじいちゃんやパパやママが望んでいた女の子にはなれなかった。そのこと自体に後悔はない。けれど、“もしも”があったら──
祖父からのメッセージを手に持ったまま黙り込んだティファを見つめて、クラウドが静かに言った。
「ティファ、過去は変えられない。俺たちは、それでも生きていこうって決めたろ」
「…うん」
クラウドの言葉に、ほんの少しの間目を瞑ってから顔を上げたティファは、その紅い瞳に再び炎を灯していた。
クラウドは思う。どれだけ辛くて苦しいか俺はわかっている。それでも前を向くティファの勇気を、心から誇らしく思うよ。

人生を楽しむ。とっても難しいわ、おじいちゃん。私1人じゃ、きっと無理。
──でも、一緒に戦ってくれる人がいるの。1人じゃできないことも2人でなら…

「今度、ニブルヘイムに行ってみないか…?あの村が今どうなっているのか、俺はティファと確かめたい」
クラウドが真っ直ぐにティファを見つめる。2人の間にあるのはほんの一歩の距離だ。その距離を越えてクラウドが伸ばした手をティファは受け入れた。
一度閉じた箱を開けるのは怖い。でも──私も、試してみようかな。ティファはそう思った。
「ついでに、神羅屋敷の地下からあるだけワインを取ってこよう。ティファの25歳の誕生日、30歳の誕生日…大事な日に一緒に飲もう」
クラウドがそっとティファを引き寄せ、遠慮がちに抱きしめた。
「…木みたいな味なんじゃなかったっけ?」
クラウドの語る、自分との未来がなんだかこそばゆくて、ティファはつい茶々を入れてしまった。嬉しくて、恥ずかしくて、ティファがその厚い胸板に顔を埋めると、クラウドの心臓が早鐘のように打っているのが聞こえた。ティファもクラウドの背中にそっと腕を回す。
「それは言うな」
声だけで、クラウドがふわりと笑ったのがわかった。


13


ティファと心が重なっていく。
本当に久しぶりに、2人の間に温かく親密な空気が流れていた。わだかまりが全て消えたわけではないけれど、それを包み込んで余りある互いへの想いが満ちていく。
ほんのりと頬を染めて目を潤ませるティファを前にして、クラウドは急激に恥ずかしくなってきた。バレットは「気張って口説け」と言っていたが、どうすればいいのだろう。
タイミングは今なのか?
淡い明かりの中で浮かび上がる白磁の肌、陰影のせいで一層艶かしい曲線を描く肢体、どこまでも艶やかな黒髪、そしてたわめた意志を感じさせる紅い瞳。
何を褒めればティファに伝わる?
──いや、違う。それでは足りない。綺麗だと伝えるとか、物をあげるとか…そういうことじゃないんだ。

クラウドが1人悶々としていると、突然1階の店のドアが激しく打ち鳴らされる音が聞こえた。2人は何事かとびくりと肩を震わせ、恐る恐る顔を見合わせる。
体を離し、様子を見てくる、と言いかけたクラウドの言葉をかき消して、夜の通りに聞き覚えのあるダミ声が響き渡った。
「うぃ~っ!艦長さまのご帰宅だぞ~!あ、ご帰⚫︎か!」
がははは、という笑い声と共にドアがガタガタと揺すられる。
「シド!?…戻ってくるつもりだったなんて知らなかったわ、もう」とティファは苦笑を浮かべた。
せっかくの雰囲気が台無しだ、とクラウドは内心嘆いたが、怒りよりも脱力感が強かった。どさりと椅子に腰を下ろす。シドもいい大人なんだし、放っておけば自分でどうにかするだろう。大体、何が悲しくてこの美しい夜を酔っ払いオヤジの介抱で締め括らなくてはならないのか。
気が乗らない様子のクラウドをよそに、ティファはシドを出迎えに行くつもりであった。鍵を開けて早く中に入れてやらないと近所迷惑だ。ティファがため息を吐きながら、いつの間にか床に落ちていたカーディガンを取ろうと屈んだ拍子に、大きく開いた襟ぐりからくっきりとした胸の谷間がクラウドの目に飛び込んできた。
「いい、俺が行く」
慌てて立ち上がったクラウドがティファを止めた。薄い夜着、潤んだ瞳…今のティファを他の男の前に出すわけにはいかない。仲間といえど、だ。怪訝そうな顔をするティファを押しとどめ、クラウドは素早くドアへと向かう。
「ティファは部屋にいろ」
クラウドは戸口のところで振り返って念を押した。その剣幕がなんだか可笑しくてティファはくすくす笑って頷いた。お言葉に甘えてそのままベッドの上に腰を下ろす。

クラウドがドアを開けると、誰かいねえのか、というシドの声が一層はっきり聞こえてきた。ため息を吐き、廊下に足を踏み出した。
呼ばれた気がしてクラウドは振り返り、閉じゆくドアの向こうを見た。小さく温かな部屋の中でクラウドに向かって微笑むティファは、いつもより近くにいるように感じられた。素肌を触れ合わせながら腕の中に閉じ込めている時よりも。
「…おやすみ、ティファ」
「うん、おやすみ。…また明日ね」
名残惜しくはあるが、“また明日”というささやかな約束をティファからしてくれたことが嬉しかった。

部屋に残されたティファは、自分の内側のずっと奥の方で何かが動き出そうとしている気配を感じていた。それは喩えて言うならば──緑色の、芽吹き。


14


ミッドガルエリアの大陸の東端に位置する岬にナナキはいた。
後方にはミスリスマインを抱く山脈に囲まれた湿原が、前方には広大な海が広がっている。右手のほうに霞んでいるのはミディール地方の群島だ。空は夜明けの気配に、鮮やかな紫に染め上げられている。
深く息を吸い込むと、草の匂いと共に、あらゆる生命の微細な躍動が空気を震わせているのが感じられた。昨日一日かけてこの大陸をぐるりと巡って来たが、以前よりも生き物の姿が増えたようだった。世界中の魔胱炉が停止したことで、歪められていたライフストリームの流れが戻りつつあるのだろう。そのために払った犠牲は大きかったが、人間の、個々の生物種の思惑に関係なく星には星の理屈がある。
かつて、ブーゲンハーゲンは魔胱炉の活動の影響がなくなっても、結局のところ早晩星は滅びるだろうと言っていた。だが──

じっちゃん、この星は、じっちゃんやオイラが思ってたよりも強かったみたいだよ。そう心の中で呟くと、ナナキは再び胸いっぱいに空気を吸った。
ミッドガル周辺ですら、カーム側から続く草原にじわじわと浸食されつつあった。また、それとは別に、緑の塊が荒れた大地に転々とまだら模様を描いているのも来た時に飛空艇から目に入ったのを思い出す。枯れ果てたように見える大地の地中深くで、植物の種子たちは辛抱強く時を待っていたということかもしれない。

水平線が眩しく輝き出した。顔を出した太陽の光を受けて、崖下に打ち寄せる波飛沫が煌めいているのが見える。2年と少し前、神羅ビルからクラウドたちに助け出され、建設途中のハイウェイ伝いにミッドガルを抜け出した時に見た朝焼けがナナキの脳裏をよぎる。
ナナキは海に背を向けて全速力で駆け出した。星の長い寿命の中では100年などあっという間だ。遠い未来では、人間の営み全てが大地に還り緑に覆われているかもしれない。その永い時をヴィンセント以外の旅の仲間たちと超えられないのだと思うと耐え難い悲しみが胸を満たす。
いや、だからこそ一緒にいられる時間を大切にしなくてはならないのだ、とナナキは思った。ティファとクラウドも…

急ごう。時間までに、合流地点であるエッジの郊外に停泊している飛空艇まで戻らなくてはならない。


15


草原の中にそびえる飛空艇は、初夏の陽光を受けて燦然と煌めいていた。ハイウインド号よりもどことなく優美な、その飛空艇シエラ号はクルーの搭乗を今か今かと待ちわびている。ルートの選定に整備と燃料補給はすでに済んでおり、あとは飛び立つだけだ。

風が吹くたびに白い波頭が走る草の海を、デンゼルは夢中で駆けた。エッジから、ミッドガルから、本当の父さんと母さんがもういない世界から自分を連れ去る、その飛空艇に向かって。ワクワクする気持ちと胸を刺すような寂しさが同時に心の中に渦巻いている。草の葉が剥き出しのすねを打つが、走らずにはいられない──

デンゼルを後ろからゆっくりと追いかけるクラウドは、その背中にかつての自分の姿を垣間見たような気がした。少年の、居心地の良い場所を離れ、荒野で冷たい風に触れる決意の瞬間。
──行ってこい、デンゼル。世界は広いぞ。

飛空艇にほど近い地面に立ち、紫煙をくゆらせながらきびきびとクルーに指示を出すシドの姿を認め、クラウドは手を上げて合図した。それに気づいたシドも同様に挨拶を返す。昨夜遅くに店のドアを叩いていた酔っ払いと同一人物だとは思えないな、とクラウドは苦笑した。水を飲ませて1階のソファに転がしておいたが、朝起きた時にはその姿はすでになかった。整備や打ち合わせのために飛空艇に先に戻ったのだろうと、朝食を摂りながらティファやバレットと会話を交わしたのだった。

「行ってきまーす!」
短いタラップを上り、マリンとデンゼルは飛空艇に乗り込んだ。思ったよりもあっさりとした出立に、クラウドとティファは顔を見合わせて微笑を交わした。
その背中をドンとバレットが叩く。
「そんな心配そうな顔すんな!俺もナナキもついてる」
先ほど到着したナナキも、その言葉に尻尾を揺らした。足元に置いた子どもたちの荷物を持ち直し、「じゃあ行ってくる」と言ってバレットは飛空艇に向かった。

ティファ、とナナキが名前を呼ぶとティファは優しく首を傾げて背中を撫でてくれた。その顔を見上げると、一昨日久しぶりに会った時よりも柔らかい表情になっているように見える。その隣に立つクラウドも。

──なんだ、ティファもクラウドも大丈夫そうでよかった。
ナナキは思った。そうだ、この2人はライフストリームに飲み込まれても自分の意思を失わずに戻ってきたのだった。強靭な精神力の持ち主であることの何よりの証左だ──2人揃っている場合に限るのかもしれないが。
内心でくすりと笑い、ナナキはしばしの別れを告げた。
「2人とも元気でね。そのうちコスモキャニオンにも来てよ!」
「またな」
クラウドがナナキの頭をガシガシと撫でた。

「おー間に合った」という気の抜けた声にティファが振り向くと、いつの間にかユフィが立っていた。肩に担いだ、ごく少ない荷物の他に、手になにか包みを持っている。
「ユフィ!もう、朝店に来るかと思ってたのに」
またしばらく会えないかもしれないと思い、ティファは不平を漏らした。
「ごめんごめん、ちょっと時間かかっちゃってさ~」
大して悪びれる様子もなくユフィは一応謝り、手に持った四角い包みをティファに渡した。
「ほい、ティファにこれあげる」
「なあに、これ?」
愛想のない包み紙の内側に入っているのは堅い板状のもののようだ。あまり重くはない。
「まあ開けてみてよ」
昨日エッジを駆け回って手配し、今朝1番でようやく手に入れたブツなのだ。ティファは喜んでくれるだろうか?
にししと笑うユフィはどことなく得意げだ。簡素な包装を剥がしていくと、何やら文字が現れた。ティファが首を傾げて読み上げる。
「臨時休業…?」
「そ!働きすぎのティファにあたしからのプレゼントだよーん」
早くしろい、と遠くでシドが怒鳴っている。飛空艇のプロペラが回り出し、辺りに風が巻き起こる。
「やばいやばい」と呟き、舞い散る草の葉の中を飛空艇に向かって駆けながらユフィが振り返った。
「またすぐ来るからさ!そん時はその札かけて、一緒にどっか遊びに行こうね!」
あっという間に小さくなっていくユフィの後ろ姿を見つめながら、何故だかわからないがティファは涙が溢れて止まらなかった。

──全部終わったら、一緒にショッピングとか、しようね。

いつかのエアリスの言葉が蘇る。大好きだった、エアリスの。
そうだ。エアリスはみんなの心の中に、少しずつその姿を残している。クラウドの中にも、そして私の中にも。その眩しさに目がくらむこともあるけれど…忘れることなんてできない。もう自分たちの一部になっているのだから…

飛空艇が空の彼方目指して飛んでいく。大事なみんなを乗せて。
ティファの肩にクラウドがそっと手を置いた。『臨時休業』の札をティファの手から取り上げ、まじまじと眺めながらクラウドが言う。
「…あいつにしては気が利いてるな」
その負け惜しみに笑いながらティファは頷いた。クラウドがティファを後ろから抱きしめると、ティファは自然に体重を預けてくれた。しばらく2人で草原を渡る風とお互いの感触を楽しんでいたが、ややあってクラウドが切り出した。
「…なあ、ティファ。その…誰か貰ってくれる人を見つけるってアレ…撤回してくれないか」
クラウドがティファに回した腕にギュッと力を込める。ティファの肩に顔を埋めてクラウドは呟いた。スマートな口説き文句の代わりに出てきたのは情けない懇願だったが、それでもいい。俺が格好悪いことは自分がよく知っている。
「…絶対ダメだ。我慢できない」
多分、俺はその相手を殺してしまう。こんな凶暴な恋心、口には出せないが…伝われ、伝われ。
呼吸ができなくなるくらいのプレッシャーを感じて、ティファは胸が苦しくなった。恋人とも仲間とも少し違う、名前の付けられないこのクラウドとの関係性はいつから始まったんだろう。
星を救う旅の間?雨の中、7番街スラムで再会した時?…それとももっと前?
同じ村に生まれて、同じ季節を共に過ごした。幼馴染は確かに出発点だったかもしれない。だが、ティファがクラウドを思う時、クラウドがティファを思う時、そこにあるのは穏やかな遠い記憶だけではない。自分たちを分かち難く結びつけているのは、傷であり地獄なのだ。幼い頃に始まった、天で瞬く星に手を伸ばすような無邪気な恋は、もっと苛烈な感情に育ったような気がしている。
代わりはどこにもいない。過去にすら。

魂の半身──ようやく自分たちに相応しい言葉を探り当て、ティファは何かが腑に落ちるのを感じた。

私はクラウドのもの。
クラウドは私のもの。

ああ、なんてわがままなんだろう。
でも…もう絶対に手離すことはできない。

ティファは自分の中に眠っていた凶暴なまでの独占欲に思わずたじろいだ。
「…か、考えておく」
耳まで真っ赤になってティファは、先ほどのクラウドの懇願にようやく答えを返した。おずおずと抱きしめたかと思うと、時にとんでもなく傲慢になる。それがクラウドだ。そのペースに巻き込まれるのが嫌いだといえば嘘になる。
浮かれてしまっていいではと思う自分と、その自分を冷ややかに見つめるもう1人の自分をティファは感じていた。
「10年でも20年でも待つからな。俺はしつこいぞ」
ティファの消極的な返答がお気に召さなかったのか、ますますクラウドはティファを強く抱きしめた。骨が軋み、痛いくらいだ。その強い気持ちが嬉しい。でも──

クラウドの腕の中でティファが辛そうに俯いた。
「…クラウドが星痕になった時、私…なにも出来なかった…」
ようやくもれたティファの本音にクラウドは胸の痛みを覚えた。私はあなたに必要な存在じゃない──そんな風に思わせてしまっていたのだと今更気づく。自分にも覚えがあるその孤独感を思えば、ちっぽけなプライドを守っている場合ではない。
「自分が死んだらティファが誰かのものになるかもしれない…そいつのこと殺してやろうとずっと考えてたんだ…」
ああ、結局言ってしまった。クラウドは言葉を重ねれば重ねるほど、格好悪くなっていくことに気づかざるを得なかった。でも、言ってしまうと不思議と肩の荷が降りた気がした。物騒なセリフを口にしたというのに、クラウドは愉快そうに少しだけ笑った。
「多分、あれがなかったら危なかったと思う」
執着。生きる気力と言ってもいい。何度もセブンスヘブンの前まで行った。遠い知り合いを介してティファの近況を探りもした。自分から出ていったくせに、忘れられていないことを確かめずにはいられなかった。
もう一度、クラウドは腕に力を込める。その吐息が僅かに震える。
クラウド、とティファがその名を小さく呼ぶと、クラウドは何も言わずにただ首を振った。自分の首筋に、温かく濡れたものが触れるのをティファは感じた。
「…本当に私でいいの…?」
「ティファじゃなきゃだめなんだ…嫌だと言っても地獄の底まで追いかけてやる」
“君を幸せにするよ”などという言葉とは真逆の宣言に、ようやくティファは嬉しそうに頷いた。

クラウドがほんの少し力を緩めると、ティファはくるりと体を翻してクラウドの首に腕を回した。
互いの眼の中に挑発的な光を認め、噛みつくようなキスを交わした。

「…なあ、明日早速臨時休業にしないか?」
美しい瞳にめらめらと炎を揺らめかせてクラウドが言う。
切れた唇で再びキスを交わすと、血が混じり合う感じがした。まるで義兄弟の契りだ。
「どうして?」
ほんの少し体を離し、目を細めてティファが訊くと、ニッと笑ってクラウドはティファを強引に抱き寄せ、その耳に口を付けて囁いた。
「…この間のじゃ抱き足りないからに決まってるだろ」
お酒とチーズかなんかをベッドに持ち込んで、好きな時に体を重ねて、食べたい時に食べる…そんな風に思いっきり怠惰に過ごす──たまにはそういうのもいいかもしれない。
「満足、させてよね」
「…仰せのままに」
額をコツンとくっつけてクラウドとティファは無邪気に笑い合った。


16


「ただいま、ティファ!」
セブンスヘブンのドアを大きく開けて、マリンが店の中に飛び込んできた。
「ただいま」
「戻ったぜ」
そのすぐ後にバレットとデンゼルも続く。
「みんな、お帰りなさい!」
夜の営業に向けてキッチンで料理の仕込みをしていたティファは、手を拭きながらカウンターから出て子どもたちとバレットを出迎え、おやと思った。なんだか行く時よりも随分と荷物が増えている。それに、逆光になっているせいだろうか。デンゼルの顔つきが旅行前よりも精悍なものになっているように見える。
「喉が渇いた」というマリンの言葉に我に帰り、ティファはひとまず全員分の飲み物を用意することにした。

カウンターのスツールに腰掛けてレモネードを飲みながら、マリンはティファに旅の間に経験したことを話して聞かせた。
チョコボレースで大穴を当てたこと、コスモキャニオンで大きな篝火かがりびをみんなで囲んだこと、空から見る夕焼けが素晴らしかったこと、今度はティファも一緒にウータイに遊びに行くとユフィと約束したこと…

料理の下ごしらえをしながらニコニコと話を聞くティファに、マリンは小首を傾げて訊ねた。
「ねえティファ。ハンプティ・ダンプティ…だっけ。卵が割れたらどうするって話したの覚えてる?」
「…そんな話、してたわね」
突拍子もない話題転換に苦笑しながらティファは言った。随分前のことのように思えるが、あれは仲間が集まる宴会の準備をしていた時の会話だったのだから1週間くらい前か。確か、オムレツにしちゃうと自分は答えたのだった。
「あの卵って、雛が孵ったから割れたんじゃないのかなあ?」
きっと可愛い雛チョコボが出てきたのよ、と言いながらマリンはスツールからぴょんと飛び降り、バレットとお土産を広げているデンゼルの元へと走っていった。

ティファは意表を突かれて目をぱちくりさせた。
割れた卵は元には戻らないが、その中から現れるのは、潰れた黄身じゃなくてふわふわの雛かもしれない。
本当ね、マリン。その考え方ってとても素敵だわ。

それにしてもハンプティ・ダンプティからチョコボに着地するとは。ティファはチョコボ頭の誰かさんのことを思い出し、くすくすと笑った。
──その時、カウンターの上の携帯電話が鳴動した。ディスプレイには“C”の文字。
はい、と電話に出ると風混じりのクラウドの声が聞こえてきた。
「子どもたち、帰ってきたか」
「うん。2人とも元気だよ。バレット今日泊まるって」
「そうか。今日は早く帰れると思う。じゃあな」
一方的に自分の用件だけ伝えて、クラウドからの通話は切れた。真っ黒になったディスプレイを見つめ、ティファは内心ひとりごちる。
まあ、電話に出なかった頃のことを考えるとこれだけでもよしとしますか。今のところは。

カウンターまでやってきたバレットは、そのティファの顔を盗み見て思った。あいつ、うまいことやりやがったな、と。ティファは、自分に向けられているバレットの温かい眼差しには全く気付いていなかったが。
ふとバレットは、キッチンの奥の方にあのワインのラベルが飾られていることに気がついた。透明なアクリル板かなにかで挟んで壁にかけられている。
バレットにもアイスコーヒーを出したティファはその目線を追って、緑色に行き着いた。ふふ、と笑ってティファは言った。
「びっくりするようなことがあったの。クラウドが帰ってきてからみんなに教えてあげる」

──ああ、ようやく腹を決めたんだな。
ティファの顔を見てバレットは思った。どんな覚悟か知らねえけど、やっぱおめえは大したヤツだよ。一度腹を括ると何がなんでもやり通す、それがティファだ。
がははと大口を開けて笑うバレットにティファは怪訝そうな視線を向けた。「なんでもねえよ」とご機嫌に嘯くバレットに首を傾げながら、ティファは再び仕込み作業に戻っていった。


エッジを望む丘の上で携帯電話を懐にしまったクラウドは、しばらくその場に佇んで黒い衣が風になびくに任せていた。夏の予感を孕んで吹く風に、足元の草がざあっと音を立てる中で、先ほどの短い通話を思い出す。今日の予定は朝ベッドの中で伝えてあった通りなので改めてティファに連絡する必要はなかったのだが、ただ声を聞きたい気分だった。

ティファ──俺の魂の片割れ。ティファが望むのならば、俺はどんなことでも実現できるだろう。ここまで来るのに随分と長い回り道をした気がするが、もう迷いはなかった。

ティファは俺のもの。
俺はティファのもの。


唯一無二の関係に名前はいらない。
俺たちには、互いを呼ぶ声だけがあればいい。

何度でもその名を呼ぼう。あらゆる想いをそこに込めて──


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