「変身」についての覚書 ー石原吉郎を読んでー
メリークリスマス。
この時期がまた来て、ふと、自分はいつになったらサンタクロースになれるのだろうか、という思いに耽る。
上の文を読んだ人が想像するのは、どっちのパターンだろう。本当に私がトナカイの群れの手綱を引いて、夜空を飛行する絵だろうか。もしくは、私が家族を持つようになる姿だろうか。
私は、両方の意味で言った。つまり、我が子だけを贔屓するのではなく、なるのだったらその責務を全うしようと世界を飛び回るという、第三のサンタである。
まあ無理な話であるが、唯一、親というサンタには変身できる可能性はある気がする。であるならば、一方で子供の特権は何だろうと、直近を思い出すとたとえば、ハロウィンがある。渋谷などで本当に地獄絵図を描き出せる若者はさておき、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞと家を回る(そんなことやる子供は実際にはいないのか?)子供らは「お化け」に成りきれる。私たちはしばしば日常で、「変身」できる、もしくはせざるを得ない状況に立ち会っている。
最近、現代詩文庫シリーズの石原吉郎を読んだ。私が好きな詩に、たとえば「葬式列車」や「閾」、「お化けが出るとき」などがあるが、上記の「変身」の問題に関わる部分があったりする。
少し、言っておきたいのは、2000年代に入り特撮モノやアニメが台頭して「変身」というワードにカッコよさが付いてしまった感がある。「見た目が変わる」という点にだけ、私たちの意識を向かされる気がするのだ。私はもう少し重く、「変身」というのは「身の上が変わる」という事態も勿論起きていると考えたい。
石原吉郎は、シベリア抑留を体験した詩人だからか、詩に暴力的な雰囲気が漂っていることが多い。そして、人間ではないものが当たり前のように現れ、その存在と混ざり合うように展開されてもいく。
これが戦後というものだったのだろう。人間が、いかに非人間な存在として扱われていたのかが、ひしひしと伝わってくる。
私たちの意思とは反して、望まない「変身」を余儀なくされる時代。そしてそれは特に可逆性の低いものである。石原吉郎はその惨さを、鋭く詩に写していた。
サンタやらお化けやらに、好きに変身できるうちは幸福なのかもしれない。が、現代でもこの「変身」の問題というのはそこかしこに潜んでいるだろう。人間は実は、変身しやすい、変身させられやすい生き物だ。私の作品も、そこに意識を向けている点が多くある。
まあ、ひとまず今は、メリークリスマス。
坂本龍一でも聴きながら