幸せからのお誘い
2023年末はご多分にもれず、大切な人たちにお世話になったお礼を伝え、実家に帰り家族と束の間の団欒を楽しみ、新年には今年の抱負をあちこちで述べあった。
会いたい人がいて、帰りたい場所があり、作りたい未来があって、それらを叶えられる可能性がある。
世界では戦争が続き、日本でも災害や心痛む出来事が起こる中で、私の日常は当たり前ではないことを実感すると同時に、まだ存在し続けていることをありがたく思った。
そんな私の今年の抱負は、「幸せの追求」。
どんよりとした新年を少しでも盛り上げようと、耳障りの良い言葉を掲げたわけではなく、この言葉には、もう自分の本音に蓋をするのはやめようという、私の真っ直ぐな決意が反映されている。
憲法にも記されている、幸福追求の文字。
私が今あの長文を読んだなら、この言葉を蛍光ペンで盛大に飾り立てただろう。
私はこの権利の大切さを理解し、法の名の下に全力で実現しますと誓いを立てながら。
幸せと一口に言っても、意味合いは人それぞれだ。
家族との時間に幸せを感じる人もいれば、たらふく美味しいものを食べることやゲームを攻略することにそれを見出す人もいるだろう。
バンジージャンプやカーチェイスなどをして、生きていることを実感する体験がそれにあたる人もいるだろうし、幸せについて考え続けることが幸せだという人もいるかもしれない。
多様な解釈の可能性を含む幸せが、私にとってはどんな意味を持つのか。
ガラスの靴がシンデレラの足にピッタリだったように、私の幸せという器にしっくりきた考えは、これだった。
自分が受け取るに値する存在だと自覚して…、
自分がやりたいことを自分にさせてあげられること
自分のほしいものを自分に与えてあげられること
年末あたりに、自分が人生に持っている不満を発見し、その原因がなんなのかをずっと考えていたのだが、先日ふと、自分はまだまだ受け取ることを自分に許可出来ていないのだと気づいた。
今まで自分の本音に蓋をしたり、我慢することを得意としてきた私。
少しくらい顔に泥がついてたって、ズボンの裾がほつれていたって、全然平気な顔を装うことができた。
本当は休みたいのに頑張ったり、誰かを頼りたい時も、一人で頑張ってしまったり。
本当は自分も贅沢がしたいのに、別にそんなのは求めていないと(無意識下で)自分を納得させていたり。
申し訳ないから、周りに迷惑をかけるだろうから、だから自分が我慢すればことは丸く収まるのだと、それが正しい在り方なのだと思ってきた。
本当はいい匂いのするタオルで顔を拭きたかったし、心踊る新品のズボンを履きたかったのに。
もっと主張して良いんだよ
やりたい、やりたくないと言って良いんだよ
自分の気持ちが一番大切なんだよ
過去の自分にはもう聞こえないだろうけれど、未来の自分には教えてあげたい。
良い人を演じても、自分が幸せになるとは限らないのだよと。
そんなわけで私は今、幸福の追求という横断幕を広げて、積極的に受け取らねば!、自分の本音を掬い上げてあげなくては!と、半ば使命感のようなものを感じながら、2024年を行進している。
自分がほしいものを口にするには、自分の望みを知らなければならないが、
長年本音に蓋をしていると、すぐにはそれが見極められない。
他人の期待に応えようとする選択肢が、私の本望に擬態しているときもある。
そんなわけで幸せへの旅路は、補助輪をつけて進むことになり、まずは心の奥を覗きにいくことから始めている。
値段でもなく、人の顔色でもなく、自分の胸の高鳴り具合に焦点をあてて、何がしたいのか、何が欲しいのかを考える。
その上でほしいものをほしいと口に出す。
自己完結する時は良くても、相手がいる事柄で自己主張が必要な時は緊張する。
先日なんて、こんな要望を伝えたら縁の終わりだとものすごくドキドキして、でも自分の願いを叶えてあげなきゃと渾身の力を振り絞って(決して大袈裟ではない)、ほしいものを伝えた。
(その後、思わず恋に落ちてしまいそうなほど温かな二つ返事をもらい、それだけでも嬉しかったが、自分の望みをちゃんと口に出せた自分が誇らしくもあった。)
まだ全く慣れないけれど、頼み事をするときは、自分の中に自分が2人いるみたいにして、もう一人のか弱い守るべき私のために、声をあげているイメージを持つことにした。
誰かのために頑張ろうと思うと、力を出せるから。
頼み事初心者マークが存在したなら、私は3つくらい貼り付けてくださいと指示があるだろう。
それでも、トライを続けている自分を、私は褒め讃えてあげたい。
私にとって、まだ簡単なことではないのだから。
幸せの追求を試みる過程で、これには恐さも隣り合わせであることに気づいた。
望みを口にして、叶わなかった時はどうなるのだろう。
本音を聞きつづけたら、私はすごいことを言い出すのではないか。
例えば、宇宙に行きたいとか、世界一周旅行をしたいなどと言い出したら、私はどうしたら良いんだろう。
そのための時間や経済的自由は、どこから生まれるのだろう。
そういう意味では、幸せを追求するという宣言をなかったことにしたい自分もいる。
他人に合わせて自分の本音を聞かないことは、楽でもある。
今まで私は上手に生きてきたのねと、思わず帽子を脱ぎたくもなる。
でも今は手が届かないと感じる願いも、本音を大事にするうちに叶うと思えるようになるのだとも思う。
それは幸せの追求を続けていった人にだけ見える景色なのだろう。
だから恐いと感じるときも、(今のところ大体毎回だが)、自分は受け取るに値する存在であることを信じて、自分の本音に寄り添ってあげようと思う。
幸せがすぐそこまでお誘いに来てくれているのに、断る人がどこにいるの。
頭の中ではそんな反語的応援が、私を後押ししてくれている。
年末に1年を振り返ると大抵、年の初めには想像もしなかった地点に立っている。
ここ数年はまさにそうだった。
2024年の師僧が走り出す頃に、私はどんな景色を見ているのだろうか。
そんなことを考えながら目を瞑ると、幸せを軽やかに追い越していく自分の姿が見えた気がした。
あれは一体、いつの自分だろうか。
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