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鎖国日本

私はとにかくアジアの人からモテる。
まあこのチャーミングでキュートな私なら当然のことで、日本が私についてこれてないだけみたいな???



というのは冗談で。笑



私はとにかく、外国人労働者と仲が良い。どこの職場に行っても、1日あれば仲良くなり、挨拶代わりのナンパや自国原産スパイスのおすそ分けを頂いたりする。

ひとつのバイト先で4年間同い年から3つ上くらいまでのベトナム人の男女と働いている。辞めた人も含めれば、10人以上のベトナム人と触れ合ってきた。よく働く。
朝9時から16時までホテルの清掃や飲食店で働き、17時から1時、遅くて3時まで一緒に温泉施設で夜勤。これをほぼ毎日している。
そしてよく手を抜く。それだけ働けばそりゃ寝てしまうだろうと言いたくなるが、ここぞという外しちゃならないことはちゃんとやる。

もう一つのバイト先には、10歳くらい上のネパール人が3人。店長より店をよく知っていて先のことを考えながら働き、朝から晩まで彼らがいないと、店は回らない。だから、バイトの中で一番時給が高い。陽気で、よくつまみ食いをし、おっぱい揉ませろーと言ってくる。これは、ベトナム人も。



本当にあっぱれである。生き方一つ、働き方一つ、同じ人間なのに流れてる血だけで、こんなにも日本と違うのか。



私は彼らが大好きだし、彼らと同じ空間で自分には無い感覚に触れるのが楽しくて嬉しい。




だが、そうじゃ無い人も沢山いる。



ベトナム人と一緒に働く職場には、70代後半の白髪でおしゃれな元広告マンのおじいちゃんが働いている。ゴルフ代稼ぎにきてると言っているのだが、広告マンであった彼がなぜその年齢まで働いているのかは、知らない。


彼はとにかく、外国人が嫌いだ。今の時代には珍しいほどに差別をする。ベトナム人は奴隷だ!返却口でカスを捨ててろ!ベトナム語を話すな!国へ帰れ!という具合。日本人である私やほかの人には冗談を言ういいおじいちゃんなのに、外国人となると形相を変えこのようなことを言う。




最近事件が起きた。




仲の良い私より2つ上のベトナム人のヴァンちゃんという女の子がいる。その子が調理場で自分の賄いのりんごを切り出したとき。

大声で怒鳴ったのだ。先程のような言葉を使い、店のもの以外は持ってきてはいけないと。
ヴァンちゃんは日本に来たばかりで、私と話すときも日本語と英語両方を使って話すので、内容は分からないけど、とにかく物凄い勢いだけは感じていた。涙目で私に抱きついて来た。

たしかに言い分は分かる。店のもの以外を使ってもし何か起こったら。飲食店の経営に関わる問題になる。
年長者である彼に店長も私もみんな何も言えなかった。言ってることはあっているし、やってはならないことだ。


でも、これをしたのが、日本人だったら彼はそんな風に言わないだろう。
こんなに、差別を悪いものとした世の中で、何が彼にそうさせるのか。


私から見ると、彼はベトナム人に罵声を浴びせると同時に、怯えているようだった。




怯える。その対象は外国人。




彼にとっての外にあるものだ。そして彼が生きた時代には無い、新しくて想像もしなかった働き方、自分ではあり得ないサボり方をするのに仕事が自分より出来る能力。

外からやってきたものに対する怯え。

それをそんな言い方良くないと言えなかった。私たち。年功序列を重んじる日本で育った私の弱さみんなの弱さ。

私はこの事件の状況を俯瞰してみた時、今の社会を表しているように見えた。

外から入ってきたもの、新しいものに怯え嫌うマイノリティと、新しいものの良さを分かっているのに今ある世界を変えることが怖くて何も言えないマジョリティ、そして変えようとするもしくは新しいものであるマイノリティ。



鎖国を廃止した今の日本は、社会全体、もしくは国民性が未だに鎖国状態なのではないか。



マイノリティが生きるために、マイノリティじゃなくなるために戦わなければならないのは、マイノリティを嫌う人以上にいる、何も言えない又は今を変える勇気の無いマジョリティなのかもしれない。




この事件を体験して私はそう思った。




いつでも自分の行動や言葉はマイノリティにあると思っていた私は、根本の意味で鎖国精神のある日本人。

マジョリティであると気づいた。

日本のように、地続きで出入り出来ない国は珍しい。だからこそ、鎖国を止め、自由に出入りできる国になった今でも、様々な場面でこの鎖国精神が、悪い意味で生きていると思う。




この状況を変えなければならない。




マイノリティを受け入れることは、私たちが思っているよりずっと、ずっとずっと
大変なことなのだ。
だって、外を他を、新しい何かを取り入れるのにとても怯えてしまう国民性、それを作った環境、政治、そして教育なのだから。


マイノリティと呼ばれる人々。それはセクシュアルマイノリティ、ホームレス、フリーランスで働く人々など様々だが、みんな何かにおいてもしかしたらマイノリティなのかもしれない。

芸術や娯楽で生きたいと思うある意味でのマイノリティである私がそれが当たり前となるために世の中を変えるには、嫌う人以上に、そこに関心の無い変化を好まない素質を持った多くの人を変えるのが、課題なのだ。





だからまず、私は身の回りから変えなきゃ。
次、ベトナムのみんな、それを嫌う彼と一緒に働き同じ場面に至ることがあったなら声をあげたい。



そして、そうなる前に彼に話さなきゃならない。彼との関係が変わることに怯えてちゃだめだ。

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