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人は教えを、秘匿しない
日本の伝統で、行法の次第書の一部をワザと誤字にするとか、違う内容にするという事実を知ったときは、軽いショックを受けました。
「法を盗まれないため」とのことですが、我々からすれば信じられないことではあります。
経典だけ手元にあっても、師からの伝授がなければ行は正しく機能しないことも、チベット人はよく知っています。
しかし日本には、日本の事情があるのでしょう。それを否定するつもりはありません。
とりわけ密教という道では、人間は教えの秘匿には、直接関わりません。秘匿に関わるのはすべて、ダキニの役目です。人間はダキニから許可をもらい、はじめて教えを与えられるのです。
チベット密教においてダキニがいかに大切かの理由が、ここにあります。
人間サイドの理屈で「秘密にしなきゃいけない」教えだから密教なのではなく、もともとダキニによって秘匿されている教えだから密教なのです。
ここは、とても大切なポイントです。
極論を言えば、教えにふさわしい行者かどうかは、人ではなくダキニが決めるのです。「選ばれる」といってもいいかと思います。
そして実際、ダキニに好まれる人がいるのも、事実です。
ここらへんがわからないと、私たちは道を誤ってしまいます。密教の教えは人間の理屈や意識のレベルを超えたところにあるという前提でいないといけません。
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