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加持と、安心感

お寺の周囲にお住まいの、チベット人のお年寄り。いつも数珠を手に持っていたり、あるいはマニ車を持って、真言を念誦し続けています。カメラを向けると、笑顔で返してくれます。

「日本から来た」と言っても、それがどこにある国なのかを理解してもらうのはとても難しい・・・いやぁ修行の邪魔をしてしまって、申し訳ない!

ここのお年寄りたちは、自分にとっての原点であり、尊敬の対象であり、理想なのです。

いっぽう日本では、還暦過ぎても真っ黒に日焼けして、ランニングを日課にしているお年寄りに出会うことがあります。100kmを超えるウルトラマラソンやトレイルにも挑戦して、チャレンジ精神旺盛な、元気な老人。私は彼ら・彼女らのことも同時に尊敬しています。日本でこうした方々をお見受けすると、その姿に憧れる自分もいます。

体を動かすことは、いいことです。ただ「心もそれに伴って鍛えられる」と考えるのは、少し飛躍しすぎかもしれません。さらには、絶対的に足りないものがあります。

チベット人のお年寄りに話を戻すと、皆さんは、いつ往生してもいいように毎日、阿弥陀仏や観音のご真言を唱えつづけて、この世に生きているうちから心に浄土を形成していきます。常にご本尊と共にありつづけようとし、しかも積んだ福徳を他者に還元(=廻向)し続ける「心の広さ」があります。行者さん(在家のお年寄りも含む)と話をするといつも感じる、外向きのベクトルをもつ「心の開放性」。そこには無限の慈悲が内包されていて、たえず外に向かって放出されるのです。

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私にとっての仏教徒の定義は、まさにそれなのです。
うまい表現が見つからないのですが、その外向きの「心の開放性」を求め続けることが、仏教徒である証ではないかと。

これは頭で考えてそうなるわけではなく、また一朝一夕で身につくわけでもなく、環境が大きく関係しているのは確かでしょう。とはいえ日本にだって、そういう方を探せば、きっといらっしゃるでしょう。

チベット人のお年寄りたちは仏教の先生(高僧、活仏)を信仰し、ご本尊を信仰し、三宝を信仰しています。「心の開放性」をもった信仰心の強さを、我々日本人はすっかり忘れています。きっとそれは(神道や仏教が長年共存していた国なのに)教育現場で信仰を教えてはいけないという日本の戦後教育にも原因があるのでしょう。でもそれとは別に、両者の決定的な違いは「教えの全体性」に心を預けているか否か、要は「安心感」の所在の有無のような気がするのです。

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仏教の教えの系譜は「法脈」といったり、「血脈」といったりします。

チベット仏教の各宗派に伝承されている教えの系譜は、根源をたどれば釈尊へと帰結します。それでこそ仏教の正統性が保持されるわけです。日本仏教においても同様でしょう。

よって、正しく法を継承しておられる師匠は、弟子からするとグル・リンポチェとして顕われることもあるし、ターラー女神や文殊菩薩として顕われることもあるのです。そこにきちんと諸仏・諸菩薩の加持(かじ)が働いていて、その加持を弟子が受けることができた瞬間、そういった顕われ方をするのです。

これはちょっと不思議な体験で、理解してもらうのは限界があると思います。

大事なのは、「目の前の師匠を盲目的に崇拝する」ということではないのです。系譜の先生たちから滔滔と流れる加持をきちんと汲み取るのは、かなり難しいことです。でも一瞬でもその流れが自分につながると、法脈の全体性として自分が組み込まれていきます。特定の先生が上とか、下とか、そういうことではなく、トータルとして把握がされるのです。流れる川は上流から下流まで1本であり、流れをブロックに分けてバラバラにできないのと同じです。

そして目の前の特定の先生に「服従」するというのは、その全体性から分離されてしまうことに他なりません。

さらには「この教えは正しく、あの教えは間違っている」「我々の宗派こそが正しく、他宗派は誤りである」といった思考も、同様です。そういう思考に陥るということは、発言者が法脈の全体性にまだ組み込まれていないのだと察します。諸仏・諸菩薩の加持がまだ流れていない、つまり「水道の開栓」がまだなのです。蛇口をひねっても、聖なるものは流れてはこない状態です。

修行という「開栓作業」つまりお釈迦様から連なる全体性につながる作業は容易ではないし、一瞬だけ開栓しても、またすぐ詰まります。「掃除」には膨大な時間がかかる場合だってあります。それでも水が流れつづける状態になれば、自分の中に少しずつ「安心感」が訪れるのです。さらに流れが強くなると、智慧や慈悲といったものが無尽蔵に流れ、周囲へ恩恵を与え続ける存在になるでしょう。

チベットでは、文字もろくに読み書きできない行者さんが、激しい修行の末に、博識な学僧ですら議論で太刀打ちできないような経典の知識を身に付けたという話がよくあります。医学・薬学の知識がまったくない行者さんが、修行の末に、医者も顔負けの膨大な知識を手に入れてしまったという話も聞きます。
(もちろん彼は、明かりもない独房で必死に経典を暗記していたわけではありません!)

ツォク供養は、加持を実際に下ろす作業です。私ごときでは非力かもしれませんが、しかし法脈に対しては、揺るぎない絶対の安心感があります。これだけは断言できます。

そしてご縁ある方々に少しでもその加持を届けるのが、私の役割です。

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巻頭写真および本文中の写真:
ナムドゥルリン寺(南インド、カルナータカ州)での日常風景。
撮影:気吹乃宮。


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気吹乃宮(いぶきのみや)
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