ニャム(験)と、ゴトク(知的理解)
チベット仏教を学んでいると称する日本人にもありがちな傾向なので、冒頭に引用させていただきました。
「質問することが当たり前」とでも言わんばかりで、チベットの老僧に次々とくだらない疑問をぶつけてくるのです、先輩弟子・聴衆を差し置いて。
深く考えもせず心に浮かんだ雑念を、ぶちまけている印象です。
脳の認識プロセスに問題があるのかと、いつも勘ぐってしまいます。
こういう輩は、日本以外では見たことありません。
だから日本にいることの「甘え」を、感じてしまうのです。
さらに「自分は修行・勉強してますよ」アピールまで付帯するので、手に負えません。
チベット人の先生はあまり破門したりはしませんが、その人にとっての修行とは何なのかを我々まで考えざるを得ない状況になります。きっと我々にとっての修行にも、なるんでしょう。
こうなってしまう一因として、無明の力というよりは、「理屈で考えて納得しよう」という重大な錯誤があるのです。
知的に理解することは、修行で内なる自分を発見することでは決してありません。
行は何万回か実践してなんらかの験(体験)が生じないうちは何も語れないと、私個人は考えます。
行の所作や観想ひとつひとつには意味があって、ムダがありません。それは日本も同様だと思います。
真言念誦の息継ぎする箇所までちゃんと定められていることもあります。
それは人間が定めたものではなく、ダキニの浄土でダキニ達がそう行じられてるから、同じようにやりなさい、というのが理由の場合もあります。
要するに、私たちの謬見で価値判断できない類いのものなのです。
「験が出るまでやり続ける」という行法も、実際にあります。
「成就したらこういう験が生じる」と明記している行法もあります。
しかもその験は、師匠以外には口外しないです。一般に広めると執着になりかねませんし、じつは間違った顕れということも多いからです。
験はチベット語で「ニャム」(nyams)と言います。
「ニャム」の対義語である知的理解のほうは、「ゴトク」(go rtogs)と言います。
知的理解「ゴトク」は、少し軽蔑的な意味で使われることが多いですね。
10月最初の投稿が愚痴となってしまい、失礼しました。
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