いじめについて思うこと
かつてのいじめっ子から、SNSの「お友達申請」があった。
いじめられた記憶ほど、いじめた記憶は残らないらしい。
「パワハラ」「セクハラ」「モラハラ」などもいじめであると私は思う。家庭内における虐待やDVもいじめであると思う。なぜなら、いじめは意図ではなく、「欲求」だからである。
「欲求」とは何かというと、
育った過程における満たされなかったものを満たしたい本能のこと。親の暴言や暴力に対して我慢したり、愛されたいから、いい子でいようと頑張ったりした体験が、いじめの心理の根源にあるように思う。
だから、いじめっ子がいじめる相手は、「だれでもよくない」。
自分のように我慢したり、頑張ったり、もしくは、本当はそうしたかった行動をとる人、自分が得られなかった愛情を得られているように見える人を本能的に選ぶのではないかと思う。
そして、いじめの対象を見つけると、欲求を満たすために必要だから、そばに置こうとする。いわゆる「友達」でいようとする。
自分をいじめた者を、他者に訴えても、共感をえられなかったり、信じてもらえなかったり、「あの人はいい人だよ」と言われるのは、そういうことだ。彼らは、いじめっ子の欲求を満たす相手ではないから、傷つけられることはない。
いじめられる人は、みんなからいじめられるわけではない。いじめる人も、みんなをいじめるわけではない。
一方で、誰でもいじめっ子になれることも言っておきたい。
私は、親からのモラハラ、パワハラ、記憶にないが虐待も受けた。全否定の言葉を沢山あびて育った。多くの家庭にもある程度のもので、たいしたものではなかったかもしれないが、自分の意見をずっと言葉にできなかった。
だから、社会人になってから、自分が「正しい」と思った意見を言いたいとき、勝手に思い込んだ「あるべき論」を主張したい時に、強い感情を伴う行動や言葉で表現した。
その原因が、育った過程にあることに気づいたのは、大人になって随分とたってからだ。
つまり、私も、いじめた人として、誰かの記憶に残っているかもしれない。いじめたつもりはさらさらない。
子供の世界だけでなく、大人の世界にもいじめはある。いじめっ子は、本能的にかぎつけた自分にとっての「いじめられっ子」を手放そうとしない。周りには、その人のことを友達(時には親友)と言ったりする。
かつてのいじめっ子からの「お友達申請」は削除した。しばらくして、違うアカウントで「おひさしぶり!元気?会いたいね!」と、再び「お友達申請」がきた。
かつてのいじめっ子も、「大人」になったと思う。しかし、記憶は消せない。いじめられた記憶は、心の傷になって時々、そして一生うずく。
私には、「決心」がある。
いじめっ子の欲求を満たす対象にはならない。
再びのお友達申請も、削除する。