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『常識』という言葉に感じる違和感と気持ち悪さ──マナーは守れ、常識は疑え

政治学を専攻していた身として、『常識』という言葉にはずっと苦言を呈したいと思っていました。

普通の人は普通に使っているのかもしれませんが、私に言わせれば『常識』って概念ほど信用ならないものはないです。本当に。



日本では常識が、とにかく重んじられます。

たぶん宗教観の薄い日本では、不特定多数の集団を同じ方向に向かせるのに必要な概念なんだと思います。
「他人を思いやる気持ちをもつこと」「相手に不快感を与えないよう、配慮した行動をとること」「言動や話題に気をつけること」「とにかく輪を乱すな」───

そして、日本人は議論が嫌いになりました。

議論をするとどうしても、「相手の意見に自分は賛同しない」と伝えなければならなくなりますよね。それを『喧嘩』と区別することができなくなっている人が多いんだろう、と私は分析しています。

思えば私が小学校で経験したディベートの時間は、議題は完全に個人の好みによるもの、
『議論』というよりは『話術』に長けた人が票をとっていくシステムでした。

別に宗教観の薄いことそのものはどうということもないと思います。私だってキリスト教の価値観が好きかと言われると微妙だし、どちらかというと八百万の神がお互いに尊重しあって島に併存している日本の方が好きです。

でもさ。
職場で政治と宗教の話はするな、とか。
それはちょっと違うと思う。

その人が大事にしている価値観を打ち明け、間違っていると思った時は修正しようと試み、共有しようとすることのどこが悪いのか。

議論を封じ、その場限りの雰囲気を壊さないことに注力して、その人の大事にしている価値観を共有せずにうわべだけの関係を保とうとするのは、私は逆効果だと思うんですよね。



常識は、時代や場所によって、本当に全然違います。

認識を広い範囲で揃えられた『常識』は、だいたい『法律』になっている、というのが、大学で政治学を専攻していた私の感想です。

もちろん、局所的な範囲でのみ通じる常識もあります。フレンチレストランではジーンズは履かないとか、職場では大声を出さないとか。

でも、それってどっちかというと、『マナー』の範疇じゃないですか?



私自身は非常に協調性を重んじるタイプです。
私が大事にしている人には、できるだけ快適に過ごしてほしい。私のせいで不快な思いはさせたくない。

でも、『常識』という言葉で私の行動を制限されるのは、非常に嫌いです。笑

マナーは守れ、常識は疑え。
この精神で、これからも生きていきたい。


『書く習慣』内で紹介されている、1ヶ月書くチャレンジに挑戦しています。
今日はDay19 ♯自分があまり賛成できない常識 について書きました。

書く習慣

Day16まではInstagramのハイライトから見れるので、お時間あるときに読んでもらえると、とても嬉しいです。

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