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読書記録㉕『火花』又吉直樹著

今更だけど『火花』を読んでみた。ご存知の方も多いと思うが『火花』は人気お笑いコンビ、“ピース”のボケ担当、又吉直樹によって書かれた小説だ。2015年に出版された当時、ものすごく話題になり芥川賞を受賞。また、ドラマ化や映画化もされている。
本好きの人なら我先にと、書店で単行本を手に取ったのではないだろうか。しかしへそ曲がりな私は、流行真っ只中のものにはあまり興味が湧かない。『火花』について知っていることといえば、漫才にまつわる物語だということ。あとは、淡い黄色に、赤いマントのような変な形状のものがデンと描かれた、単行本の表紙くらいなものだった。


時を経て『火花』は、しょっ中図書館の棚でも見かけられるようになった。でも私はその前を素通りしてばかりいた。「そのうち読もう」と思いつつ。気になってはいたのだ。そして先日、ついに手に取った。いつもなかなか借りる本を選べないくせに「そのうち」とか「いつか」とか後回しにしている本があるなんて、阿呆の極みだと気づいたためだ。(※“阿呆”と漢字で書いたのは、単に又吉さんの表現に寄せてみたかったから。)では、いつものようにあらすじから書いてく。


お笑いコンビ、“スパークス”の徳永とくながと“あほんだら”の神谷かみやは、花火大会の余興で漫才をしたことで出会った。徳永20歳、神谷24歳の夏だった。神谷に誘われ徳永は、イベント後に二人で居酒屋で酒を呑みながら話をする。徳永はその場で神谷に弟子入りを申し込み、以後はたびたび連絡を取り合い交流を深めていく。
大阪の事務所に所属していた神谷だったが、徳永たちが活動している東京に上京してくることになった。徳永は神谷に電話で呼び出されれば、すぐに応じた。会えば二人のやり取りは自然と漫才のようになり、面白さや美学、漫才師としての在り方など話が広がった。神谷は芸人の世界のならわしだと言い、いつも徳永にご飯を奢った。しかし神谷は、女のアパートに居候するヒモのような立場。食べていけるほど売れていなかった。徳永にしても、バイトをして生活費を稼ぎながら漫才の仕事を続けていた。
月日は流れ、徳永のコンビ“スパークス”は漫才番組に出演することで、少しずつ知名度を上げていた。徳永はバイトをしなくても生活できるようになっていった。一方神谷は、相変わらずヒモのような生活を送り、借金の額を増やし続けていた。それぞれを取り巻く環境が変化するにつれ、二人にすれ違いが生じるようになり‥‥。
漫才という独特な世界観を通して、人の生き方、在り方、本質を見せてくれる赤裸々な物語。


最初の数ページを読んだだけで、物語の世界に引き込まれていた。読んでいて、まるでぐいっと腕を引かれたように感じた箇所があった。神谷が「かたきとったるわ」と徳永とすれ違う瞬間、怒った表情で呟いた時だ。
花火大会の余興の漫才。通りかかる人は花火が目的だ。花火の美しさと大音響で、徳永の漫才コンビ、“スパークス”の声はかき消された。道行く人に見向きもされず、無惨な結果に終わったスパークスと交代に舞台に出てきたのが、神谷のコンビである“あほんだら”だった。その瞬間の「仇とったるわ」である。徳永がそれを言われたことで、神谷から目が離せなくなったように、私も心を掴まれたようだった。


神谷たちの漫才はまるで通行人に喧嘩を売るようだった。神谷の役は“霊感があり、人の顔面を見たらその人が天国行きか地獄行きかわかる”という設定。通りかかる人を次々と指差し「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄」と叫ぶ。そこに母親に手を引かれた幼い少女がいた。神谷は笑みを浮かべ「楽しい地獄」と優しく言い、少女に「ごめんね」と続けた。
まるでその場に居合わせたように、徳永同様、私も神谷に惹かれてしまった。臨場感溢れるシーンだった。


しかし神谷とその相方は、楽屋での素行の悪さから芸人間で悪目立ちしていた。二人とも情の深い人間だったが、柄の悪さや乱暴な雰囲気で誤解されることが多かった。ゴマすりや人に取り入ることが上手い人間もどうかと思うが、根が悪くない人でも人間関係に不器用すぎるのは仕事上マイナスにしか働かない。
芸能事務所やその界隈では、特に一般的な社会よりも、理不尽や陰険、不本意なことが横行していそうなイメージだ。雇う側の人間も、素直で扱いやすい人材を好むだろう。この辺りにも神谷が芸人として成功できなかった要因が、多分に含まれている気がする。


徳永は、長く付き合っていくうちに、そんな神谷の不器用さを知る。しょうがない人だと思いつつも、神谷の才能を時に眩しく感じ、尊敬の念も深めていく。
本文中、徳永と神谷の会話で「これは笑うところなのだろうか」と何度か考えさせられるやり取りがあった。時には徳永も神谷の振る舞いに対して、ちょっと引いていたりした。だから、私の笑いの感性が特別ずれているわけではなかったのかもしれない。しかし、やはり笑いというものは人それぞれセンスもツボも違うし、ネタだけでなく言葉を発する者のパフォーマンスによるところも大きいから難しいと思った。


ともかく本書は徳永の目を通して描かれる、神谷への尊敬や愛、時に呆れを込めた眼差しで覆われていた。神谷という人物を表す文を三箇所引用しておく。
まずは珈琲店で、神谷が徳永と漫才談義をしていた時に言った言葉。


「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会に成り下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものをはなから否定すると、技術アピール大会に成り下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」

『火花』又吉直樹著


次は神谷が徳永と“個性”の話をしている時の言葉。神谷によると、ピエロの格好は誰かが生み出したものだから“模倣”。しかしそれを日常的に着こなしているのであれば“個性”だという。そこに続く言葉が下記の文だ。


「でもな、もしそのピエロが夏場に本当は暑いからこんな格好はしたくない。と思っていた場合、これは自分自身の模倣になってしまうと思うねん。自分とはこうあるべきやと思って、その規範に基づいて生きてる奴って、結局は自分のモノマネやってもうてんねやろ? だから俺はキャラっていうのに抵抗があんねん」

『火花』又吉直樹著

最後は徳永の考える神谷像。

神谷さんが面白いと思うことは、神谷さんが未だ発していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕りょうがしたもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている。それを楽しみながらやっているのだから手に負えない。自分の作り上げたものを、平気な顔して屁でも垂れながら、破壊する。その光景は清々すがすがしい。敵わない。

『火花』又吉直樹著


ストーリーそのものも面白いが、本書に散りばめられた言葉一つ一つに深みを感じる。それは普段から日常的に物事を俯瞰して捉えてみたり、抽象的に考えてみたり、深掘りしている人の紡ぐ言葉だ。又吉さん自身が漫才と向き合う中で獲得した観点、価値観。そこにはもちろん人生経験や読書体験も加わる。当たり前だが、良書というのは単に文章が整っていて描写が上手ければいいというものではない。やはり、書き手自身の人としての器、深み無くして生まれるものではないと思う。その凄みが、ふっと気が抜けるような笑えるやり取りや、取るに足らないようなことを本気で議論しているところに、ちらちらと垣間見えるのが、またいい。


物語の終盤では、スパークスの漫才を、実際に観客席から見ているような感覚に陥る場面があった。それはスパークスの解散ライブだった。
その漫才では“言った言葉と本音が真逆”という設定。その設定の中。徳永は相方に向かって「顔も声もいい」「天才」と言っては相方に「腹立つわ、こいつ」「やかましいわ」と突っ込まれる役回り。そして徳永は客席に向かって「ほんまに大嫌い!」「適当に死ね!」と普通に受け取ったら暴言と取られる言葉の数々を叫ぶ。
鼻の奥につんとくるような、胸に迫るものがあった。すごい。紙の上に印字されただけの文章にこんな力が宿るのだ。だから読書はやめられない。


スパークスが解散に至った経緯、その後の徳永や神谷についてなどはここでは書かない。しかしどこかに彼らは本当に実在するのではないかと思えるほど、読み終える頃にはそれぞれの人物像を身近に感じた。神谷に至っては「最初から最後まで目の離せない人物だった」と言いたい。徳永が「なにしてんねん」と素で突っ込んでしまうような、憎めない愛すべき人物だった。
漫才に興味のない人でも十分に楽しめる本だと思う。というかこの本を機に、漫才を好きになってしまうかもしれない。又吉直樹著『火花』。気になった方はぜひ、読んでみてほしい。



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