【FF7二次創作】 彼方から吹く風
風の強い土地だと改めて思った。
伸びっぱなしの茶色い髪が風に舞う。デンゼルは鬱陶しそうに顔をしかめ、視界を遮る髪の毛を帽子の中に押し込んだ。
周りには見渡す限りの雪の原と葉を落とした冬の木々、そして厳しく聳える山肌。
ここがニブルヘイム──クラウドとティファの、故郷。
雪に半分埋もれた案内標識が、ここが道であることを教えていた。とはいっても、どこもかしこも分厚い雪の層に覆われており、自分が立っているが道なのかそうでないのかは判別できない。
道は、密度の高い木立の外周を囲むようにずっと先まで続いていた。
樹々は美しい灰白色の樹皮を纏っていた。樹皮の上をふわふわとした苔が覆い、くすんだ緑色のまだら模様をなしている。冬の弱い日差しを浴びてキラキラと輝く苔を間近で見つめてみると、その上を微細な氷の結晶が覆っていた。
デンゼルは口を窄めてゆっくりと息を吐き出した。吐いた息は丸く白く、まるで小さな雲のようだった。雲は少しの間その場に留まったが、やがて散り散りになって消えていった。
それを眺めるともなく眺めながらデンゼルは足を踏み替えた。ごついブーツの底で踏みしめられた雪がぎしりと音を立てる。冷たさに感覚の鈍くなった足先に力を込めると、軽くしびれているような感じがした。体の末端まで血を行き渡らせるように、デンゼルは窮屈なブーツの中で足の指を曲げたり伸ばしたりしてみるが、あまり効果は感じられなかった。ともあれ半分退屈しのぎに、寒冷地仕様のごつい手袋の中で今度は手の指を動かしてみる。
戯れに何度も息を吐き出したせいで、口元をすっぽり覆うマフラーとまつげに水分が付着していた。それらはあっという間に凍ってしまい、小さな氷の結晶となってデンゼルの視界を彩った。
──と、そのキラキラした景色の向こうに、待っていた人影がようやく姿を現した。
デンゼルと同じように冬山仕様の装備に身を固めた、養父のクラウドだ。気取りのない足取りでゆったりとこちらにやってくる。
ほっとすると同時に、デンゼルは素直にその名前を呼べない自分を発見した。まるで喉に蓋がされているみたいだ。
トレードマークのチョコボの尾羽みたいな逆立った髪の毛がニットの帽子の下に隠されているせいで、デンゼルの知るクラウドではないみたいだからだろうか。
それに、雪山の中で見るクラウドは、街中にいるよりも大きく、堂々として見えた。
言うなれば星を守るという偉業を成し遂げた人物に相応しい輝きのようなものがある──そうデンゼルの目には映っていた。
「お前の親?随分有名なんだってな。WROにコネがあるんだろ」
突然スクールでデンゼルに話しかけてきたのは知らない上級生だった。教師に勧められて出品した工学実験コンテストの作品が一次選考を通過するとの知らせを受けて、デンゼルが浮かれて廊下を歩いている時のことだった。
わざと疑問符を強調したような喋り方も、5cmほど上から見下ろしてくる蔑みの色を浮かべた彼の目も、どちらも癪に触った。
デンゼルはほんの少し眉間に皺を寄せた。
クラウドもティファも自分たちの功績をことさらに触れ回ったりはしない。妹のマリンもだ。
デンゼルはそれがなんだか悔しくて、一度だけ口を滑らせたことがあった。WROの局長直々に頼まれたクラウドがいかに易々とモンスターを蹴散らしたかを。実際にその場面を目にしたわけではなかったため人から聞いた話を思い出しながらのことだったが、デンゼルの大雑把な伝聞語りに同級生たちは大いに沸いた。
その話がおそらく、いや確実に派手な尾鰭をくっつけて目の前の上級生の耳にも届いた──そういうことなのだろう。
しばしデンゼルを睨んだのち、小馬鹿にしたように鼻で笑うと「いい気になるなよ」と言い捨てて上級生は去っていった。その表情と捨て台詞の意図が掴みきれず、デンゼルはしばらくの間モヤモヤとした気持ちを抱えていた。だが、その彼がコンテストにデンゼルのものとほとんど同じコンセプトの作品を提出し、そして予備選考であっけなく落選していたと後から知った時、全ての不愉快の点がデンゼルの中で繋がった気がした。コンテストの主催はWROだった。
結局、何かと忙しく日々を過ごす親代わりのクラウドとティファにはコンテストのことを言い出す機会がなく、そうこうしているうちに惜しくも三次選考に進めなかったことを告げる書類が教師の手から渡された。その書類は今でも自室の机の引き出し奥に突っ込んだままだ。大事だったはずの作品は埃を被って棚の隅に追いやられている。
その金属の塊が視界の隅に入るたびに苦い思いがデンゼルの胸をよぎった。そうした些細な変化をティファに気遣われるのにも嫌気がさした。
そんなある日、出張から帰ったばかりのクラウドに突然「荷物持ちに着いてこい」と言われ、デンゼルはニブルヘイムに来ることになったのだった。
「いやだ」という形ばかりの抗議はしたものの、本気で嫌なわけではなかった。最近ゆっくり顔を合わせる時間のなかったクラウドからの誘いは単純に嬉しかったし、遠い土地に行きたいという漠然とした願いが思わぬ形で実現したのもデンゼルの背中を押した。
かくして、血のつながらない親子2人は着替えや携行食料、それに正体のよくわからない包みを鞄に詰め込んで、船上の人となったのだ。
酔い止めの薬を飲んで船室で横になっているクラウドを置いて、デンゼルはしょっぱい波飛沫のかかる甲板の手すりにもたれて水平線の向こうを見つめていた。時折、灰色の波間を縫って、イルカが海上へ飛び出した。しばらく船を並走するイルカの姿が見えていたが、岩礁地帯が近づくといなくなってしまった。
その後、巧みな操作で岩礁地帯を抜けた船は、コレルと北の大陸の境目に舳先を向けた。近づいていくと、ほとんど垂直に切り立った崖の小さなとっかかりにたくさんの海鳥の巣があることにデンゼルは気がついた。崖の表面は海鳥の糞で真っ白だ。デンゼルが上空を飛び交う海鳥を眺めるうちに、船は大陸の裂け目のような水路に滑り込んだ。両側を高い岩壁に囲まれているため隘路はやや薄暗く、淀んだ潮の香りが辺りを満たしていた。
ちゃぷちゃぷと船腹を叩く水の音を反響させながら進むうちに、やがて船の行手にぽっかりと口を開けた洞窟が見えてきた。ライトを点灯させ、船は慎重に洞窟を進んでいく。天然のものとは思えないほど滑らかな岩肌を船のライトが照らし出した。明かりから逃げるように岩壁を這う巨大な節足動物たちの姿に、デンゼルは顔を引き攣らせた。
船が洞窟を抜けた時、思わずデンゼルは目を閉じた。洞窟の暗さに慣れた目には、何もかもが眩しすぎた。
着いたのだ。クラウドとティティファの故郷、ニブルヘイムに。
風の強い土地だとデンゼルは思った。
揺れる船の上から簡素な木の板で組まれた船着場に足を下ろした時、まだ全身が揺れているような感じがした。それが体に残る波の感覚のせいではなく、終始吹き付ける風のせいだとわかったのはバタバタと勢いよく翻る旗を目にした時だった。旗を掲げるポールの横には小さな小屋があり、小窓の向こうで1人の老人が居眠りをしていた。そこでクラウドが到着に伴う手続きを済ませる間、デンゼルは辺りを見回していた。
ごろごろとした礫の転がる乾いた海辺はごく狭い平野部に続いており、それらに覆い被さるように標高の高い山々が迫っていた。一際大きい山の麓にへばりつくようにして家屋が固まっている箇所があり、そこを指さして「あれがニブルヘイムだ」と小屋から出て来たクラウドがデンゼルに言った。懐かしさも何も滲まない、平板な声音だったのがデンゼルの印象に残っている。
故郷に用があるというから親戚に挨拶でもするのだろうかとデンゼルは思っていたが、村では必要最低限の買い物をしただけでクラウドは煤けた建物群の立ち並ぶ集落をほぼ素通りし、山へと続く道へ足を踏み入れた。
デンゼルは歩きながらクラウドの横顔を斜め後ろから盗み見た。この厳しい人の名を、いったい今までどんなふうに呼んでいたのだったかと思いながら。
クラウドは、「道を確認してくる」と言い残して一人山を登って行った。
戻ってきたクラウドは、ざくざくと歩を進めながらデンゼルに向かって片手を上げた。
デンゼルは手を振り返すこともなく、番を命じられた大小二つの荷物に囲まれたままクラウドを眺めていた。
厚手の冬用ジャケットで着膨れたデンゼルは、その上にもさらに一枚膜を纏っているかのようだった。寒さのせいかそれ以外の理由か。文句を堪えているようなその目つきは、クラウドも身に覚えのあるものだった。
無理に連れてきたのは失敗だっただろうかという迷いがクラウドの頭の中をよぎった。だが、ここで引き返すのも違うような気がした。
わずかに生じた逡巡を悟られまいと、クラウドは努めて何気ない声で言う。
「待たせたな」
じっと見上げてくるデンゼルに、クラウドはほんの一瞬視線を注ぐ。
デンゼルが何かに悩んでいるようだと、頬杖をついて言ったティファの横顔がクラウドの胸のうちに蘇った。
マリンとティファはうまくやっているようにクラウドには見えていた。マリンはクラウドには話さないこともティファには打ち明ける。同性同士そんなものかと呑気に構えていたが、それでは自分とデンゼルはどうだ?
父親と息子について考える時、胸の奥の方で鈍い戸惑いが首をもたげる。
ティファには自分がデンゼルと話してみると言ったものの、どこまで踏み込むべきか、はたまた放っておくべきか。クラウドは確かな答えを出せないでいた。
「…平気か?」
漠然とクラウドが訊くと、デンゼルは無言で頷いた。
「いつもの道が使えない。少し遠回りになる」とクラウドは告げた。
”いつもの道”は、秋の長雨と大風を耐えられなかったらしく多くの木が腐って倒れてしまっていた。歩きにくい上に木のない剥き出しの雪面は雪崩の危険性もある。
「…ん」
デンゼルがおとなしくリュックサックの肩紐に腕を通すのを見てクラウドは小さく頷くと、木の根本に立てかけていた大きい方の荷物を肩に担ぎ、胸の前でベルトをしっかりととめた。
「行くぞ」
短く言ってクラウドは先に立って歩き出した。
クラウドは、凍った川にかかる木の橋へと続く道を外れて林の中に足を踏み入れた。
雪の上に自分がつけた足跡を見つけ、視線を彷徨わせるとすぐに求めていたものが見つかった。木の枝から垂れ下がる赤い紐だ。先ほど道の下見をした際にあらかじめ結んでおいたものだ。
先の方に転々と続く赤い目印を視線で辿り、クラウドは懐から取り出した年季の入った地図と付き合わせて改めてルートを確認する。このルートを使うのは久しぶりだった。長く歩く必要がある代わりに、勾配は緩い。それに林の木々が冷たい風を少しは遮ってくれるだろう。
クラウドはデンゼルを連れて、ゆっくりと山を登る。
クラウドが立ち止まって地図を確認する間、デンゼルは息を整えることができた。
小休止の際には振り返るたびに見える景色が変わり、船で来た時には目に入らなかったいくつもの尖った岩の頂が、海から突き出しているのが目に入った。さらに登ると、それらがニブルヘイムのある大陸の周りに点在するいくつもの離れ小島であることをデンゼルは発見した。
だが、クラウドのいう”少しの遠回り”が果たして言葉通りのものだったのか。
行けども行けども変わり映えのしない景色の中で、次第にデンゼルはクラウドについて来たのを後悔し始めていた。背中の荷は重く、肩にベルトがきりきりと食い込んだ。
道を確認してくると言ってクラウドが単独で山を登ってから帰ってくるまで、それほど時間は経っていなかったはずだ。先の方の木々に結ばれた赤い紐は延々と続くようにすら見える。デンゼルはそれを目で追って足が重くなるのを感じた。
この道行をクラウドは難なく行って戻って来れるのだ。今だって本当は風のように登っていくに違いない。自分が一緒にいなければ。
クラウドの背中がどんどん小さくなる。
クラウドはなんのために自分を連れてきたのだろうとデンゼルは思った。荷物だってデンゼルが背負ってる分など高が知れている。
その時、雪の下に隠れていた捻じくれた木の根にデンゼルは足を取られ、大きくバランス崩した。なんとか手をついて転倒は免れたが、ざらめのような雪だまりに膝頭がずぼりと埋まった。やけになって辺りを乱暴に踏み歩いていると、ブーツの中に雪が入っていることに気がついた。いつの間にか紐が緩んでいたらしい。
沈んだ気持ちに追い打ちをかけるようにジクジクとした感触が靴の中に広がっていく。体が冷えるから靴下を濡らすなと言われていたのに──
荷物の中にある替えの靴下が頭をよぎる。言えばクラウドは足を止めてそれを出してくれるだろう。「気がつかなくてすまなかった」という詫びの言葉とともに。
今、その言葉を聞くことだけは我慢がならなかった。
デンゼルは手早く膝についた雪をほろうと、周囲に気を配りながら登り道を行くクラウドに遅れまいと、がむしゃらに足を動かした。
松脂の匂いの漂う冷涼な空気の中にかすかな湿り気を感じ、クラウドはその足を止めた。天をふり仰ぐと、どんよりとした雲が空を覆いつつあった。すぐにではないが雪が降り出しそうな気配だ。早く屋根のある場所に行かなくては。
「天気が荒れるかもしれない。急ぐぞ」
デンゼルからの返事はない。クラウドは防寒着の隙間からチラリと後ろに目をやった。膝に雪の跡をつけたデンゼルは雪に足を取られながらなんとかついてきている。
「そこ、倒木に気をつけろよ」
「わかってるってば」
苛立ちを含む掠れたようなその声にクラウドは思わず目を瞬いた。
そのクラウドの顔を見てデンゼルは眼を伏せると、ごめん、と口の中で呟いた。
13歳──難しい年頃だ。
むっつりと押し黙るデンゼルと共に故郷の山を歩きながら、クラウドは昔のことを思い返していた。
デンゼルと同じ歳の頃、クラウドも母親に対してたくさんの小さな秘密を抱えていた。子どもには子どもの世界があることをクラウドは知っていた。
チピピという高い囀りにクラウドが上を見上げると、ポツンと立つ松の木のてっぺんに赤い鳥がいた。黒い羽に赤い体。イスカだ。
イスカは枝に残った松ぼっくりを尖った黒い嘴で突き回していたかと思うと、一羽きりでどこかへ飛び去った。
──そうだ、あの頃俺も遠くに行きたいと思い続けていたものだった。
クラウドが思ったその時、曇り空に一筋の煙が立ち上るのが見えた。
同時に気づいたデンゼルがぽかんと空を見上げている。その背中をポンポンとクラウドは叩いた。
「後少しだ」
重い荷物を担いでの雪中行軍も終わりが見えてきた。
どさどさと床に荷物を置くと、デンゼルは思わず安堵のため息を漏らした。
「重かっただろう。すまなかったな」
低い声でヴィンセントは労いの言葉をかけ、こわばった指を思うように動かせないでいるデンゼルの手に温かいカップを手渡し、暖炉の近くのロッキングチェアーに座るよう促した。
ありがとう、と小さく呟いて、デンゼルはそろそろと腰を下ろした。暖炉の火で温まったクッションの感触が心地いい。
「元気そうだな」
「まあなんとかな」
ヴィンセントとごくあっさりした挨拶をかわすと、クラウドは手袋と毛糸の帽子をむしり取り、暖炉の上にそれらを放った。汗でペタリと寝ている髪の毛をがしがしとかき、床にどかりと腰を下ろすと、リュックサックの上部を留めていたベルトを外し、クラウドはその中に手を突っ込んだ。中は物でいっぱいだ。
「ええと、小麦粉。9mmのホローポイント弾と…こっちは22LR。あと──」
食材の入った袋とともにごとんごとんと音を立てて様々な種類の弾薬が積まれていく。それを斜め後ろから盗み見るデンゼルは、どうりで重かったわけだと密かに納得した。
「ガンオイルはこれで良かったか?」
「大丈夫だ」
「いつものやつは売り切れだった」
そこから2人の間で、寒冷地使用に適した機械油の話やら銃弾の値上がりについての愚痴に花が咲き、そのいかにもな”男の会話”をデンゼルは少し離れたところから聞いていた。
デンゼルが思わず身を乗り出した時、床についた靴の中でぐじゅりという感触があった。もうさほど冷たくはないが不快なことに変わりはない。こいつのことをすっかり忘れていたとは。
デンゼルは靴を脱ぎ、肌から引き剥がすように靴下を脱ぐと、それを手に持ったままどうしたものかと動きを止めた。そっとクラウドの方を窺ったが、大人2人は話に夢中で気が付かない様子だった。ほんの少し寂しいような、でもホッとしたような気持ちを抱え、デンゼルは裸足のままペタペタ歩いていくと、暖炉の火の熱がギリギリあたるあたりに靴と靴下を並べて置いた。
椅子に戻ったデンゼルは、蜂蜜入りの紅茶を啜りながら改めて部屋の中を見回した。
こじんまりとした山小屋の中は暖かく、意外にも物で溢れていた。
今いる部屋の中央には暖炉脇の肘掛け椅子の他に小さなテーブルと椅子が2脚あり、テーブルの上には手書きのメモが山積みになっている。隅の壁際には煮炊きできるスペースがあり、フックに吊るされたフライパンや手鍋が紐で束ねられた香草やニンニクと共に並んでいた。そして部屋の一角を占める本棚には様々なジャンルの本が並べられており、その間に煙を閉じ込めたような結晶や”ど根性”などというよくわからない文言が筆書きされた木彫りのダチャオ像、精巧な飛空艇の模型などが鎮座していた。
──と、急にクラウドがデンゼルの方を振り向いた。
「デンゼル、そっちに瓶が入ってるから出してくれ。底の方だ」
デンゼルは慌ててカップを置いて立ち上がった。
クラウドに言われた通り、鞄の底にはぴっちりと封をされた小ぶりな瓶が入っていた。中には赤い粉末が入っている。見ているだけでくしゃみが出そうだ。
「何…これ?」
これも武器の類だろうか。デンゼルが疑わしそうに訊ねると、横からひょいと瓶をかっさらったヴィンセントが口を挟む。
「香辛料だ。特別なブレンドの、な」
へえ、とデンゼルは首を傾げた。銃器類を自在に操るヴィンセントと香辛料がどうにも結びつかない。
コンロの下の物入れにその瓶を仕舞うヴィンセントの背中を、デンゼルは不思議な気持ちで眺めていた。
持ってきたものとヴィンセントが元々持っていたガンオイルの缶を並べて成分表を見比べていたクラウドは、あ、と声を上げると、自分の荷物から防水布の小さな包みを取り出した。丁寧な梱包の中から出てきたのは一冊の本。
「もう一つティファからだ」
「4巻だな。待っていたぞ」
本を受け取ったヴィンセントの声は心なしか弾んでいる。壁際の本棚から背表紙に”3”と書かれた同じ色の表紙の本を抜き出すと、パラパラとめくってからクラウドに手渡した。
「こっちはティファに返しておいてくれ。いいところで終わったから続きが気になっていた」
「らしいな。発売日に本屋に並んだって言ってたから」
その時のティファの様子──列がずいぶん長くて売り切れるのではとやきもきしたらしい──を思い出し、クラウドはくくっと笑いを漏らした。
「それだけの価値があるということだ」と、ヴィンセントは重々しく頷いた。「いいか、この話はな──」
ヴィンセントが熱弁を振おうとしたまさにその時、「ぐううぅう…」という音が鳴り響いた。
ヴィンセントとクラウドは思わず顔を見合わせ、揃ってデンゼルに視線を向ける。真っ赤になったデンゼルは俯いて「お腹が空きました…」と蚊の鳴くような声で言った。
「俺もだ」とクラウドがひらひらと手を振る。
「少し早いが食事にしよう」
そう言ってヴィンセントは本を置いて、鍋に手を伸ばした。
「最近この辺りはどうなんだ」と、パンの盛られた皿に手を伸ばしながらクラウドが言った。
焼けた肉の塊を切り分ける手を一瞬止め、「今年は…鹿が随分多いな」とヴィンセントは答えると、肉が山盛りになった深皿をテーブルの中央に置き、意味ありげにデンゼルの方を見た。
まさかと思い、デンゼルが驚いて目を丸くする。
「これ、鹿の肉なの?」
「そうだ」クラウドは言って、銃を撃つ真似をしてみせた。「ヴィンセントが自分で仕留めた鹿だ」
「裏手に小さな小屋があったろう」というヴィンセントの言葉に、言われてみればとデンゼルは先ほど到着した時のことを思い出した。今いる山小屋に隣接して物置のような小屋があった。
「そこで処理もしている」
デンゼルはへえと呟くと、野菜のまるでないテーブルを見回した。全体的に茶色い食卓の上で、一等存在感のある肉の山からは得も言われぬ匂いが漂ってきた。デンゼルのお腹がぐうと鳴り、クラウドのお腹もぐうと鳴った。
トングでいくつか肉の塊を掴み、デンゼルと自分の皿に取り分けながら、クラウドは「これがまたうまいんだ」と言ってニヤリとした。
「お、おいしい…」
分厚い肉の塊を飲み下し、デンゼルが呟いた。焼き加減はバッチリだし、独特の風味がクセになる味だ。ピリリとした辛味があるが後に残らず口の中が爽やかになる。そしてもっと食べたくなる。そんな味なのだ。
ヴィンセントは満足げに頷くと、もう一つ肉の塊をデンゼルの皿によそった。
クラウドも、「うん、うまいな」とデンゼルに同意した。こちらは発酵させていないシンプルなパンをスープに浸してかぶりついたところだった。
「ヴィンセント、また腕を上げたんじゃないか?」
「…かもな」
満更でもなさそうなヴィンセントは小さく笑みを浮かべた。
「師匠のおかげ、だろ?」
フォークを左右に振ってクラウドが意地悪そうに言うと、ヴィンセントはやれやれと言ったふうに首を振った。
クラウドは笑い声を立てると、瓶のままのビールを豪快にあおった。
デンゼルは新鮮な心持ちでクラウドを見ていた。先ほどまでのささくれだった気分が消えてなくなったわけではなかったが、いつもよりほんの少し行儀が悪いクラウドの姿が見られるのがなんだか嬉しかった。
空腹が満たされ、大方の皿が空になって来た頃に、そういえば、とクラウドが口を開いた。
「今ナナキはゴンガガだったか?」
「そうだ。あそこは俺よりナナキが適任だ。鼻が利くからな」とヴィンセント。
「同感だ。ジャングルで視界が悪い上に道も悪いからバイクで通りたくない」
クラウドは先日やむなく夕暮れにそのあたりを通った際に飛び出た木の枝でしたたかに肩を打ったと、苦笑を浮かべて告白した。
出張から戻ったクラウドが難しい顔で肩をさすっていたことがあったのを思い出し、デンゼルはそういうことだったのかと1人納得した。思わずくすりと笑いを漏らすと、クラウドにばんと背中を叩かれた。
「マリンには内緒にしておいてくれ」
怪我をしたことよりもそれを黙っていたと判明すれば、几帳面なマリンに小言を頂戴するのは確実だ。クラウドにこくりと頷き、デンゼルはニッと笑った。
かく、と首が落ちかけ、デンゼルはハッと目を開けた。置き場所をずらした裸足の足の裏がヒヤリとした床板を踏んで、さらに目が覚めた。
デンゼルがうとうとしている短い間に、ヴィンセントとクラウドは再び鹿の話を始めたようだった。群れの規模や生息域といった単語が2人の間で飛び交っている。それに混じってよくわからない数値が何度も登場し、その度に一体なんの話だろうと考えるのだが、どうにも瞼が重い。部屋の隅にある簡素な寝台がおいでおいでと手招きしているように感じた。
とんとんと肩を優しく叩かれ、デンゼルがぼんやりと目を上げると、間近に自分を見つめるクラウドの顔があった。促されるまま着替えを済ませ、寝台に上がった時、クラウドとヴィンセントはどこで寝るのだろうという考えが一瞬デンゼルの頭を掠めたが、暖炉の火ですっかりぬくまった毛布にくるまると同時に、すとんと緞帳が落ちるように夢のない眠りがやってきた。
意識を手放すその直前に、デンゼルは思った。クラウドはなぜ泣くのを堪えているみたいな顔をしていたのだろうと。
「疲れてたんだな」と呟いて小屋の主のベッドの中で穏やかな寝息を立てるデンゼルから視線を移し、クラウドは皿の上のレーズンに手を伸ばした。グラスを引き寄せ、ウイスキーのボトルを傾ける。
白熱球の投げかける柔らかい光の下で、ヴィンセントは親指と人差し指でつまんだライフル弾を回転させ、表面に傷がついていないか調べていた。
検分を終えた最後の銃弾を箱にしまうと、ヴィンセントはランプの光量を絞り、ふ、と笑みを浮かべた。
「すっかり親の顔だな」
部屋が暗くなった分、暖炉の火の存在が強く感じられた。
少しずつ勢いを増してきた風が雪を舞いあげ、小屋の窓にピシピシと音を立ててぶつかっていた。その間にニブル山の山肌に無数に空いた孔を風が通過する時のボーッという独特の音が混じっている。
クラウドが村にいた間、冬の夜によく聞いた音だ。それは15年以上経っても──クラウドが”親”というものになっても変わらないらしい。
「あの音…ヴィンセントは怖くないか?」
クラウドは親指を立てて窓の外を指差した。
小さい頃は恐ろしい怪物の吠える声だと信じていた。こっぴどく母に怒られた日は怪物が自分を食べに山から降りてくるのではないかと眠れなくなったものだ。
「怪物の声だと思ってたんだ」
実を言うと今でも少しだけ怖い、と付け足してクラウドは小さく笑った。
それは子どもの空想ではあったが、怪物は確かに山からやってきた。
最初の魔晄炉が造られた土地、ニブルヘイム。山は──気づけばモンスターの巣窟と化していた。
そして──
一際大きく暖炉の火が爆ぜ、ごとんと音を立てて薪が崩れた。火の粉がパッと舞い上がる。
クラウドは肩をぴくりと動かした。
「怪物か…」
火ばさみで薪をつつきながらヴィンセントが呟く。
ほんの一言の中に、底の見えない深淵を思わせる声音だった。
「モンスターはどこからやってくるんだろうな」
クラウドがぽつりとこぼした。
ヴィンセントは振り返ったが、クラウドの視線はテーブルの上にあった。クラウドは、暖炉の火が揺れるのに合わせてパン屑が作る小さな影が踊っているのを見るとはなしに眺めていた。
各地の魔晄炉はその運転を停止している。それなのに世界はモンスターで溢れていた。
実はニブル山のごく狭いエリアではモンスターがほとんど出ないのだが、それは不老不死の身であるヴィンセントが徹底的な駆除を試みているからだ。ここは唯一の例外と言って良かった。
クラウドの脳裏に、つい先日エッジのすぐ近くで目にしたファングの死体が浮かんでいた。死体は腹から食い荒らされていた。
クラウドは知りたかった。星が元の姿を取り戻すことができるのかを。
ぎいと椅子を軋ませてクラウドの斜め向かいの席に戻ると、ヴィンセントはためらいがちに口を開いた。
「…動物でも人間でも、生き物を高濃度の魔晄に浸して変質させたもの、それがモンスターだ。宝条が生み出し、各地にばら撒いた。だが──」
ヴィンセントは言葉を切り、人差し指でテーブルをコツコツと叩いた。
その不規則なリズムに気を引かれ、クラウドは顔を上げた。
ヴィンセントは半ば目を閉じている。おそらく、この場にふさわしい言葉を探して。
クラウドは白い皿に手を伸ばし、萎びた果梗からレーズンを数粒もぎ取った。
「この辺りの一部の植物には高い濃度で魔晄が蓄積している」
クラウドが自家製のレーズンを口に入れたタイミングで、ヴィンセントはそう言った。クラウドは一瞬嫌そうな顔で動きを止め、それから咀嚼を再開した。
「…少しずつだがその濃度が低下してきている」
「低下?増えてるんじゃなくてか」
甘味と酸味が凝縮された味を舌の上で感じながら、クラウドは話の流れについていこうとする。一見話題が飛んでいるようだが、きちんと繋がりがあるのだ。こういう時はヴィンセントの好きに話をさせたほうがいいと、長い付き合いの中でクラウドは学んでいた。
神羅の造った魔晄炉が地中から吸い上げたせいであたり一帯のライフストリームが枯渇した、そして野山から豊かさが失われた──であれば、魔晄炉の稼働停止によって減少していたライフストリーム量が回復する…誰もがそう予想していた。WROの科学者たちもだ。
ヴィンセントは違うと言いたいのだろうか?
「正確には」ヴィンセントはクラウドが持参した白黴チーズを口の中に放り込むと、ぬるいビールで唇を湿らせた。「ニブル山の中で集めたサンプルに含まれていた魔晄量の上限値が下がって来ている…あった、これだ」
ガサガサと紙の束をひっくり返し、ヴィンセントはクラウドの前に一枚の紙を滑らせた。びっしりと数字が書かれた表だった。いくつかの列に鉛筆で印がつけられている。右下には濃紺のインクで押されたWROのロゴがあった。
表のタイトルは『ニブル山における蓄積魔晄量の時間的変化』。
クラウドは3粒ほどのレーズンを手のひらの上で転がしながら、印のついた列の数字の羅列を目で追った。
「D11エリア……[ν]-εγλ 0009年423、0010年434…0014年388、0015年 375……F3エリア…F4…」
確かにヴィンセントの言う通り、いくつかのエリアで魔晄の蓄積度合いを示す数値が小さくなっていく様子が読み取れた。
「それが魔晄炉を止めたせいだと?」
「おそらく。そして減り方にはあるパターンが見える」
そう言ってヴィンセントはクラウドに地図を示した。ヴィンセントの筋張った長い指が魔晄炉から一直線に伸びる赤い線を指した。
「魔晄の輸送用パイプだ。突出して数値の高いサンプルはこのパイプに沿って生えていた植物だった」
葡萄じゃない、とヴィンセントは付け加えた。クラウドはその澄まし顔を軽く睨みつけ、もう一度表に目を落とした。調査を開始した年に高い数値を叩き出していたのは確かにパイプ周辺のエリアに集中していた。魔晄炉のある場所ではなく。
まさか、と思いクラウドはハッと顔を上げる。
「…漏れていた、ということか?パイプから土の中に」
「俺はそう見ている」ヴィンセントは頷いた。「ここは特別古い炉だからな。設備も傷んでいたのだろう」
クラウドは腕を組んで天井を仰いだ。かつてニブルヘイムの魔晄炉の調査に訪れた際、パイプから勢いよく魔晄の蒸気が噴出する様を確かにこの目で見ているのを思い出したのだ。
「輸送パイプの規格も変わってるしな…」
魔晄の利用の歴史は浅い。特に、ごく初期に造られたニブルヘイムの魔晄炉では、魔晄による劣化を防ぐための処理を施した特殊パイプなど使っていなかっただろうし、仮にその必要性が判明したところで山ごと放置するのが神羅のやり方だった。
クラウドは子どもの頃のことを思い返していた。
むせ返るような緑でいっぱいの夏の森を歩いた時のことを。日の光に煌めく魚たちの白い腹を。夕暮れの草原で見事な雄鹿と出くわした時の胸の高鳴りを。
そして、食べ物の乏しい冬のニブル山で枝にすずなりになって木の実を啄んでいたさまざまな種類の鳥たちの喧しい声を。
どれも今は失われてしまった。
代わりに凶暴なモンスターたちが現れた。
クラウドの頭の中に、空に向かって飛び去った一羽の鳥の姿が浮かんだ。
「ニブルヘイムはもともと魔晄…いや、ライフストリームが豊富な土地だ」
ヴィンセントの言葉にクラウドは頷いた。
かつて旅の間に、魔晄炉が爆発してその運転が停止したゴンガガで見た光景──炉の管理施設全体があたかも緑の巨人の手の中に沈んでいるかのような姿が脳裏に蘇る。蔦が生い茂り、濃密な草の海に包まれた廃墟の姿に、星の生命力のようなものをクラウドは感じた。
「下から上がって来たライフストリームは一旦地下水脈に溶け、ここら一帯の生態系を豊かにしていたのだと思う。それを魔晄炉は吸い上げて、濃縮する。一帯からライフストリームを奪うと同時に、パイプから漏れた超高濃度の魔晄によって一部の土地を汚染もしていた」
低い声で言い切ると、ヴィンセントは手帳を開いてクラウドに手渡した。
「ゴンガガのデータだ。ナナキが調べてくれた」
ゴンガガでもニブルヘイムと同じことが起きていた。濃縮した魔晄を貯めておくタンクや輸送パイプの周囲に極めて高濃度の汚染があり、時間と共に徐々に減少していた。
クラウドは喉の渇きを感じてグラスを勢いよくあおったが、ほんの数滴の苦い液体が舌に落ちて来ただけだった。
「モンスターはどこからやってくるのだろうな」
ヴィンセントがぼそりと言った。先ほどクラウドがいったのとそっくり同じ言葉だ。
「もはや主のいない宝条のラボか?それとも──」
ヴィンセントは暗に言っているのだ。モンスターの発生は、宝条の実験のせいだけではない、と。
元々自然界に存在するライフストリームを少々口にしたところで大した影響はないが、パイプから漏れ出した超高濃度の魔晄となると話は別だ。食物連鎖を介してそれはさらに濃縮され、肉食動物──確かに、狼に猛禽…それに鼠や肉食昆虫の類、モンスターの多くはそういった動物が魔晄の作用で変質したものだ──をより凶暴にした。
それが長い時間をかけてヴィンセントとナナキが調べた末にたどり着いた、モンスターとその自然発生についての見解だという。
「鹿撃ちはただの趣味じゃない。おかげで随分と色々なことがわかったからな──おっと、鹿の肉に問題がないことは確認済みだ。当然お前たちに出した分もな」「わかってるさ」
ヴィンセントの言葉にクラウドはぎこちない笑みを浮かべた。
「それにしても神羅…いや、俺たちは本当に…星をめちゃくちゃにしてしまったんだな」
沈痛な声でクラウドが続けた。
神羅が魔晄という金の卵を見つけてからほんの数十年しか経っていない。一般人もじゃぶじゃぶと魔晄を使っていた期間はもっと短い。それがここまで取り返しのつかない影響をもたらすとは。
土から植物、植物から草食動物へ、さらに肉食動物へ、そして人間へと続く流れの只中にある草食動物の魔晄汚染の程度が深刻なものではないというのは一つの朗報ではあった。それでも手放しで喜べるものではない。歪んだ世界の中で、かろうじて見せかけの均衡を保っているに過ぎないのだ。
落ち込んだ様子のクラウドに向かってふんと鼻を鳴らすと、ヴィンセントはあっさり言った。
「最初に言っただろう。汚染は少しずつ解消されている、と。500年かそこらか…時間がかかることは間違いないが、徐々にモンスターのいない元の山の姿に戻っていくはずだ」
ヴィンセントの表情は穏やかだった。だが──
500年──さらりと言ったヴィンセントの言葉に、クラウドは一瞬顔をくしゃりと歪めた。その脳裏には山の中でひとり鹿を撃つヴィンセントの姿が浮かんでいた。
ヴィンセントは軽く片眉をあげ、クラウドのグラスに酒を注いだ。
「時間はある。気長にやるさ」
それに、とヴィンセントは付け加えた。
「案外嫌いじゃないんだ。来年は畑にも挑戦してみるつもりだ。収穫を待ち、読みたい本の続きを待つ。そういう時間を過ごしてみたい」
「…意外だな」
クラウドは虚をつかれたように何度か瞬きすると、笑みをこぼした。
ヴィンセントが語ったのは、確かに未来の話であった。永遠に続く苦役ではなく、何か新しいものが芽吹く明日の話。
強いな、という賛辞の言葉は胸の内にしまったまま、クラウドはグラスを掲げてみせた。
それと同時にもう一つ気づいたことがあった。間をおいてちまちまと一冊ずつ本をやり取りするティファの真意だ。「まとめて貸してやったらいいだろ」と言ったクラウドに、ティファは笑って「これでいいの」と返したのだ。
俺はいつも、気が利かないな──クラウドは心の中でそう呟いた。
翌朝は快晴だった。
積もったばかりの新雪が辺り一面を柔らかに覆っていた。ヴィンセントの小屋から離れたところにある崖からは雪庇が垂れ下がり、そのさらに向こうには、昨日通り過ぎてきた木立の群れが影絵のように佇んでいた。太陽は山の影から未だ姿を現さず、あたりはとことん寒かった。
上着を引っ掛けただけのデンゼルは肩を抱いてぶるりと震えた。
「鼻で息を思い切り吸ってみろ」
いつの間にかすぐそばに来ていたクラウドが得意げな顔でデンゼルを見ていた。
その意図に内心首を傾げながら、デンゼルは一瞬息を止めると力一杯鼻から空気を吸い込んだ。冬山の朝の冷たい大気が体の中に流れ込み、ぴたりと鼻の穴がくっついた。
「え、なんで!?」
「あまり寒いと鼻の中が凍ってくっつくんだ」
はあはあと口で息をする間に鼻はすぐに元通りになった。鼻の頭を赤くした顔を見合わせて、デンゼルとクラウドは声を立てて笑った。
「随分早起きだな」
「目が覚めちゃったんだよ」
デンゼルはそう言って、遠く西の方へ目をやった。きらりと光るその場所は海なのだと頭ではわかっていたが、なんだか不思議な感じがした。濃紺のそれは硬い質感の飴細工のようで、いつかの夏にコスタ・デル・ソルで見た明るい海とは様子がまるで違った。
──こういう景色を見ながらクラウドは大きくなったのだろうか。
デンゼルはちらりとクラウドの横顔を見た。クラウドは、どこか吹っ切れたような顔で山の上の方を眺めていた。つられてデンゼルも見上げると、振り返ったクラウドと目が合った。
デンゼル、とクラウドは声をかけた。
「とっておきのスポットがあるんだ。行ってみないか?」
なだらかな斜面に建つヴィンセントの山小屋の北側は岩壁に面していた。岩壁と小屋の間には粉糖のように細かい雪が吹き溜まりになっている。
その岩壁に沿ってしばらく西の方へ歩いて行くと勾配が徐々にきつくなっていった。ずんずん進んでいくクラウドを追いかけながら、ぐるりと大回りして岩壁のもっと上の方を目指していく。今日は背中に荷物がないから楽勝だ、とデンゼルは思った。
灰色の岩壁を登った先に高く聳えるニブル山の峰が見えてきた。その険しい頂の一面に朝日があたり、ギラリとした光を放っている。
そのさらに上には空があった。空は幾層にも分かれていた。
西の空に夜の名残の色が見える。あの濃い青い色は宇宙の色だとデンゼルは聞いたことがあった。夜と昼の境の領空では、最後の星が粘り強くその姿を主張していた。
もっとよく見ようと見上げた瞬間、デンゼルの脇腹がキリリと痛んだ。
平気だと思っていたが、早くも息が切れてきたのをデンゼルは感じていた。顔が熱くてたまらない。
だが、ただ静かに存在している山の景色はデンゼルにとって思いの外、心地良かった。
空と海を直に感じながら世界を無心で歩く。それが今この瞬間の全てだった。
辺りを見渡すデンゼルの目に、先の方で自分を待つクラウドの姿が映った。クラウドはただじっと待っている。頑張れと励ますことも、手を差し出すこともしない。東からの光がクラウドの半身を照らし出し、金の髪が燃えるように輝いていた。
クラウドが見ているのと同じ景色が見たいとデンゼルは思った。斜面で少しの間足を止め、デンゼルはふうと息をついた。よし、と心の中で気合を入れ、デンゼルは最後の急勾配を登り切った。
そこは見晴らしのいい高台だった。デンゼルは思わず目を閉じた。
雪は柔らかな層を成し、その表面は無数の雪の結晶でできていた。無数の雪の結晶が作る無数の小さな凹凸は朝日をてんでバラバラな方向に反射させ、おかげで目を開けていられないくらいの眩しさだった。
目が少し慣れてみると、高台の縁のはるか先は、ニブル山に連なる岩山の頂が高く低く、ずっと遠くまで続いている。荒れ狂う海が石に姿を変えたかのようだった。
クラウドの姿がない──デンゼルは辺りをきょろきょろと見回した。
その時、背後の林の奥でクラウドが手を振っているのにデンゼルは気がついた。ブンブンと大きく手を振るその姿は今にも飛び跳ねそうで、珍しくはしゃいでいるようだった。デンゼルの足も自然と早まった。
林の中の開けた箇所には小さな湖があり、半分凍った水の中に動くものは何も見えなかった。湖の脇を通ってクラウドのもとに向かうデンゼルを日差しが優しく温めてくれた。
「どうしたの」と訊ねるデンゼルをもどかしそうに手招きすると、クラウドは「ほら」と言ってデンゼルの背中に手を当てた。その身をかがめてデンゼルと視線の高さを合わせると、クラウドは慎重に角度を見定め、デンゼルがさっき通ってきた辺りを指差した。
「あ…!」
あそこに何も特別なものはなかったはずと、戸惑いながらそちらに目を向けたデンゼルは、思わず声を漏らした。
湖付近の木立は雪氷をその身に纏い、海底の珊瑚のようだった。その氷の珊瑚の群れを背に、あたり一面をキラキラとした光の粒が舞い踊っていた。真円の光の粒は柔らかな金色に輝きながら、途切れることなくどこからか湧き出てきた。
海の向こうから真っ直ぐに差し込む朝日が当たっている箇所は特に光の粒の密度が濃く、それはまるで光の道のように見えた。
「すごい…」
「ダイヤモンドダストだ。条件が揃わないと、なかなか見られない」
呆けたように呟いたデンゼルに、クラウドは弾んだ声で答えた。
空気中を漂う極小の氷が作り出すこの自然現象は、気温がうんと低い晴れた日に現れる。それに湿り気も必要だ。ここの林は、クラウドがニブルヘイムにいた頃に兎を追いかけて偶然見つけた、ダイヤモンドダストができる場所だった。その後もこの場所にたびたび訪れたが、いつも決まって見られるわけではなく、その規模もまちまちだった。
その少ない記憶を思い返し、「ここまで見事なのは俺も見たことがない」とクラウドは呟いた。
「そうなの?」
デンゼルが思わず笑みを浮かべて振りあおぐと、クラウドは前を見つめたまま小さく頷いた。
ニブルヘイムが──故郷の山がどんなに変わっても、こうやって光に満ちた光景が誰にも見られずに繰り返されていたのかと思うとクラウドは不思議な心持ちになった。
ヴィンセントの言った、”気長にやるさ”という言葉がすとんと胸に落ちたような気がした。
2人が無言で見つめる中、光の乱舞は次第に収まっていった。薄い雲が太陽を覆うと、あたりは普通の林と何ら変わりない姿に戻っていった。
「そろそろ戻るか」
魔法が解けたタイミングで、クラウドはそう言った。デンゼルはこくりと頷き、クラウドと並んで林の外へ向かって歩き出した。
背後から射す陽の光が2人の影を長く地面に焼き付けている。細かい雪がさらさらとこぼれ落ちる急な斜面を慎重に降りながら、2人はそれぞれ物思いに耽っていた。
──とその時、クラウドの優れた聴覚が何か地響きのような音を捉えた。音のやってくる方角に鋭く視線を向け、クラウドはその背中にデンゼルを庇うように一歩前に出た。
一拍遅れて異変に気付いたデンゼルが慌てて辺りを見回した。
どっどっどという音が頭上から2人に迫る。
間に合わない──ゾッとする気持ちとは裏腹にクラウドの頭は冷静だった。デンゼルを抱きかかえて瞬時に雪の斜面に身を伏せた。雪は、今や勢いを増して斜面を流れていく。
デンゼルの顔のすぐ前で、クラウドが何か言っているが地鳴りのせいで聞き取れない。だが、デンゼルは不思議と恐怖を感じなかった。頭上の空の青さがやけにはっきりと見えた。分厚い外套越しに、早鐘のように打つクラウドの鼓動が聞こえた。
パッと雪が舞い上がり、デンゼルの目の前で白く飛び散った。舞い散る雪の飛沫の合間に、しなやかに躍動する筋肉に覆われた長い脚が現れては消え、そしてまた現れた。激しい呼吸を繰り返す胴体と長い首が見えた。そして分岐のある一対の角。動けずにいるクラウドが自分たちの脇を走り降りていく動物の正体に気付いた時、一際大きな影が斜面にサッと差した。
それは悠々と2人を飛び越える一頭の雄鹿だった。
その体を下から見ながら、腹を含めて全身を覆う被毛が灰茶色をしているのに尾だけは白いんだなと呑気なことをデンゼルは頭のどこかで考えていた。
雄鹿は、巨躯を軽々と操って宙を駆けていく。
どう、という響きとともに前脚の蹄が雪に突き刺さり、また雪の飛沫が舞った。氷の粒が頬に当たるのを感じてデンゼルは思わず目を閉じる──。
随分長い時間が経ったような気もするが、おそらくはほんの一瞬のことだったのだろう。デンゼルが目を開けると、鹿の群れはずっと下方の木立の中に消えていくところだった。呆然としたままデンゼルは立ち上がり、座り込んだままのクラウドを見た。デンゼルは、自分以上にびっくりしたような顔をしているクラウドの表情に、ぷっと噴き出した。クラウドは少しばつの悪そうな笑みを浮かべ、デンゼルが差し出した手をしっかりと掴むと、力を込めて立ち上がった。
デンゼルの細い体はぐらつくことなくクラウドをしっかりと支え、そのことにクラウドは密かに目を見開いた。
改めて小屋に戻る前に、クラウドは最後にもう一度山の上の方を振り返った。その顔に何気なく視線をやったデンゼルは、クラウドの緑がかった青い瞳がきらりと光ったのを見た。クラウドの薄い唇が小さく開き、白い息が漏れた。クラウドは何も言葉を発しないまま、その唇をキュッと引き結んだ。
その時デンゼルは、クラウドが内側に抱えているものを垣間見たような気がした。強いばかりではない、揺らぎのようなもの。
風が吹く。風は木々を揺らし、降り積もった雪を舞い上げる。
「クラウドはさ、なんで俺を連れてきたの」
気づけばデンゼルの口からするりと言葉が溢れていた。
クラウドは弾かれたようにデンゼルの方に顔を向けた。デンゼルは眼下に広がる景色を眺めていた。クラウドは初め、デンゼルとゆっくり話す時間を作ろうと思っていた。抱えている悩みについて一緒に考えたい、と。旅に出れば気分を変える手助けになるだろうという思惑もあった。
それなのに実際に答えとして出てきたのは全く違う言葉だった。
「なんだろうな…俺が、一緒に見たかったんだ。デンゼルと、この景色を」
曖昧で頼りなく、何の解決ももたらさない言葉──でもそれでいいとクラウドは感じていた。
そっか、と小さく呟いて、デンゼルは口の端を持ち上げた。
目の前に広がるのは、未だところどころに立ち枯れた樹々の残る、寂しい風景だ。しかも冬のこの時期は雪がほとんどの地表を覆い、生命の気配は乏しい。
だが、2人は知っていた。あの雄鹿がこの風景のどこかに確かにいるのだということを。
デンゼルは思った。多分、この光景を自分は生涯忘れないだろう、と。
クラウドとデンゼルが戻ってくると、小屋の煙突からは煙が立ち上っていた。
小屋の主は玄関ドアにもたれかかり、放蕩息子たちの帰還を待ち侘びていた。
「遅い。朝食が冷めるぞ」
不機嫌そうなその声音にデンゼルは思わず首をすくめた。その耳にこっそりとクラウドが告げる。
「ヴィンセントは寝起きが悪いんだ。朝はいつもああだから気にするな」
「そうなの?」
また一つ明かされた意外な一面に、デンゼルはヴィンセントに対する認識を改めざるを得なかった。笑いを堪えるデンゼルに向かって、クラウドはニヤリと笑みを浮かべて頷いて見せた。
帰路に着く2人は荷造りを終え、それぞれの荷物の入ったリュックサックを背負うとベルトをしっかりと留めた。荷物といっても中に入っているのは着替えや応急処置の道具くらいなものだ。行きと比べるまでもなく荷は軽い。
「じゃあな」
「ああ。気をつけて」
来た時と同じく簡単な挨拶を交わして、クラウドとヴィンセントはしばしの別れを告げた。
ほんの一日の滞在だったが、デンゼルはこの小屋がすっかり気に入っていた。訳のわからない小物で溢れる棚も、雑多に紙類が積み上げられた小さなテーブルも。
クラウドとデンゼルはしっかりと雪を踏み締めて、来た道を戻っていく。デンゼルは振り返って、小屋の外で2人を見送るヴィンセントに向かって手を振った。
「ありがとう!」
ヴィンセントは頷くと、「またいつでも来い」と言って片手をあげた。
「ヴィンセント!」と今度はクラウドが声を上げた。「そのうちエッジに来いよ。本の感想を言う相手がいなくてティファが寂しがってる」
その言葉にヴィンセントは一瞬驚いたような顔をして、苦笑まじりに呟いた。
「まったく…揃って世話焼きなやつらだ」
その言葉が届いたのか、届かなかったのかはヴィンセントには判別できなかった。大小二つの影はすでに斜面の下だ。
親子はゆっくりと、山を降りていく。
ここまで読んでいただきありがとうございました。もしよろしければこちらから感想等いただけると嬉しいです☺️