見出し画像

【小説】タフな心とスタミナと、時に潤いを。

白い包帯のようなバンテージを手に巻きながら、なんとなくジム内をぐるりと見渡す。さっきからはやし君がサンドバッグを殴る音がえぐい。ジャブ、ボディ、フック、連打。鎖がしゃらんと鳴ると同時に、重いサンドバッグがギシギシ揺れる。その背後では戸越とごしさんが、しずく型のパンチングボールをリズムよくグローブに当てている。音がうるさく、高い位置にあるパンチングボール。腕を上げ続ける格好になるのはきついが、力も要らないしジムの中では俺のお気に入りのトレーニングだ。
全面鏡ばりの壁の前で縄跳びをする男子二人は、友達同士で先月ジムに入会した大学生。その横にはシャドーボクシングをしている、ベテランの山中やまなかさんと木戸きどさん。あとはリングの周りでストレッチや腹筋をしている人が数名。とにかく蒸れている。湯気が見えそうなほど熱気のこもった室内。汗の匂いが充満するこの空間にはもう慣れたが、女性も通うような設備の整ったスポーツジムとは明らかに空気が違う。
リングの上では野中のなかコーチが、阿部あべ君のパンチをミットで受けながら指導している。
「脇締めろ。あご引けー。ほら体っ!正面向いてるぞぉー」
汗だくの阿部君が真剣な顔で、出されるミットに向かってグローブを当てにいく。
「足っ!ステップ止まってるぞぉー。ほい、ワンツー」
野中コーチののんびりとした、しかしよく通る声を受け、阿部君が左、右とストレートを打つ。阿部君の細くて白い腕が打つそれにはキレがなく、当たっても全く痛くなさそうだ。その時、カンカンカンカーン、とインターバル開始を知らせる音声が響いた。3分経ったのだ。
宮島みやじまっ!」
急にリング上から野中コーチに名前を呼ばれ、俺はビクッとする。 慌てて「はいっ」と答えると、
「お前今日、林とスパーリングさせてやるから、よーく準備運動しとけよ」
と、まるで抜き打ちテストでもするような雰囲気のことを言われた。
「えっ‥‥あっ、はい、わかりました」
俺と野中コーチのやり取りを聞いていた林君が、こちらをチラッと振り返った。が、すぐに何事もなかったかのように、手首を軽く回して、息を整えるためにその辺を歩き回る動作に戻った。
30秒の小休止後、再びサンドバッグに向き直った林君が、その黒く重い物体を打ちのめす姿を見て、俺が家に帰りたくなったのは言うまでもない。


シャワーから上がり、冷蔵庫を開けて缶チューハイを取り出す。ワンルームの小さなテーブルの上に缶を置き、ベッドを背もたれにどかっと腰を下ろす。
「はぁー」
自然とため息が漏れる。結局、林君とのスパーリングは、俺が逃げ回りながら防御に徹しているうちに終わった。一歩も前に踏み込めなかった。年齢は関係ないが、林君は確か19歳。俺より8つ年下だ。俺がボクシングジムに通い始めてからまだ七ヶ月とはいえ、ダサい大人だと思われているんだろうなぁと思うと凹む。
とはいえジムに行けた日は、大量に汗をかくせいか肌がつやつやして、まともに運動したという充足感がある。仕事帰りの平日2日と土日のどちらかで、週3日通うのが精一杯だが、習慣化できている自分を褒めてやりたい。
水滴をまとったグレープフルーツの缶チューハイのプルリングに指をかける。ぷしゅっと開けたそれを、ごくごくと喉を鳴らして飲む。
「はぁー」
今度漏らした息は、至福を意味するものだ。せっかく流した汗が、酒で帳消しになるとわかっていてもやめられない。


「ボクシング? なんで今更そんな暑苦しいことを…。メタボ対策か何か?」
先月、幼馴染のめぐみに、居酒屋で言われた言葉を思い出した。
「いや、運動不足だし。汗かくのもいいかなって」
俺は恵の顔色を伺うように、無難に答えた。
「ふーん。いいんじゃない。モテたくて体絞って強くなろうとか思ってるんなら、アホくさいと思うけど」
その言葉にグサッときた。男には少なからず強くなってモテたい願望があるものだろ。俺の内心を見透かしたように、恵が続けた。
「なーんかさ、筋肉鍛えて脳筋みたいなナルシストな男いるじゃん? 『俺が守ってやるよ』的な。アホなのって思うわ。漫画の世界じゃないんだからさ、強くなってどーすんのって。普通に生きてたら、そうそうチンピラにも悪質なナンパにも遭わないでしょ。何から守るんだよ。そんなことより金稼いでくる男の方が、よっぽど不景気の世の中から守ってくれるわ。でもまぁ今の世の中、ぶら下がろうとする女もどうかと思うけどねぇ。自分で稼いだ方が手っ取り早いし、誰にも媚びなくていいしさ」
一気に喋った恵は、手元のロックの焼酎をあおった。一人でボトルを頼み、結局ほとんど一本飲みきっていた。俺は一、二杯焼酎を分けてもらい、あとはジントニックを一杯ちびちびと飲んだだけだった。
恵とは三ヶ月に一度くらいの割合で飲みに行く。たいてい恵から「明日の夜暇? 暇だよね? いつもの店に7時集合ね」といった文面のLINEが届く。ジムに通いだしたことはなんとなく隠していたけれど、我慢できずにポロッと言ったらこのザマだ。言うんじゃなかった、と激しく後悔した。


別にボクシングを始めたのは、女の子にモテたいとか、筋肉を自慢したいとかいう動機ではない。…いや、ちょっとはそんな願望もあったけども。だって憧れるじゃんか、シックスパックと細マッチョな体型。もうアラサーだが、まだオジサンになるには早い。このまま家と会社の往復で日々を過ごしていたら、あっという間に数十年の月日が経過していきそうだと、焦燥感にかられた。
ある日の会社帰り、なんとなく思いつきで、いつも降りる自宅最寄り駅の一駅手前で電車を降りて歩いた。夜風が頬に気持ちよくて、満月に近い月がくっきりと明るかった夜。コンビニとドラッグストア以外の小店はほとんどシャッターが降りている中、煌々こうこうと明るい大きめのウィンドーが目に入った。通りの向こう側だったけれど、目を凝らして見たらそれがボクシングジムであることはすぐにわかった。ブルーのマットと赤いリングのコーナーが鮮やかで、鏡がそれを倍増していて眩しかった。指導者らしき人がリングの上で向き合った男に何やら説明していて、若い男たちがそれぞれに別のトレーニングをしていた。その雰囲気は活気があって、中学の時のサッカー部を思い出させた。部活に行く前は気怠く感じても、身体を動かしボールを追っているうちに夢中になっていた。そして部活帰りは、なんだか心も体も軽くなって、友達と一緒にくだらないことをしゃべり合っては、げらげら笑いながら帰路についた。
汗だくで息をきらして砂や泥にまみれて。制限されて不自由なこともたくさんあったはずなのに、あの頃はもっと風呂が気持ちよくて、ご飯がおいしくて、夜は気を失うようにぐっすり眠れた。
そこだけぽっかりと異次元のように明るいボクシングジムの四角い光を見ながら、俺はすでに「ジムの入会金と月謝って、いくらぐらいするんだろう」と考えていた。



「打て打て、打ち続けろ!まだいける、自分の限界ライン超えろ!勢い止めるなよぉー。そうだ、いいぞぉー。腰入れて!ほいっ、ラストスパートーッ」
野中コーチの声に引っ張られ、ミットに渾身の力を振り絞って連打する。時々ボディーやフックを入れながらも、とにかく前へ前へとパンチを繰り出す。苦しい。息が切れる。腕が重い。だるい。息苦しい。きつい。
ボクシングを始めて感じたことは、パンチの威力ももちろん大事だが、スタミナがものすごく重要だということだ。3分がこんなにも長いと感じたことはなかった。
もう無理だ、限界だ、と思ったところで時間を知らせる音がようやく鳴る。
「お疲れさんっ。大分パンチ重たくなったなぁ。センス悪くないよ」
はぁ、はぁ、と肩で荒い呼吸をする俺に、そう言いながら野中コーチがミットで軽く背中を叩いてくれた。
俺は絶え絶えの声で野中コーチにお礼を言い、じわじわとせり上がってくるような喜びを噛み締めた。



「あっ、宮島さん、お疲れ様です」
後輩の新井里奈あらいりなに声をかけられる。
「お疲れ様。お先に失礼ます」
軽く手をあげて挨拶に応じ、オフィスを出る。
新井里奈は中途採用で、去年の秋頃に入社してきた。ボブヘアの似合う今時の可愛い子で、愛想も良く、男性社員の間で密かに人気となった。かくいう俺も、彼女狙いの一人だった。休憩時間に偶然を装って自販機のカフェオレを奢り「仕事慣れた?」なんて声をかけたり、彼女がパソコンを睨んだまま手を動かせずにいれば「どうしたの? わからないとこあったら教えるよ?」と積極的に(あくまで俺の中でだけど)関わるようにした。
「ありがとうございます、優しいですよね、宮島さん」
そう言ってにこっと笑顔を見せる新井里奈に、ますますドハマリしたのは自然の摂理としか言えない。しかし彼女が入社して二ヶ月も経たないうちに、他部署の男性社員とどうやら付き合い出したらしいという噂が流れた。噂を耳にしたその日一日、俺は抜け殻のようになり仕事でポカミスを連発した。そしてそれから数日しないうちに、オフィスの廊下の突き当りで、新井里奈が長身のイケメン風男と親しげに話しているのを目撃した。新井里奈は男の腕に触れ、近い距離で笑顔を振りまいていた。
ショックはあったが、なんとも言えない虚しさが勝った。失恋話ともいえない、不完全燃焼でまぬけな一件に思える。ただ、久しぶりにときめきという忘れかけていた感情を、思い出せたのは確かだった。彼女いない歴は、もうすぐ六年に差し掛かろうとしていた。
「はぁー」
いかん、いかん。ため息を漏らしてばかりでは幸せが逃げる。俺は慌てて大きく息を吸い込んだ。



エレベーターに乗ってビルを出たところで、スーツのポケットの中でスマホが振動していることに気づく。画面を見ると「恵」。指をスライドさせて電話に出る。
「もしもし?仕事終わった?」
「ちょうど今、会社出たとこ」
恵の声の背後がガヤガヤと賑々しい。
「あのさぁ、いつもの店で飲んでるんだけど、今から飲みに来れる? 来れるよね?」
いや、だからなんでコイツはこういつも威圧的なんだ。
「いや、今日はちょっと…ジム寄って帰ろうと思ってて」
俺は仕事用のリュックとは別に、肩にかけたトートバッグをちらっと見た。グローブやシューズ、タオルと結構荷物がかさばる。わざわざ用意して持ち運びしてきた労力を思うと、行かなければ損な気さえしてしまう。
「えー、別にそれ、好きなときに通えばいいんでしょ? 今日はさぼりなよ!ねっ!」
いや、俺は今、飲むより思い切り汗をかきたい気分なんだよ。断ろうとして口を開きかけた時、
「実はさ、今、会社の後輩の女の子と飲んでて。誰か男紹介してほしいって言うから、あんたのこと話したんだよ。まぁ、ヘタレだしあんまりオススメできないけど、人としては悪い奴じゃないし、会ってみる?ってなって。どう?来たくなったでしょ?」
ぐっ‥‥きっぱり断ろうとしていた言葉が、喉の奥に引っ込む。紹介。後輩の女の子。つーか“ヘタレであんまりオススメできない”は余計だろ。
「その子、広瀬すず似で、性格も気の利くいい子なんだけどなぁ」
恵が俺の心情を知ってか、もう一押しとばかりに言った。
「来るの?来ないの?」
「行きます、行かせていただきます!」



通話を切ると俺の身体はふっと軽くなり、足取りも軽やかに速歩きで駅へと向かっていた。トートバッグからグローブがちらりと見えたが「仕方ねぇなぁ」と、俺のとる行動を見逃してくれているような気がした。
別に広瀬すず似のその女の子と、縁があってもなくてもいい。今、色んなことが吹っ飛んで、ちょっとわくっとしている自分がいる。それがなんだか嬉しかった。


〈了〉



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?