「あたり前の日常」は残らない
「あたり前のことって、文献が残ってないんです」と、徳島取材で同行してくれたガイドさんが話した。
昔の生活を再現したいと思った時、お祭りごとや特別な行事については文献が残っているが、庶民の日常についてはすごく少ないという。
「例えばちょんまげを何日おきにほどいていたかなんて、当時の人にとっては日常の出来事すぎて特に書き残しておく必要が無いですよね」とガイドさんが続ける。確かになぁと思うのと同時に、彼らはきっと、ちょんまげじゃなくなる日を想像できなかったのかもしれないな、とも思った。
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日記をつけていても、心が動いたことは書くけれど、歯磨きの時間、回数、お風呂のタイミングなど、日常すぎることは記載をカットする。あたり前だし、今後も同じことが続くと思っているから、書き残す必要は特にないなと無意識のうちに思うのだろう。
けれどいつかは、「あたり前」じゃなくなる日も来る。それはたぶん、いつのまにか訪れる。
以前住んでいたアパートの家具の配置、彼が電話をくれた、仕事帰りにオフィスを出てから終電までの時間帯、実家でよく食べた菜の花の漬物が食べられる時。当時は「あたり前」だと思っていた日常も、いつの間にか状況が変わり、しばらくたつと思い出せなくなってしまう。
もう思い出さず忘れていくものもあれば、思い出したくても出せない思い出だってある。「あたり前の日常」は、これからに残らないのかなぁと思うと、ちょっと切ない。
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何気ない日常の中でも、「大切だな」「残したいな」と思うものって何だろうなと、時々振り返っておきたいと思う。最寄りの駅まで息切れしながら登る坂道や、同僚と話すちょっとした雑談、お金がない時に集まる「串カツ田中」の頻度。
残しておくものは、文章でも、写真でも、動画でも何でもいい。思い出したい時が来たら、引き出しからさっと出せるようにしておきたいのだ。どんなに大切な出来事でも、きっといつかは思い出せなくなってしまうのだから。