JPOPから、中嶋中春 ー 詩の中の放浪と定住


そういえば少し前に、YouTubeの音楽系動画のコメントで、「最近の売れてる曲の歌詞は、サビでフレーズを繰り返すのが多い」というのを見かけた。
ふむ、確かに、集めてみるとそうかもしれないと思う。

ギリギリダンス ギリギリダンス (踊れ)

「はいよろこんで」こっちのけんと

Bibbidi bobbidi boowa 
Bibbidi bobbidi boowa, yeah

「ビビデバ」星街すいせい

now singin'
Bling-Bang-Bang,
Bling-Bang-Bang,
Bling-Bang-Bang-Born…

「Bling-Bang-Bang-Born」Creepy Nuts

探せばもっとあるかもしれない(他にも「青のすみか」(キタニタツヤ)や、「ちゅ、多様性。」(ano)などなど)。また、この傾向は最近だけじゃないかもしれないが、今回はこのトピックについて考える。

冒頭に挙げたコメントは、私が見た時は少しネガティブなニュアンスを含んでいた。まず考えられるのが、一見手抜きに見えるということだろうか。しかし、上に挙げてきた曲はすべて、単なる反復ではない。

「はいよろこんで」では、「(踊れ)」などの合いの手が入る。「ビビデバ」でも、二回目のフレーズを加速して歌い、「yeah」という合いの手を入れる。「Bling-Bang-Bang-Born」は、緊張と発散(Bornの部分)のバランスがよく考えられている。その他にも、音程を変えて反復というのがある。

早速本題だが、詩も、単なる反復以上の技法を求められていると考える。たとえば記憶に新しく、強烈なのは中嶋中春さんの詩だ。

『White, White, White』が手元にない状態で恥ずかしいが、「愛の才能」(現代詩手帖2024,01)、「Diamond Life」(詩手帖2024,06)、「Good Enough」(詩手帖2024,11)などなど。
彼独自の反復、「見つめなおし」と呼べばいいだろうか。それが武器のように感じられる。

「Diamond Life」の一部分なんか、特にひどい(良い意味で)。部屋の壁が薄い、部屋が狭い、ということしか言っていない連があったりする。その事を長々と、言い回しを変えながら何回も繰り返していくのだ。日常という視点から書かれていく詩のはずなのに、時間が異様に止まり、歪む感覚が起きる。

そりゃあ、一つの瞬間を、永遠のように膨張させたり、変化させるのが詩歌の醍醐味だろう、という人もいるかもしれないが、少なくとも彼のベクトルは永遠の方には向いていない。ラジオを、巻き戻してまた再生している詩かのようだ。そして中嶋中春さんは、時に急加速もする。そのため、いつイメージが反復するかが分からない。一行一行騙されていく日記調。その緩急が本当におかしくて、私は好きだ。

最近読んだものでいえば他には、たとえば石原吉郎さんも初期作品は独特な反復、言い直しのようなものがあった。

オートマティズムで詩を練習したりしていた私にとって、一つの言葉、場所、モノに留まることは怖くなったりする。しかし、それが身体性というものだろう。どこに視線が執着していくのか、何を繰り返し口に出したくなるのか、それを提示する。詩の中で、放浪と定住を繰り返す。
私の中で今、ホットな感覚だ。

そういえば、昨日そんな詩をビーレビューに投稿してみた。
ぜひ、読んでいただけると嬉しい。
ではまた次回。


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