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劣悪な笑いの残酷さ。(あるエンターテインメント上での問題発言と、それに関わる認識能力について)

岡村氏の弁明、主旨は「笑いをとる時ではなかった。」

彼の認識は、それでしかなかった。
それ以上の認識ができない。そして、事の本質が全く見えていない。

それは、他者をバカにするという類ではない。
他者、しかも大勢の人々の不幸と苦痛への予測によって、笑いをとろうとした、この事だ。
この悪辣な劣悪さだ。

ここで言いたいこととは、まずある特定の職業に対してではない。

先に上げた大勢の人々の不幸と苦痛、それは日本の著しい貧困化、または貧困国へ落ちることにより起こり得る。

そこに足されるのが、重要なファクトだ。
男性に対し、大多数の女性はセクシャルなことに非常に繊細で脆弱であり、ある線を越えれば著しい精神的苦痛を受ける。それは生涯に渡ることもある。それにより弱者側になる。

貧困者の急増と、それによる弱者として苦しむ女性の急増。

これらのどこに笑う要素があるのだろう。

しかし、氏は笑いがとれると踏んで発言した。
それは彼の、人を笑わせるレベルが低いためであるのか、それともそれによって笑う人が多数いるということなのか。


今後、不景気など笑い飛ばすほどの、世界的経済危機を迎える。
それがどの程度のものなのか識者等でも予測できていない。リーマンを超え、大恐慌さえ超えるのではとさえ想定されている。

では、日本はどのような国になるのか。
不明であるので、予想を多少書く。

コロナショック以前はまだ少数派だった貧困者が、多数派になる。
生活保護申請者が劇的に急増し、その制度は破綻するか、もしくは厳格過ぎる審査によって多くの人が対象外になる。
その結果どういった状態になるか。
例えば日常、例えば犯罪、例えば寝泊り、例えば過激派。

あえて、詳しくは書かない。
考える力、想像する力が欠如していると、自分がどういった過ちをおかしたかも認識できない。
何が悪かったのか分からない。それは、いじめの虐める側とさして変わらない認識能力だ。

追記:
笑うことに、映像作品の放送も配信も望まない。
実生活の中で、それが適度にあることを望む。それは多くの人にとって、そうであればいい。


著:登日れな