過去世の、誓い【入菩薩行論】
仏教における罪にはさまざまな種類があります。それら1つ1つを思い出しては懺悔していくのが、罪の浄化になるのですが、今からお話する類の罪は「前世を思い出さないこと」からくる、ちょっと変わったタイプのものです。
私たちは仏教徒となる際には、帰依戒を師からいただいて、いくつかの誓いを立てることではじめて仏教の門をくぐります。これは大乗仏教も小乗(上座部)仏教も共通です。
そうして福徳を積んで罪業を浄化していくと、殊勝な縁によって、菩薩の誓いを立てたり、あるいは密教の誓いを立てるような機会が訪れます。
「福徳を積み、罪をなさない」のが仏教の基本的なスタンスですが、修行をする動機が自分1人の幸福のためでなく、周りの人への気遣いと慈しみに代わったならば、それは「利他行」(他のための行為)へと変貌します。それは位相(フェーズ)の変化であり、心の相転移だと思うのです。そうなると、大乗の道を歩む決意が芽生えてきます。
とはいえ初めは、願望としての菩薩の決意です。「そうなったらいいな」という願望にすぎませんが、この願望こそ大切です。菩薩のありかたを羨望として抱けるのが、先ほど述べた心の相転移だからです。これがいわゆる「世俗の菩提心」になります。
この祈願の詩句の最初でシャーンティデーヴァ(寂天)先生は、せっかく人間として生まれてきているのに、仏法を理解することにそのメリットを使おうとしない者に対して、<どうか仏・法・僧に対する確固たる信が芽生えますように>と、祈りを捧げます。
「無暇」(むか)とは、仏教に心を向けるだけの余裕(自由)が物理的・心理的にない状態のことです。このnoteをご覧の皆さんはすでに、無暇から解放されているといえます。
言語を理解でき、しゃべったり考えたりできるのが人類のメリットのはずですが、その知性を「ムダ遣い」している人間は、昔も今も変わらず存在します。その知性を少しでも仏教のほうに向けることができるように、という祈りなのです。
「愛」とあるのは、慈悲心のことです。殺生を好んだり、罪を好むような者に慈悲の心が起こりますように、という祈りです。
「(不浄な)食べ物」というのは実際の食物ではなく、五種類の顛倒した生活様式のことです。仏教語では「五邪命」と言って、ナーガールジュナ(龍樹)の『宝行王正論』(ラトナマーラー)にも説かれています。それは:
現代の私たちにとっては、すべて普段やっていることに見えます。しかし本来すべてアウトなんだということを、私たちは自覚する必要があります。
そして釈尊とその弟子たち、ナーガールジュナやアーリヤデーヴァといった先生方は、これらの顛倒した振る舞いを離れてきたわけです。
さて、本題の第27頌最後の部分ですが、
と、いきなりハードルが高くなった気がします。
しかし「前世を覚えていますように」という祈願は、菩薩の誓いを立てた者が菩提心を忘れないためにも、また業の因果に対して強い信心を深めるためにも、極めて重要な意味合いがあります。
なぜなら菩薩の誓いは、ブッダガヤ(釈尊が成道されたインドの聖地)で自らが菩提に至るまで、輪廻を超えて継続されます。もし前世で自分が菩薩の誓いを立てていたのに、この世に生まれて数十年間も仏教と無縁の生活をしていたら、その間は菩提心を忘れていることになりますから、大きな罪になってしまいます。菩薩の誓いを忘却しているブランクは短いほど、いいわけです。
有徳の人ならお寺の子息として生まれたり、仏教と縁のあるご家庭に生を受けたりすることで、比較的早く菩提心を復活させることができるでしょう。また生まれつき優しい心を有していたり、修行に進みやすい環境になることで、菩薩の誓いを復活させるのは速まるかもしれません。
さらに過去世を覚えていることで、業の因果がきちんと働いていることを確信します。「私の前世は竜神だった」「前世は卑弥呼だった」などという妄言は、誰に対しても利益がありません。
前世の記憶とは、修行者が菩薩の誓いを復活させるため、そして業の因果を確信して悪事を離れるためにあります。「善を積めば、必ずや善い結果となる」「不善をやっていたら、必ずその報いは受ける」と完全に信頼できるようになることは、仏教徒としての本懐だからです。
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「サマヤと、三昧耶戒」(一部有料)