「Decolonizing the university」というテーマを扱う授業がありました。多くの面で衝撃を受けたとともに、今まで自分が漠然ともやもやしていたことを解く視点が詰まっていました。 センシティブな話題であり、私の個人的な経験がベースの意見・感想であることを留意した上で、以下、自分の意見・感想と「Decolonizing the university」の授業内容について、綴りたいと思います。
イントロ 近年「暗記だけの勉強は良くない」「受験英語」「受験でしか使わない科目ばかり」「ディスカッション増やすべき」といった多くの批判が沸く中で、日本の教育制度は変わりつつあります。 私は、いくつかの変わるべきとされる点には賛成するけれども、必ずしも変わるべきではないのではと思う点もあります。そして、その問題の本質は教育システムそのものではなくて、社会システムと向き合う考え方にあると考えています。
例えば、欧米の教育システムから学ぼうと言う姿勢。「彼らはグループディスカッションが上手い」「教育ランキングが高い」など。 しかし、「グループディスカッション」は必ずしも評価されるものなのでしょうか。「ランキング」は絶対的な指標なのでしょうか。 教育にとどまらず、このような「欧米がdominantする」グローバルスタンダードに対して、「ある種の植民地化である」といった批判的な主張が、「欧米で」議論されています。 Dominantしている側の欧米で、「脱植民地化」が向き合われてる。
欧米でさえグローバルスタンダードを見直す批判があるにもかかわらず、どうして日本は「欧米はすごい、海外すごい」「他国に遅れを取らないように」といった考えが蔓延しているのだろうか。 日本は1000年以上というどの国よりも長い歴史があり、既存の社会に深く根付く前提条件があるのだから、社会問題や社会システムに取り組む際に、他国の取り組みではなくて、日本の状態を軸にすべきなのではと思う。 同時に、欧米リードのグローバルスタンダードを基準・目標とするということは、ある意味、「植民地化」の擁護となると考えられなくもない 、と主張したい。
この私の意見をサポートしてくれるのが、「脱植民地化」という概念です。 私の勉強するルンド大学では、「Decolonising the University(大学の脱植民地化)」というテーマのセミナーがあり、グループで、実際にルンド大学を「植民地化」という概念から批判するワークを行いました。 各グループごとにテーマが異なり様々な発見があったとともに、センシティブなテーマなのにも関わらず、堂々と批判する学生とこのテーマを扱う授業自体に衝撃を受けました。
さて、前置きが長くなりましたが、この記事では、「身の回りの世界的な目標は、絶対的な指標なのだろうか」ということを問題提起したいです。
まず、自分の「受験科目に救われた」話、次に、「Decolonising the University」という概念について。最後に、「Decolonising the University」のグループワークで議論した内容をまとめようと思います。
受験科目に救われた話 受験のための勉強は意味ない、という意見を多く聞く。 欧米の大学の学問は専門的で、やりたいことをしっかりもっている人たちが多い、という声も聞く。
その中で、私は、あえて「受験科目」に救われた話をしたい。 私が人文地理学に進学したのは、元を辿れば、「地理」という学問を知っていたから。 高校時代にわざわざ地理を選択して受験をしたことが、大学4年の時に「地理が好きだった」と急に思いだし、友達が「人文地理学という学問があるらしい」と教えてくれ、その時に「自分のやりたいことは地理だ。今までの出来事が繋がってる!」と、地理への興味を確信させてくれた大きなきっかけになっている。
高校生の時に知ってる世界は、まだまだ社会に出たことのない今の私から見てもとても狭い。考える材料が少ないながらも進路を選択して前へ進まないといけない社会において、「大学受験」は、将来の進路を大きく左右する最初の門でありながらも、1番幅広い知識に触れることができる最後の門のように思える。
大学生になっても見える世界はまだまだ狭いし、選択進路の先で高校生の時より一歩進んだ専門性の高いことを学べば学ぶほど興味が変わったり、「これ違うかも」と思ったりする。
これはきっと社会人になっても辿るサイクルだと思う。 その時に、「昔これ面白いと思っていたな」とか「こういう分野耳にしたことあるな」といった幅広いアンテナは、前へ進みやすくする気がする。
私は、大学受験に「地理」がなければ、高校で「地理」の授業を選択できなければ、今どうしているかわからない。
よく日本では「欧米の人たちはやりたいことがある」「専門性を磨くべき」というけれど、欧米の人たちがいう「これやりたい」の熱量は、日本人が考える「これやりたい」の熱量と圧倒的に温度差がある気がする。スウェーデンの話に限りますが、学校の専攻の細分化には、ネガティブな面もある。(「人文地理学への道①」へ) ※私が言いたいことがまとまってて大共感の動画を見つけたので、こちら是非ご視聴ください!↓
ここで言いたいことは、社会システムの背景を考えようよ、ということ。 それぞれの場所の「社会構造」 を考えることが、社会問題・社会システムに取り組む上で重要であり基礎であるのではないだろうか。
Decolonising the University この私の意見に通ずるのが、「Decolonising the University(大学の脱植民地化)」という主張。
「Decolonising the University(大学の脱植民地化)」とは、
多くの国や地域が独立した今でも「支配者」と「被支配者」という権力構造が変わっておらず、植民地であることを経験したグローバルサウスの地域は、支配者からの影響を一方的に受け続ける傾向がある、という考え…歴史を振り返ったうえで、西洋の真似ではなく、自分たちで独自に築ける別の未来もある…
https://ideasforgood.jp/2023/09/08/decolonization/ Concepts of academic freedom or disciplinary integrity have allowed some scholars to distance themselves from any responsibility to engage with the decolonisation project… it[decolonising the university] is to situate the histories and knowledges that do not originate from the West in the context of imperialism, colonialism and power and to consider why these have been marginalised and decentred.
https://www.timeshighereducation.com/campus/decolonising-curriculum-how-do-i-get-started 脱植民地化の主張には、以下のような、現代の社会構造には歴史的なパワー関係が未だに反映されているという背景がある。
Although the formal end of colonial rule resulted in the formation of postcolonial nation-states (formally sovereign states whose structures and modalities were conditioned by their colonial histories), the forms of knowledge – about economy, democracy, development, education, culture, racial-ethnic difference and so on – through which the world is apprehended and explained and modelled for the future are deeply rooted in post- Enlightenment Euro-American claims to be able to pronounce universal truths and to theorise the world. Consequently, power relations in the colonial present permeate all forms of knowing about and understanding the world. Decolonial scholars argue that the modern episteme is always and intrinsically saturated with coloniality although it is insecure in its reach and depth (Rivera Cusicanqui et al. 2016). In this sense, decolonial enquiry is not merely a concern of Indigenous people or Black populations; it is theirs and more, a broad call to understand and analyse the ‘universal rich with all that is particular... the deepening and coexistence of all particulars’
Radcliffe, Sarah A. (2017). Decolonising Geographical Knowledges. Transactions of the Institute of British Geographers 42, no. 3: 329–33. https://doi.org/10.1111/tran.12195 . そして、そのパワー関係は、アカデミアの世界・社会問題への政策作りの世界に根強く残っている。
アカデミアの世界:そもそも知識とは?今の体系化された学問は欧米から生まれた。「学問は客観的であるべき」という学問の指針は、欧米的。 しかし、「客観的」とは?「客観的」なのか?「客観的視点」の存在の批判的に論じているのが、Social ConstrutionismやPost-Structurelism。(「HUGEのすゝめ② 」へ)
why non-Western scholars have been excluded from the curriculum, one of my professors reminded me, with strange confidence, that sociology as a discipline, was institutionalised in Europe. Drawing on his words I could almost believe that sociology is a Western invention and therefore in the other parts of the globe people do not think about society and how it works. Reflecting on Hamid Dabashi’s work, it is clear to me that the question here is not if non-European scholars can think, but rather if European intellectuals can de facto read and learn from non-European thoughts, without assimilating it backward to what they already know. If those Westernized universities are ready, we need to engage more closely with situating knowledge in a geopolitical context. In other words, it is a manner of deconstructing the myth of truthful universal knowledge towards its own particularism (Grosfoguel, 2007).
https://raffia-magazine.com/2021/06/03/can-we-still-talk-about-decolonizing-the-university/ 社会問題への政策作りの世界:power inequalityが顕著に表れているのが、環境問題政策。環境問題で大きな被害を受けている地域は植民地支配を受けたグローバルサウス。そして、その環境問題解決に先陣を切るのが、支配した側の欧米。世界規模の環境問題の研究チームも、欧米陣がdominantしている。
科学は「客観的な知識の探求」ではなく、歴史的・社会的な構造に支えられている。知識の生産にはその背景となる社会的コンテクストが大きく影響しているため、異なる視点や立場を取り入れることが重要。
立場が異なれば、投げかける質問や行う研究、築くパートナーシップも変わり、それぞれ異なる目的に応じた多様な知識が生み出される。 以下の引用文には書かれていないが、「非英語圏」のグループについても、欧米主導の世界で不利だという主張もある。
…a major barrier to access science is the persistent belief that science is an objective and neutral practice. Western science has claimed superiority from traditional or indigenous knowledge by distancing itself from its context and from the daily lives of people (Agrawal, 1995). Disarticulating the body from race, location and gender, reaffirms the positioning of white, masculine, and western as the normative and legitimate producer of science…. The paper attends not to the individuals that make the space less welcoming, but to the structures that support such behavior. To truly address barriers to participate in science we must shift our attention from individual actions toward structural and systemic barriers that have historically disadvantaged women and people of color from actively contributing to science and elucidated how climate knowledge has been produced , circulated, and legitimized in the IPCC and how gendered dynamics are shifting social relations in the space which in turn might be having an impact in the knowledge produced and circulated in the IPCC. Feminist objectivity underscored that the spaces that we inhabit influence what we know and what we can know as subjects of knowledge. Different positionings will lead us to ask different questions, conduct different research and build different partnerships, producing different types of knowledge that serve different purposes .
Gay-Antaki, Miriam. (2021). Stories from the IPCC: An essay on climate science in fourteen questions. Global Environmental Change, 71, 102384. Decolonising "Lund" Universityのグループワーク:🇯🇵🇸🇪🇩🇰🇳🇱 長くなったので別のページにしました。 「HUGEのすゝめ④ 」へ!