「おもしろい」は共感と狂気でできている
ふぁぼ、バズは共感
記事がバズったり、twitterに多くのスキやリツイートが起こる場合、炎上を除けばそれだけ「共感」を得られた証拠。自分と同じ気持ち、もやっとしていた気持ちを言語化してくれた、だから共感して、面白いと思うのだろうなぁと思います。
共感を呼んで人気になる人は結構多い(エッセイストなんかはまさにそう)し、受け取った人をやさしく包み込むようなイメージ。
そうそう、そうなんだよ! 言いたくなって反応してしまうのが共感です。同意できるのは読んでて盛り上がるし、面白い。
けれど私はもう1つ、「狂気(クレイジー)」にもおもしろさは宿っていると思うのです。
「ぞわっ」としたら忘れられない
最近、狂気だな…と思ったのはオバラくんのツイート。
全く共感できないけれど、そのクレイジーさは中毒性があり、これに近いツイートを心待ちにしている自分がいます。
何を「狂気」とするかは、人によって相当差があるので、その人がくっきり表れます。例えば私は、お坊さんが大人数で一斉にお経を唱えていたり、勉強していたりすることに「ぞわっ」とした感情を覚え、いつまでも頭の中に残ってしまいます。恐らく、「同じ外見の人が複数人で同じ動きをすること」に一種の狂気を感じているのかもしれません。
釈迦の誕生秘話や、空海がまだ生きている(と信じられている)と知った時も、「どうしてみんな信じられるの…?」と、ゾワゾワが止まりませんでした。これは、普通に考えるとありえないことを、みんながさも当たり前化のように信じ切っているところにクレイジーを感じてしまったのでしょう。お坊さんの件もあわせて、完全な仏教フェチです。
キャラクターでも似たことが言えます。くまモンの目ってどんな時も一定で狂気じみているし、ふなっしーも完全にクレイジーで売っていたタイプ。見た人の心の中がざわざわうごめくクレイジーさが、「面白い」と言われるひとつの要素になるのでしょう。
徹底した常識力か、人並外れたクレイジーか
共感性のある文章を書く人は、一体何に優れているのだろうか考えた時に、友人が「ふつうとは何かを、しっかりしっている人だと思う」と言っていました。当人がふつうかはどうであれ、どういう感情がふつうなのか、誰がどんなことを考えがちなのか、それを知っているからこそ、寄り添うことができるのでしょう。
逆に「狂気」の場合は、自分が夢中になっているものを知っている。それも単なる「好き」ではなくて、それによって衝動が走るような、熱狂的な「好き」。好きが強すぎると、受け手はもうその感情が理解できない。受け手にとって「よくわからないもの」はいつまでも頭の片隅に残り、それが狂気にかわっていくのだと思います。
受け手の感情をどのように揺さぶるか
「おもしろい」の感情は、受け手の心が動けば動くほど、強く思ってもらえるもの。うんうん、わかるよ!と手を取り合っても、えええ、信じられない!と動揺させても、感情が動けば立派な「おもしろい」です。
常識を把握するのが得意なのか、圧倒的に熱狂クレイジーでいることが得意なのか。自分の得意分野がわかると、作ったものを「おもしろい」と言ってもらえるようになるのかもしれないです。