続けるための曖昧さ
何かを続けたい時、生活の一部に組み込んで、ルールや習慣化してしまうことは継続する1つの方法だ。ご飯を食べ終わったら歯を磨くことも、朝起きたら顔を洗うことも、小さい頃に親から言われ続けて習慣になった。
上記に挙げた習慣はみんながやっていることとはいえ、国を挙げての制度でもなく、いつやめてもいい状態。だけれど、長年続けすぎて「やめると気持ち悪い」域にまで達している。ここまでいけば、あとは当たり前のように続けていける。
ただ、「当たり前」までもっていくのが難しい。毎日noteの他に書いていた紙の日記は、4月まで書いていたのに5月まるまる書けなかった。1度書かずに寝てしまったが最後。ほんの5分で終わる時間さえも「忙しいし眠たいし」で書かなくなってしまった。確かに忙しくはあるけれど、やれない理由はそこじゃなくて、やらないところにあったのに、自分で自分を注意できなかった。
毎日noteが続いている理由は、友だちと続けていることと、自分の性格が関係あるのだろうなと思う。1人でやると1度ダメになったらしばらく立ち直れない。けれど友だちという人の目があると、うっかり書けなくても「次ちゃんとやらなきゃ」と妙な責任感が生まれる。数年前にやっていたWebサイトの週1ミーティングも、予備校時代に先生から課された毎回の課題もそうだ。どうやら私は、誰かと一緒に作った「ルール」に対して、無意識のうちに忠実になるようだ。
作られたルールに忠実であるとはいえ、意図せず破ってしまうことはある。noteだってちょっと休憩…と思ってベッドに入ったら朝まで寝てしまったり、旅行中の時は考える時間が取れず遅れてしまったりと、ちょこちょことしたイレギュラーは発生している。が、「本来はこうだけど、難しい時はしょうがないよね」みたいなルール設定でのおかげで、1日、2日のずれでもまだやり直せると希望が持てているのかもしれない。
ルールに忠実であること、でも、忠実なルールの少しの例外は容認してしまうこと。そのちょっとした曖昧さは、物事を続けるうえで必要なのかもしれない。
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毎日数人でお題を決め、noteを書いてます。ハッシュタグは #毎日note
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