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親としての威厳ってなに?敬うとは?

最近ふと思っていた。
世の中が変化し続ける中で、昨今は上の者を敬うと言う教え、教育がされていないと言うこと。
そもそも上の者ってなに?と言う疑問も出てくるが、子育ての中でも上の人に従いなさい、なんて言ってこなかった。
子どもが学生の頃は、上の者と言えば分かりやすく学校の先生だ。
先生に失礼のないような振る舞いをすると言うことは、親が言わなくとも自然と息子達が感じてきたところもあっただろうが、特に昭和の時代と比べると、親子関係もそうだが、教師、先生も子ども達と随分フレンドリーになった。そこには良い面もあるけれど、そればかりではないような気がする。

大人から子どもへ価値観を教え込むとか、倫理を教え込むとか、管理教育、直接保育のように、教えを子どもに叩き込む、ような形ではない時代。
子ども自身が主体的に何かを考え、思いを表現し、大人はそれを尊重する。
保育で言えば直接保育から間接保育へ。保育士も意見して良いが、そこには両者の信頼関係という関係性の構築が基礎にないといけない。
子ども主体、の行き着く先は・・・というようなことを私は自分の子育てを終えて、大人になった息子達を通して、ふとこれで良かったのか?と感じている自分がいる。

息子達は立派に大人になったけれど、とは言え長い人生からするとまだまだ駆け出しの段階。私も親として、子育てを終了してまだ数年。
だからこそ生まれてきた疑問なのかもしれないけれど、昭和の時代にあったような親の威厳とは程遠いところで、私は母親として存在している。
それは息子達にとってもそうだが、長男や次男のパートナーにとってもそうなのだろうな、と。私自身が威厳を持ちたいとは思わないし、そのように振る舞うことはないのだけれど、何だか少しもやっとしているのだ。

大人が子どもとややもすれば対等に生きるようになった背景には何があるのだろう?大人自身も生きづらい世の中で、大人自身も未熟で、威厳も保てなくなったのか?そればかりではない、子どもの権利子どもの最善の利益を唱えられる時代に於いてそうなって来たのか。そしてそれは果たして、親や大人の威厳のあった時代に比べて、成熟したものだと果たして言えるのか?

私の中でも矛盾した気持ちが同居している。威厳を持ちたいとは思っていない。けれど、子育てに人生を費やした期間を経て、ポツンとひとり、私のこれからの存在意義とは?という思いに直面し、さてこれからどう生きて行くのかという地点に立たせれている。それから2年が経過した。
試行錯誤の2年だった。心身共に私自身が自立するまで2年かかった。

私の人生は、私を必要としている他者のためにある、と今でも思っている。
自分主体ってどうやって?と思っている自分もまだ混在している。
頭では分かっていても、身に付いていないものをどうやってひとりで身につけて行くのか、そのスタート地点にようやく立てたばかり。小さな光が見えた気がしている、まだそんなところにいる。

これは、私の現時点での考えの途中をまとめているもので、そこに答えはないし、きっと人生の全てを終える時まで、答えなんてないだろう。

上の者を敬う気持ち・・・それが今の若者に育っていないのではないか?
そして、それは何故なのか?という疑問を持ったところから、こんな気持ちを綴ってみました。


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みほ
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