『うるさいこの音の全部』(高瀬隼子著)書評|自分の声が聞こえない
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ジャンラララ、ジャンラララ。周りの音が大きくなるほど、自分の声が消えていく。自分の声がわからなくなる。本当はもっと、本音を聞いてほしいはずなのに――。
主人公の朝陽は学生時代からアルバイトをしていたゲームセンターで正社員となり、その傍ら小説を書いている。ペンネームは早見有日。有日の著書『配達会議』がテレビで紹介されると、朝陽の周りに大量のさまざまな声が届き始めた。
「小説家の人たちってやっぱり独特の目線で周りを見ているわけでしょ。社会や人間を書くわけだから。いや、ぼくらもね、今どんなふうに見られているのかなって気になっちゃって」と雑談したあと、朝陽になのか有日になのか、どちらでもかまわないと社内報にコラムを依頼する広報部長。「先生と一緒に働くことになるなんてねー」と"小説家”を誇張する同僚。有日が誰か知らないはずなのに、電報を打ってくる地元の市長。
その話の一方で、朝陽が今書いているであろう小説もストーリーが進んでいく。「友だちにウケそうだから」と近所の中華料理屋で働く中国人の「息子の人」と付き合う大学生の「わたし」。思った以上にウケなくて、「息子の人」を振ると家の外で待ち伏せされて警察沙汰になる。
話が進むにつれ、有日の小説は朝陽の日常に少しずつ近づく。居酒屋でアルバイトをしていたが、食べ物の匂いに耐えられずゲームセンターに働き先を変え、仕事後には中華料理屋へ飲みに行く。どこから朝陽で、どこから有日なのか。今、言葉を発している「私」は誰なのか。周りに何を言えば正解なのかがわからなくなるほど、小説が進んでいるようにも感じた。
朝陽にとって、自分の声を唯一拾えるのが有日だったのかもしれない。うるさい音にかき消され、自分の声が届かなくなると、有日が小説に昇華する。しかしそのたびに、周りの音が一層増えてくる。
ジャンラララ、ジャンラララ。うるさいこの音をかき消すように、朝陽はこれからも小説を書くのだろう。
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