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習慣が正義になりすぎないように

質の良い睡眠がとれていないことにはちょっとした自信がある。金縛りに遭い始めたのは高校1年生の頃。かれこれ人生の半分くらいはヤツと一緒に過ごしている。

前までは恐怖心があったからなのか、金縛り中に色々な声を聞いたけれど、最近はちょっと場面が違う。動かない身体を動かすために、スマホをいじったり、手足を動かしたりするのだけれど、意識が戻ると何も動かしてはいなかったりする。けれど不思議と、初期の頃よりは恐怖心が無くなってきている気がする。

電話もそうだ。初めて寝ている間に電話をかけたのは、確か大学3年生の頃。当時持っていたウィルコムを使って友達に電話をかけていて、「今寝てるでしょ?」という友達の声で目が覚めた。そしてしばらくは自分が怖くて眠れなくなったりしたものだ。

最近でも、意識の無いうちに電話をかけることがちょこちょこある。電話がかかってきた時に私はすでに寝ていて、出ないからと切ると直後に折り返しかけてくるようだ。けれど寝ているので、ふにゃふにゃ声にならない声を発して、また話さなくなってしまうらしい。初回は自分の行動をあんなに恐ろしく思っていたのに、最近ではむしろ笑い話になって終わらせているから不思議だ。金縛りにも、寝ながら電話にも、きっと慣れてしまったんだろう。

あまり好ましくないことで、徐々に慣れてしまったことって、人生の中でいくつあっただろうなぁと考えた。仕事において「自分が嫌」を発言することはあまりよくないことだと思っていたし、嫌だけど直りようがないものも数えきれないほどあったように思う。

それに慣れてしまったら、「本当はもっといいもの」に出会えるきっかけもなくなってしまうのだろうなぁと思った。金縛りと無意識が当たり前になってしまったので、「本当にスッキリする質のいい睡眠」のことは知らないし、全く怖く無くなってしまったら、改善することも少ない。それぞれモトの部分を忘れて、慣れ親しんでいってしまうのだ。

周りの環境や習慣によってすっかり当たり前になってしまっているもの。「それって本当にいいの?」の問いかけは、当たり前のものほど念入りに丁寧にやっていく必要があるように思う。

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もりやみほ
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