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平成から令和へ。

新しい時代がやってきて、とても感慨深い。

日本テレビに入社して報道局に配属された私がニュース番組のADを経て最初に担当した記者クラブが、宮内庁だった。

入社2年目、23歳で、日本テレビから宮内庁担当は私一人。

20代が他社にも一人もいない中で、毎日皇居内の宮内庁にある記者クラブに通勤し、配属3日目にして行った人生初の海外出張が、今日から天皇陛下になられた当時の皇太子さまに同行してのモンゴルだった。
そして、昨日までの天皇皇后両陛下に同行しての初めての出張は、新潟中越沖地震のお見舞い(その時に、学生ボランティアと間違えられてお声がけいただいてしまうというハプニングがあったくらい、若かった…)だった。

大変失礼なことに皇室に全く関心がない状態での配属で、そうやってあらゆる行事や場所に同行させていただく度に、皇室ご一家の皆さまのお人柄に惹かれていったものの、社会の課題や様々な事情を抱えている人たちと向き合って少しでも生きやすくなるような報道がしたいという志を持って日テレに入社した私にとって、取材したかった現場とは正反対で、どうして私がその担当なのか、何を目指して取材をしたらいいのか、2007年当時上司に聞いてみたことがある。

その時に、言われたこと。

「報道現場がこれまでで最も大変で、最も注目も浴び、最も長期戦だったのは、いつだったと思う?昭和が終わるときだ。不謹慎かもしれないけれども、報道の仕事をする限り、常に次に時代が変わる時のことを頭においておかないといけない。そして、それが10年後、20年後、30年後だとしても、その時にまだ現場で活躍してもらえるような記者を育てよう、ということで今回から若い記者を配置してみるチャレンジだ。君の役割が、同行取材や宮内庁の広報係のような原稿を書くことだけだと思ったら大きな間違いだ。陛下に何かあった時に誰が対応し、どの順番で連絡がいくのか、誰にスタジオに来てもらったらいいのかなどを徹底的に調べて、有事の際にはすぐに、しかるべき方から連絡をもらえるような関係を築くように!最もオフレコが多い記者クラブの一つで、ご本人に直接話しかけられない中での宮内庁の取材は今後どんな取材をするにおいても訓練になると思うよ。」

今思うと、やる気を出させるために盛って話してくれていたのかもしれない。

でも、若かった私はすごく重い役割を受け取った気がして、気負って、探偵のように、何も知らないふりをして至るところに同行しながら、朝周りや夜回りが大変だと有名な警視庁担当でも、司法担当でもないのに、関係者の自宅を朝晩まわりながら、皇室の人間関係を探る日々が始まった。

雅子さまの周辺に話を聞いて、その配慮と忖度は本当にご本人のためになっているのだろうか、と妙に雅子さまの立場を想像して勝手に共感したり、オープンになっていない雅子さまの日程を入手して会いに行ったりもしていた。

でも、厳粛なルールのもと、どんなに取材して、たとえ100知ることができても、1も報道できない…

別の担当の同僚がじゃんじゃん原稿を出したり中継したりしている中、報われない思いも、募っていった。

その時は精一杯楽しく仕事していたし、そこで出会えた方々は大好きだったけれど、一般人すぎる私にとってやんごとなき世界は、なんとか合わせようとしてもやっぱり合っていなかったんだと思う。

そして、配属から8ヶ月、ストレスをピークに感じまくっていた時に乳がんが発覚して闘病することになった。

「この仕事をしていなかったら、こんなに無理して頑張っていなかったら、もしかしたら、がんになんかなっていなかったかもしれない。」

なぜか次の元号を決める会議を取材している夢まで見てうなされながら、そう何度も思ったけれど、その時に私の命を救ってくれた主治医を紹介してくれたのは当時最も魂を込めて人間関係を築いていた皇室担当の医師で、あの仕事をしていなかったら、もしかしたら、私は今いないかもしれないから、まわりまわって感謝しかない。

そして復帰後は、省庁や政治関係の担当をすることになり、東日本大震災が起きた時には、これこそ報道の真意が問われる仕事だと感じながら東北に通わせてもらった。
そして、念願だった医療や福祉の取材もさせてもらえるようになり、宮内庁にどっぷり戻ることはなかったけれど、ずっと皇居内に自由に入れる記者証を持って何かがあるたびに取材の応援に行っていたこともあり、私は平成の終わりまでこの仕事は辞められない、日テレの記者でい続けるんだろうな、と思っていた。

厳粛ムードの中、平成が終わる瞬間を、裏で特番を準備しながら、誰よりも早く覚知するために走り回る…
本意ではなくても、それが会社に入社して最初にもらった大きな役割なんだから、と。

でも、上皇さまが生前退位のご意向を示され、今日という日程が発表された時、私はその役割から解き放たれた思いがした。

がんになることも予想外だったし、結婚できるとも思っていなかったけど、まさか、新しい時代がくる日程が事前に決まり、お祝いムードの中で迎えられるなんて、もっと想像もしていなかった。

そして、そのご意向が示された頃から付き合い始めた彼と結婚して、会社での仕事をやりきったと思うことができて、一度きりの人生、ずっとやりたかったことをやるために、新しい時代を前に、二人で会社を辞めた。

その後、ありがたいことに元上司が、「『平成が終わる』報道が忙しい4、5月だけでも手伝いにきてよー」と声をかけてくれたけれど、丁重にお断りして、テレビの向こう側にいるはずだった私は皇族ご一家や最近まで一緒に働いていた同僚をテレビのこっち側から応援して、新しい時代の瞬間は、夫と、盛り上がりの渋谷の一角の人様にご迷惑をかけない場所で大盛り上がりしながら迎えて、私たちにとっても新しい時代がきたなあと、とても新鮮で感慨深かった。

平成から令和へ。

まず、平成の30年間、どんな30年だったか。

個人的に平成を振り返ろうとすると、私にとっての平成は、この世に生まれて生きてきた35年のうちの5歳からの30年だから、ほとんど物心がついた頃からの人生を振り返ることと同じになる。

私にとっての平成は、学校に通い、日本テレビに就職して、一時闘病して、復帰して社内外で夢中で働いて、枠の中で、与えられた役割を果たすために必死で頑張る、という時代だった。

そして、私にとっての令和は、スタートから、自由に好きなところで好きなことをして生きていく時代。

役割にも、肩書きにも、場所にもとらわれる必要ない。
自分でいくらでもつくって、切り拓いていく時代。

それは、私にとってだけでなく、令和は、そんな生き方がより当たり前になる時代だと思う。

自由な身になって早4ヶ月、夫と二人とはいえども自由には孤独も責任も伴うことを痛感しているけれど、何の枠もレールもない中で、何をしてもいいという無限大の可能性を手に、新しい時代を迎えるこのタイミングは人生とぴったり重なった気がして、ワクワクが止まらない。

さあ、令和になったから、世界一周!

今日の日はこだわりを持って日本で迎えたかったのだけれど、もういつ旅立ってもいい。

時代の変わり目に、新しい時代をどうつくっていくか。
人が幸せであるためには。
人がつながりたくなる場所はどんなところか。
モデルとなるコミュニティのあり方は。
これからの人に必要されるメディアとは。

そんなヒントを世界中から集めてくるつもり満々で、今月末に出発すべく、連日二人で世界地図と、結婚パーティーに来てくださった皆さまからいただいた「世界のオススメ」カードを広げて「世界会議」を開く日々。
あー、出発していなくても、幸せなこと、この上ない。

平成にお世話になった皆さま、どうもありがとうございました。
令和も、どうぞよろしくお願いいたします。

令和元年5月1日
濱松(鈴木)美穂

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