ナチスの服を着るということ パート2
「ナチスの服を着ること」について話し合ってみた
ナチスの軍服を着た人に出会った話をnoteに書いてSNSでシェアした結果、いろんな方からリアクションをいただいた。
そして先日そのことにについて掘り下げて考える機会があった。
私のスタンスは「ナチスは絶対に許さない」だ。
それは未来にナチスを許容する隙を与えないためである。
世の中に絶対はないけど、ナチスに関してはあると思っていたし、それは必要だと思っていた。
でも対話の中では反対の考えにぶつかった。
ナチスの服を着ることに関しても「絶対」は存在しない。
自由の範囲内である。と
頭の中には「でも、でも、でも」の二文字。
絶対なんてないのはわかってるけど、でも。
自由なのだと言えばそうなんだろうけど、でも。
「絶対ということがこわい」という意見も出た。
否定のエネルギーで動くことや絶対と言うことで議論や対話の余地をなくしてしまう。と。
私は絶対と言うことで否定のエネルギーを出していたのか?
議論や対話の余地をなくしていたのだろうか?
無意識のうちに誰かを攻撃してしまっていたのだろうか?
対話をしようとしていたけど、絶対と言うことでもしかしたら自分の中に最初からあった答えを揺るがないものにしたかったのかもしれない。
他人から自分の意見に対する肯定をもらって「やっぱりそうだよね。」と自分の答えを正当化させようとしていた自分がいたかもしれない。
私のこの頑固な「絶対」ってどこからきてるんだろう。
使命感と絶対の心理
この対話会の案内人をしてくださった方が問いをたててくださった。
ナチスの軍服の問題は歴史認識の問題や表現の自由の問題というよりは
「人の行為をどこまで許すことができるのか。」という終着点につくのだと。
どこまでその人の自由を許容できるのか。
自由とはどこまでが自由なのか。
社会的な自由はどう規定されているのか。
次々と出される問いに自分の考えをのせていく。
自由ってなんて難しいのだろうか。
みんなが自由がいいし、私はそう思っている。
私はナチスの服を着ることを反対することでその服を着るという自由を制限しようとしていた。
その人のその自由を奪っていた。
ふと思った。
私はナチスの服を着ることになぜそれほど制限をかけたいのだろうか。
「自由だから」とほおっておけないらしい。
どうしてか。
それはきっと私の中にある使命感がそうさせているんだと思う。
「ユダヤ人の人が見たらなんて思うだろうか」
絶対という言葉を使う私の中には私の考える「当事者の思い」がぐるぐるしていた。
きっとこの強い使命感がナチスの服を着ることを許容させないのだと思う。
そしてこの使命感を抑えなくては自由の議論には至れない。
いい意味でも悪い意味でも謎の使命感は私に深く根付いている。
そしてその使命感は時折、私に、冷静な意見を受け入れなくさせる。
私にはまだまだこのテーマに関する対話の数と時間が必要みたいだ。
学費に使わせていただきます!