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「日本人」として音楽をすることーキュルテンでのシュトックハウゼン講習会を通して

ダルムシュタット夏季現代音楽講習会について書いた前回の記事に、思いがけず多くの反応をいただいて嬉しいです。ありがとうございます。

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今回も、現代音楽好きなら知っている、キュルテンで行われるシュトックハウゼン講習会について記していく。私が参加したのは2017年だが、それ以前の講習会参加レポートとしては、松平敬先生のブログが素晴らしいので、ぜひご覧いただきたい。

※なお、この記事の情報は2017年当時のものです。受講を考えていらっしゃる方は、今一度ご自身で最新の情報をご確認くださるようお願いいたします。

1.おさらい〜シュトックハウゼンとは

シュトックハウゼン(1928年8月22日-2007年12月5日)とは、ドイツの作曲家。『ヘルコプター・カルテット』で彼の名前を(言わば奇抜なものとして)聞いた方は多いだろうが、本質的な意味で、新しい音楽の地平を切り拓いた人物だと私は思っている。代表作に『少年の歌』『祈り』『グルッペン』『コンタクテ』『マントラ』『シュティムング』そしてオペラ『光』などなど(シュトックハウゼンファンのお仲間には、あれが入っていないこれも入っていないとお叱りを受けそうだが…)。
シュトックハウゼンのすごいところは、電子音楽作品を聴こうが、器楽作品を聴こうが、声楽作品を聴こうが、「あ、彼の音だな」と分かることである。これこそが「個性」であり「署名性」なのだ。

2. キュルテンって、どこ?

シュトックハウゼンが暮らしていた、ケルン近郊の村。
2年に1回(奇数年)、夏行われるシュトックハウゼン講習会には、世界中からシュトックハウゼンを愛するひとたちが集まる。期間中は、シュトックハウゼンから直接教えを受けた演奏家たちから、シュトックハウゼンのレパートリーを学ぶことができる他、毎夜シュトックハウゼン作品のコンサートがあり、文字通り、シュトックハウゼンに染まることが叶う日々だ。

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(会場の一画)

3. 演奏クラスを受講するには?

受講に際して審査などはない。申込の際、自分が講習会中に持っていきたい作品を申請するが、後々変わっても問題ない(大きい曲、セッティングが大変な曲は早めに相談)。ピアノや各楽器のクラスがある他、作曲家・音楽学あるいは聴講生として参加することもできる。

4. ピアノクラスの様子

ピアノクラスのコーチは、Benjamin Kobler。ドイツの現代音楽演奏集団Ensemble Musikfabrikのピアニスト。2017年は更に特別講師として、Ellen Corver(シュトックハウゼンピアノ曲公式CDの演奏者)が招かれた。毎日午後Benjaminのグループレッスンが行われるが、この年は受講生が19人(この中にはコンタクテなどアンサンブル作品での受講生も含まれるが、彼らは別のクラスでレッスンを受ける。ピアノパートをKobler先生に見ていただくことも可能)と多く、期間中3-4回自分に回ってくる、という感じだった。様々なピアノ曲や『自然の持続時間』などのレッスンを聴くのは、勉強になる。というのも、特にピアノ曲においては、最初どれも同じように聴こえてしまう(…失敬!)面が否定できないが、楽譜と照らし合わせながら注意深く学ぶことで、それぞれの曲に唯一無二の特徴がある、と分かってくるからだ。
また、Ellenが滞在している間には、午前中マントラ(2台ピアノと電子音響のための1時間を超える大作)のレッスンが行われていた。受講者はアメリカから、Andrew  Zhou(2015年ミュンヘンにて、ピエール=ロラン・エマール、タマラ・ステファノヴィチ両氏のもとで行われたシュトックハウゼン・ピアノアカデミーにて知り合った)とRyan MacEvoy McCullough(後に私たちがマントラを演奏するときに、たくさん助けてくれた)のチームだ。彼らのマントラからの抜粋、最高にかっこいいから、ぜひ聴いてみてほしい。

私がちょうど日本でマントラを学んでいた時期であったから、毎日通いつめ、音響の問題をどのように解決するか、打楽器の扱い方、何も聞き逃すまいと聴講していた。

シュトックハウゼンには、「暗黙のルール」なるものがいくつかある。彼の基本テンポは♪=80、ritした先のテンポはrit前の半分…そのようなルールを、実際にシュトックハウゼンと協働した演奏家たちから聞くと、なんだか秘密を伝授していただいているようで、ちょっとわくわくしたものだ。

本来であれば、ピアノ曲Xを持っていきたかった。ただ、数カ月に及ぶ音読みが終わったばかりだったので、2016年の競楽(現代音楽演奏コンクール)で演奏したピアノ曲IとXIVを持っていった。興味深かったのは、ピアノ曲Iのリズムに対するEllenのアプローチだ。この作品は、連符の中の連符が多発する。例えば最初の1小節は、5/4で書いてあるが、全体をまず11拍に分けて、その内後ろ5つをさらに7つに分ける、云々。じゃあどうやって弾くかというと、先ほども述べた♪=80でもって全ての音符の速さを計算する。つまり、音符数個毎にテンポが変わる作品、として弾いていた。ところがEllenは、もちろんそのプロセスは必要だけれども、最終的には大元の拍子、つまり基本のパルスを♪=80に保ったまま演奏しなさいと。今まで慣れ親しんできたカウントを変えるのだから、そりゃあ大変な労力である。しかし、そうすること、あるいは少なくともそうしようと「試みる」ことによって、全く違う景色が見えてきたのだ。今までバラバラだったパーツが、太い一本の線で繋がったような。このピアノ曲Iを、受講生コンサートで弾かせていただいたことは、とてもよい経験となった。

5. その他、講習会の様子

ピアノクラスの他にも、様々なクラスがある。特筆すべきは、毎朝行われる『祈り』のジェスチャー兼ヨガ教室と、お昼頃行われる倍音唱法のクラスだろう。どちらも何かと被り受講は叶わなかったが、倍音唱法クラスのすぐ隣でピアノ曲Xを練習していたら「ちょっと静かにしてて」と先生に言われてしまったり(笑)、滞在先で急に凄い音がして何ごとかと思ったら、ルームメイトが倍音唱法の練習をしていた、なんてこともあった。

この記事を執筆するにあたり、あらためて当時のスケジュールを見返していたのだが、毎朝その日のコンサートのドレスリハーサルが行われたり、様々な講義が行われたりしていて、こりゃあ豪華だなぁ、と感激した。次回があれば、そちらをメインにして参加したいほどだ。

練習室棟は、コンサートなどを行う敷地内にある(ピアノクラスは徒歩5分ほど離れた違う建物)。グランドが3部屋ほど、アップライトもいくつか。1回2時間制。

最後に、今回も併設ショップの充実さを推していきたい。シユトックハウゼン漬けのショップ、何時間いても飽きないのではというほどだった。スコアにCDに、山積みになっている。更に受講者は割引価格で手に入れられる楽譜があった、ような気がする(対象外のものもあるので注意)。私はそれを利用して、ピアノ曲XIIを買った。

6. コンサートの様子

さて、先に受講生コンサートの語も出たことだし、期間中の演奏会についてお話していく。
私の参加した2017年は、以下のようなラインアップ。

7/29 コンタクテ、RECHTER AUGENBRAUENTANZ(『光』土曜日より)
7/30 マントラ
7/31 MONTAGS-GRUSS、OBERLIPPENTANZ、LUZIFERs ZORN(『光』月曜日より)、MÄDCHENPROZESSION(『光』月曜日より)
8/1 受講生コンサート1
8/2 UVERSA( 『KLANG』16時間目)、自然の持続時間24番( 『KLANG』3時間目より)、HARMONIEN( 『KLANG』5時間目)、コスミック・パルス( 『KLANG』13時間目)
8/3 ROSA MYSTICA(『光』日曜日より)、KINNTANZ、受講生コンサート2
8/4 KOMET、JERUSEM( 『KLANG』18時間目)、CARRÉ(テープ版)
8/5 UD、受講生コンサート3
8/6 祈り(テープ版)

毎コンサート、シュトックハウゼンの音の波に溺れそうになりながら、訳も分からずインプットしていたのを思い出す。特に印象的だったのは、7/31のOBERLIPPENTANZ。ピッコロトランペットのための超絶技巧作品だが、奏者のMarco Blaauwさんがもう素晴らしくて、ちょうど同じ時期にトランペットを含んだ作品を構想していた私にとっては、あぁ、この曲を聴いてから書けばよかったな、なんて反省したのである。高音がカーッと当たるところなど、もう惚れ惚れとしてしまった。

8/2のコスミック・パルスも印象的だった。エレクトロのみの作品は、当時の私にとってはキツかった。それでもこの作品は、自分が音の渦にぐるぐると締め付けられていくような、斬新な身体感覚を私に引き起こさせた。好きではなかったけれど、聴取体験としては衝撃だった。今年のサントリーサマーフェスティバルで演奏予定とのこと、ぜひ実現してほしい。厳しいかな…

期間中受講生コンサートが3回あるのだが、このキュルテン講習会、受講生のレベルが「受講生」と呼ぶのをはばかられるほどに高いのだ。第一回目の受講生コンサートからもう、衝撃的だった。特にバセットホルンとアルトフルートの彼ら、パフォーマンスとして魅了されてしまった。

実はその前日、第三回目に出演させていただけると知ったのだが、いやぁ、まだ21歳で大学生の私が(昔の自分には、このことを言い訳にしてはいけないと喝を入れたい気分だ)、同じ舞台でこのレベルのパフォーマンスができるのだろうかと思った。それから自分の弾く日が来るまで、ずっと上の空で緊張していた。第二回目も、テディベア(の中身はJames Aylwardさん)による『友情に』

そして、玉田仁志さんの『ティアクライス』も素晴らしかった。

いよいよ当日が来てしまった。本番のピアノはファツィオリ、ペダルが4本ある。これが死活問題で、(一般的に言うところの)真ん中ペダルを多用する曲であったから、足の感覚調整に苦しんだ。なんとなーく緊張しながら向かえた本番、何とも居心地の悪い数分間であった。ここまで爆発できなかった本番も久しぶりで、あたたかい拍手に必死に笑顔を作りながら舞台上から見た景色は、今でも私の活力となっている。私の次に弾いた、Patricia Dias MartinsさんとCarlos Puga Garciaさんの『コンタクテ』、ホール外から漏れ聴こえる音を追うしかできなかったが、それでも彼らに対する熱狂的な拍手や歓声を、悔しい気持ちで耳にした。彼らはその年の受講生賞を受賞する。

この第三回目の受講生コンサート、他にもElisa ProsperiさんとAmadea Lässigさんの『ティアクライス』も、幻想的で美しかった。先述した、第二日目の玉田さんバージョンと比較してみるのも、面白いかもしれない。

しかし、この日何が私を萎縮させたのか。周りの受講生が素晴らしくて、必要以上に自分の力を過小評価したことはもちろんあろう。しかし第一には、自分が納得できるほどの準備をしていなかったことである。今回の場合、既に数回本番に持っていった曲であることも、気の緩む原因となったに違いない。それ以後、常に先々を見越しながら、慢心せず、できる限りの準備をするよう心がけるようになった。音楽家の心構えとして最も大事なことの一つを教えてくれた、私のキュルテンの舞台はこちら。


7. 「日本人」として音楽をすること

私がキュルテンの地で考えた、もう一つのこと。それは「日本人の私が西洋音楽をする意味って、どこにあるんだろう」ということだった。もちろん、この問いは、シュトックハウゼンに限らず、主にクラシック音楽と呼ばれているものを学ぶ者は、一度は考えることであろう。だからこそ、私は現代音楽こそが突破口になるのではと信じて勉強してきたのだが、2017年の夏、壁にぶつかった訳だ。


シュトックハウゼンのとある曲を、あるドイツ人と私という日本人が、同じレベルで弾いたとする。その場合、私が弾く意味ってあるんだろうか。その疑問を持つこと自体は私のエゴなのかもしれないし、同時に逃げなのかもしれない。現代音楽なら自分の活路を見出だせるかも、と思って打ち込んできたけれど、彼らと同等に弾けるくらいじゃだめなのだな、と痛感した。

それ以来、自分が尽くせる限りの細やかな準備をするようにこころがけている。楽譜を「正確に」読むのは、案外容易くない作業だ。それに集中するにつれ、決して自分と「他者」の戦いではなくて、自分が如何にその音楽の本質に近付けるのか、という鍛錬なのだ、と気付いた。そこにはアジア人だろうがヨーロッパ人だろうが、違いなく大切なことが潜んでいる。

ただ。実際弾く前の話。私はどうしたって、「僕らの音楽を学びに東から来た人」という目線を感じるときがある。そのような空気感のもと最初に弾く一音一フレーズで、「あっ」とこちらに振り向かせなければならない。だから求められるのは、日本にいようが外国で学ぶ機会があろうが、どんな場所でも印象的な存在だとアピールできる実力があること、その力を発揮するための栄養を、どこにいようが、普段から地道につけておくこと、だと肝に銘じている。

音楽と国籍の関係に関しては、以前特に作曲家像について、このようなTweetをしたのを思い出した。

私たちが思う「ドイツっぽい音楽」「フランスっぽい音楽」というものは、私たちの通ってきた聴取体験に基づいているのは確かだ。私たちは、「大バッハはドイツの作曲家」「フランスといえばドビュッシーやラヴェル」と聞いて、それぞれがあるイメージを形成しながら育ってきた訳だ。
しかしこれだけグローバル化している現代社会において、作曲家のアイデンティティーを国籍から考えるのは様々な意見がありそうだ。もちろん作曲家がいた環境というのは、意識レベルにしろ無意識レベルにしろ、その人を構成している確固たる要素だから無視はできない。
「どこどこの国の音楽」というのは、その曲に対するある程度のイメージを喚起させる役割は持っているし、それがきっかけでパッと曲に入り込める助けになることもある。一方で、聴き手に迫るような本質的な音楽について、どこの国の作曲家が書いた音楽であるかは第一義的な問題では無い気もする。心から興奮するような音楽を体験したときは、もはや誰が書いたかさえも忘れてしまうほど、その作品の強度が高く、深いもののように思うため。ただ、どこの一瞬を切り取っても、「あ、これは誰それの音だ」と感じさせる何かも必要だとは思う。
「日本人であること」の強みの一つは、「他のどの国籍でもない、日本人であること」であるように思う。しかし結局は、どの国の作曲家であろうと、その曲を書いたきっかけが出身に関わるものであったとしても、「どんな音を置いたか」が最も重要な問題ではないだろうか。(2019年2月21日のTweetより)

いわゆる「日本の作曲家」と世界で言われるときに、その「日本の」という語は、イロモノ的なフィルターがかかっていないだろうか、といつも考える。これだけグローバルな時代(それはもはや過去のものになってしまうのだろうか…)においても、ヨーロッパが積み重ねてきた「伝統」としての音楽の蓄積は、結局揺るぎがたい構築物なのである。そこにどうやってアプローチするか、という試み自体が、既に「ヨーロッパ」「非ヨーロッパ」の構造を生み出してしまっているのかもしれない。

「日本人」を、意識するにしろ無意識の範囲内にしろ、背負っている私たちは、どのように西洋音楽を営んでいけばよいのだろうか。それは、一生向き合っていく問いなのかもしれない。

8. おわりに

どちらかというと悔しさが残る2017年のシュトックハウゼン講習会について、記してみた。シュトックハウゼンがお好きな方には、心からオススメできる音楽祭である。当時のルームメイトに、「シュトックハウゼンを愛する人って、いい人が多いよね」と言わしめるほど、雰囲気の良く、同時に熱狂的な場所。そしてもし参加される際には、当時私が行けなかったシュトックハウゼンのお墓にぜひお参りしていただきたい。最後に、この記事を読んで、シュトックハウゼンに興味がわいてきた方のために、松平敬先生の著書『シュトックハウゼンのすべて』をオススメしておく。

2020年6月13日

※お読みいただきありがとうござました。以上が全文となります。
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