人生を卒業するとき
先週末の土日、自分軸ビジネス構築講座の最終回を開催した。
いつも土曜の夜は、参加メンバーとご飯を食べに行っていて、今回も居酒屋にみんなで行った。
その時の話題にアガスティアの葉が出た。アガスティアの葉というのは、古代インドの仙人のような人が書き記した葉。そこには訪れる人の生涯についての予言が書いてある、というもの。
友人の中にも実際にインドまでいって葉に書いてあることを確かめにいった人が何人かいる。
で、その葉にもし100歳以上生きるとか書いてあったら?と誰かがいった。それを聞いて、だったら嬉しいですよね、と言われたのだけれど、私は逆にそんなことを聞いたらがっかりしちゃう、と答えた。
できたら80歳ぐらいでこの世を卒業したいと思っているから。
やり残したことはないんですか?と聞かれ考えてみると、やってみたいことはあるけれど、やり残したと思うほどではない。
すると、今が充実しているんですね、と言われたんだけれど、そういうわけでもない。
100%ハッピーということもないし、つい修行の道を選びがちなので、むしろ思い通りにいかないことの方が多い。
ただ、修行であろうとそうでなかろうと、やっぱり目の前にあることに力を抜きたくないというか、瞬間を生き切りたいと感じていて。
高齢になって体力はもちろん、気力もおとろえて、いろいろおっくうになって時間だけを過ごすという時間を持ちたくない。
年をとるとそうなる、というのは私の思い込みだし、自分の親を見ていての刷り込みだ。元気な日々を過ごす高齢の方もたくさんいる。医療が発達して高齢でも元気でいられるかもしれない。あるいはVRが発達して、身体が動かなくても、自分の身体が動いているかのように感じられるメタバース空間の中で生きることができるようになるかもしれない。
そうなったらそのときは、またどう思うかはわからないけれど。
人生の幸福度を測るツールに「人生の輪」というのがある。コーチングでよく使うツールで、幸福度を8つのカテゴリーにわけて測るものだ。8つのカテゴリーは、「人間関係」「家族・パートナーシップ」「お金」「仕事」「環境」「健康」「趣味・ライフワーク」「学び」などで利用する人で多少変わる。
人生にはつねにこの8つはいろいろなバランスで存在している。人によってどこの点数が高い低いは全く違うし、同じ人でもその時どきで変わる。
自分の人生を振り返ると、これらのカテゴリーのうち、メインになるものが年齢とともに移り変わってきたなあと思う。
自我の確立ということで10代までは人間関係、パートナーシップもしたし、キャリアに向き合った時期もある。ほぼ全部をやりつくして、残るは健康かなと思っている。
高齢になれば健康は否応なく重要なテーマになるだろう。健康以外のことは、健康でさえあればなんとか乗り越えていける。しかし、健康そのものがテーマとなる年齢となったとき、わたしはそれを健康な身体なしで乗り越える気力がもう残っていない気がする。
もうそこで負けてもいいかな、と思ってしまうのだ。もう奮い立たせる人生はしんどいなって。
それでも、10年後あたりで大恋愛に陥り、100歳といわず200歳までその人と一緒にいたいと思うかもしれないけれど。何が起こるかはわからない。
ほんの最近のことなのだけれど、ビジネスをする意義が変わった。これまでは自分の幸せ、自分の充実がすべてだった。自分が豊かに暮らすために必要な収入を得る。ビジネスとはそういうものだと思っていた。
お客様をはじめとするビジネスの人間関係はもちろん大切にする。でもそれはビジネスを順調な流れにするため。それはごく自然なことだと思う。むしろ、お客様の笑顔さえあれば頑張れる、なんていうのは嘘くさいと思っている。
自分を幸せにすることが、生きることの究極のテーマだから。
そこは1ミリも変わらないのだけれど。
今回の講座の最終回を迎えるにあたり、たかが私一人の短い人生の間に得たかぎりのものでも、それを知ることで喜んだり、役に立ててくれる人がいるんだなということに感動した。
私が先人たちから受け継いだもの、それらを土台に私の中に生まれ育っているもの、それは私だけのものではなく、渡していくものなのだと、その循環そのものに与えながら与えられた。
ビジネスは私にとって、それを渡していく手段。多くの人に届けるもの、あるいは限られた人に深く渡すもの、いろいろある。いずれにしても、届けることをサボってはいけない、逃げてはいけない。
自分のためだけなら、たぶんサボってしまう。こんなものでいいか、私にはこれで十分だ、って。
でももうサボれなくなってしまった。もっと渡すにはどうしたらいいか。真剣に考えないといけない。
それができなくなったとき、たぶんもう、この世は卒業でいいんじゃないかな。そう感じている。