息するアート
GWが終わり、また仕事や学校の日々で疲れ切っているみなさま。
お疲れ様です。
生きる、生活するのって本当に大変。
私自身はGWがお台場のアルバイトの繁忙期で地獄を見ました。7時間休憩はもちろん、トイレにすら行けない、、、死ぬかと思った。
まさに、生きるのに精一杯で、自分の生活で手一杯。
アートを日常に。なーんてこれっぽっちも考えられず、寝て起きる。本も読めないし、Netflixを観ても頭に入らない。
そんな日々でした。
これを読んでる人の中にも、きっと私のいう
アートを日常に。
に疑問を抱く人もたくさんいると思う。GWの私のような生活をしている人は特に。
だから今回は、生活とアート。日常における人間にとってのアートってなんだろうって話をしたいなと思う。
私の家庭環境は、アートに関わる人がいるという他にも、糸くずが絡み合ってるみたいに複雑だったりする。
そのひとつとして、私の母は現在叔父にあたる人、私にとっての大叔父の介護に追われている。
仕事をしながらの介護。私も週末に帰って手伝ったりはしているが、母ほどの負担があるわけでもなく、本当に母には申し訳ない気持ちでいっぱい。
血は繋がっているわけだから、世間的に見たら縁が遠い人だけど、私にとっては大事な家族である。
でも母は、あなたは関係ないからとわざと突き放したりしてくれる。
その大叔父の介護。
母は苦渋の決断として、大叔父を介護施設に入れる選択を取り、大叔父の家の整理や引っ越しが済んで、ホームに無事入ったその10日後、大熱を出して意識不明になったところから、その負担が膨らんだ。
脳梗塞なのではないか、と意識が無くなったときに医師に言われ、私はアルバイトを抜けて実家に帰ったが、誤飲による発熱であった。
はじめは施設で点滴をして、意識が回復したものの、状態は平行線で、下がったはずの熱もまたぶり返し、入院することとなった。
入院先の病院は施設に近い田舎の病院で、沢山の老人が入院していた。
障がいを持った老人や家族が見舞いに来るわけでもない老人。寝たきりの老人。
そして、その病院で人が足りない中、あくせく働く看護師たちがいた。
現在、その病院の対応が悪く、(人が足りない病院はやはりその分、対応できないことも沢山ある。そして病状がよくなるわけではなかった。)
転院という結論に至った。
ここで私にある気持ちが芽生えた。
大叔父に会いに行くたびに会うひとたちを見て、
そして介護に追われている母を見て、
生活に、生きるのが精一杯の人にとってアートって必要なのだろうか。
という気持ち。
母は女優であり、アート、音楽やダンス、舞台映画が大好きな人だ。そしてそれを職業にしている人だ。でも彼女の口から聞いた言葉はこれだ。
生きるのに今は精一杯でアートどころじゃない。
そして。
あそこに入院してる人にアートって必要だと思う?
という言葉。
私は言葉を失った。息をする。だけで精一杯の人にとってアートってなんなのか。もはやアートという概念が存在するのか。
そんな言葉を口にする母にしてしまう、今の状況、その状況を作った病院、そんな医療体制にしてしまった地方自治、延いては国家。
ここを変えずして、今の私たちの状況は何ひとつ変わらない。
この国に生きる私は、私たちはアートを日常に。日常をアートにすることなんて出来るのか。
アートは結局娯楽で終わってしまう、今の社会は
この国の状態が良くない、生活苦というものや、生きることにしか重きを置かざる終えないこともひとつの原因だと私は思う。
だけど、例えばブラックミュージックのなかでは北アメリカで奴隷や生活苦に嘆く声が音楽になった。
そう、私がやろうとしてること。
それは生きることに密接したアートではなく、
幸せになるためのアートだ。
これは私の勉強、精進不足で現在、国の体制や社会に嘆くことでしか、生きることとアートを繋げられない。
息をすること生活をすることをアートにする。
これは今の私は出来ない。
でも、もし、その息をするのに必死な老人に
介護に追われた母に
人が足りなくて睡眠不足の看護師に
音楽を聴かせて癒したり、詩を語りかけたり、彼ら彼女らに近い状況の映像を見せることはできる。
それはもしかしたら、息をするリズムになり、固まった心の表面を溶かす温かさになり、忙しい時間を止める一瞬にすることができる。
だから、私はその時間を、一瞬を、彼ら彼女らに与える存在にならなければならないし、その時間だけで少しでも、生きる助けになるものを作らなければならない。
そして、その時間を作る、作ろうとするのは当事者の、社会に生きる人々自身だ。
先ほども、国家に嘆くだけの自分を猛省したところだが、この時間を作ることは国家や日本全体に手伝って貰わなければ、私のやろうとしてるアートに触れる時間は作れない。
だから私は自分自身が作るだけでなく、
この社会全体を変えることも同時にしなければならないことだ。
アートを日常に取り入れる。日常をアートにすることは、アート自身が変わるだけでは成り立たない。
社会や国家も同時に、アートに開いていかなければならい。
これにいち早く気づいた戦友が、国からアートに開いていくための努力を今公務員という形でやっていてくれているから
私は彼を信じて。
私自身もアートを信じて。
生きるのに精一杯な人々へ。
アートという癒しを、日常に。
娯楽という、別物ではなく、癒しという生きる時間を幸せにする日常に。
変えていかなければならない。
日常に追われている母が、女優という仕事を、仕事というものだけでなく、また今までのように楽しめるように、
私はクリエイティブウーマンとしてだけでなく、
娘として
助けていかなければならないなと思う。
日曜日は母の日。
何をしよう。