伝えたいことを、どう書くか
今朝、会社へ向かう電車の中で、最所さんのnoteを読んだ。
人々が気軽に発信できるようになった昨今、インターネットを介して世界中が敵になってしまう日が来てもおかしくない。だからこそ、もしもそうなってしまった時にどうするかを考え、備えておくことが大事ではないか、と言う。
読みながら、SNSで炎上してきた人たちが頭をよぎった。みんな悪意をもって発した言葉ではないところで、どこの誰とも知らない人から叩かれたり、矢面に立たされたりしてしまう。いくら注意をしていても、どこに爆弾があるかなんて100%理解して避けることは不可能だ。
激しく共感しながら読み進めているうちに、「あれ?」と疑問が浮かぶ。
ここでは、“思わぬピンチになってしまった時、どうすべきかを事前に考えて準備しておくことが大事”という。この考え方はまさに、年末noteで書いたことだ。
私の場合は、谷川俊太郎さんの本を読んで考えたことを、そのまま書いた。いわば読書感想文に近い。
そして最所さんの場合は、何かしらのキッカケから類似例(情報が拡散されやすくなった社会)を導き出して、読者にとって身近な例をあげて書かれている。
本質的な話は2つとも同じ(だと思う)。それをどんなふうに書くか、何を具体例にもってくるかによってこんなにも文章のイメージが変わってしまうのか。それだけでなく読者への伝わり方も全然違ってきてしまうのかと、体中に電気が走ったような気持ちになった。
1つ気が付くと、今まで聞いた言葉が頭を巡りはじめる。「ある事象に対して、いったん抽象化してからまた具体的なエピソードに落として書く」とか、「小説は、自分の伝えたいことを代弁するためのもの」だとか、「一見全く違うジャンルに見えても、本質は一緒のことがある。編集はそれらを集めて編む」とか。
そうか、なるほど、と今までわかった気でいたような言葉たちを、ようやく自分の言葉で理解して、消化しきれた気がした。
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言いたいことがたった1つだとしても、それを伝えるアプローチ方法は多岐にわたる。例え「書くこと」だけをとっても、無限の素材があるのだ。そのため自分の中に言いたいことが1つでもあれば、それを伝えるための活動は永遠に続けられる。
これまでライターの先輩方から「何が書きたいか」「何を伝えたいか」を問われてきた。そしてそらは大事なこと、見つけた方がいいことだと思った。けれど思っているだけで、実は全然理解していなかったのかもしれない。
心が動いたひとつの出来事を、「どうして心が動いたんだろう」「それで伝えたいことは何だろう」と考え、“要はこういうこと”を導き出す。その後、「これって身近な例でもあるよね」と言い換えを見つける。
たぶんそれが、”伝える”ということなんだろう。