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善光寺裏山の、宝篋印塔

長野駅は1888年、善光寺から十八丁(約2km)離れた場所に建設されました。

この「十八」という数字は、阿弥陀如来の「四十八願」の中の「至心信楽ししんしんぎょうの願」(生きとし生けるものが極楽浄土へ往生するよう願う)が第十八であることからきていて、こうして駅の位置が仏教の法数に基づいて策定された長野市にはすでに、阿弥陀如来の強い加持が働いているといえます。

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上の写真:善光寺本堂。
本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は決して公開されない「絶対秘仏」(日本人はこれ好きですね)。その秘仏の御本尊と結縁を果たすことができるとされる「戒壇巡り」は定番コース。
ちなみにタイ王室から贈られた仏舎利が「戒壇巡り」回廊入り口にあり、拝むことができます。
撮影:気吹乃宮(以下すべて)。

ところで善光寺の裏山には、かつてチベット仏教の偉大な先生方が建立した宝篋印塔ほうきょういんとうがあるという話を聞いていて、善光寺を訪れるたびにそちらへも拝みに行きたいと思っていました。

この塔は、多田等観先生(1890-1967)やケツン・サンポ・リンポチェ(1920-2009)という、私にとってもご縁のある先生方が1964年、世界平和を祈念して建立されたものです。
建立には地元の人や子供、多くの寄進者の助力があったと聞きます。

また2010年にはダライ・ラマ法王が善光寺を御訪問の折、この仏塔(宝篋印塔)にも赴かれ、加持を与えられています。

ご縁のある先生方とゆかりの深い仏塔が、聖地・長野にあるのですから、ぜひ行かなければと考えていました。

そして先週、暑さも和らいできた頃合いに、時間が取れたのでようやく探索が叶いました。今回は、そのときの記録です。
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場所について、入手できる情報はただ1つ「善光寺裏山の中腹」でした。情報ソースはあまり多くなく、おそらく元は1つか2つなのでしょう。

さらに調べていると、目的の仏塔が「霊山寺」にあるという情報を入手しました。霊山寺はたしかに「裏山」の中腹にあります。そこで霊山寺を目指して歩くことにしました。

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上の写真:
善光寺の敷地の裏を出ると、こんな風景が広がっている。この山の中腹に、西蔵宝篋印塔はある。まずは善光寺の裏を目指そう。

この「裏山」は、正式には地附山ぢづきやまと呼ぶそうです。ここら辺一体は、北参道箱清水といいます。

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山に向かって真っすぐ歩きます。
この日は前日の大雨から一変して、猛暑日となりました。

登り道をしばらく歩くと、活禅寺という修行道場が現われます(下の写真)。どなたでも参禅できるとのこと。

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活禅寺を素通りしてさらに上へ歩くと、分かれ道(下の写真)に着くので、ここを左に曲がります。つまり「青い銀河」というレストランを目指す形になります。

ちなみに右に曲がると、善光寺の納骨堂「雲上殿」に着きます。地附山は太古には古墳が作られていて、今も昔もここは墓地として都合がいいようです。

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猛暑の中、蚊やアブの攻撃を避けながら20分くらい坂道を登ると、公衆トイレがあります。そして麓から見えていた白く細長い仏塔(タイやスリランカ仏教のスタイルの)が姿を現わします。お寺の霊園が所有している、仏塔のようです(下の写真:右)。

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道をさらに上ると、右側に霊山寺(真言宗)の入り口が見えてきます(下の写真)。

しかしご注意ください! 目的の西蔵宝篋印塔は、霊山寺にはありません。霊山寺の方(おそらく住職さま)に話を聞いたところ「西蔵宝篋印塔は霊山寺の敷地ではない」とのことでした。
ネットに「霊山寺の敷地にある」という情報もあったのですが、それは誤りでした。

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上の写真のすぐ手前に、じつはもう1つ、右に曲がる坂道があります。
ここを右に曲がったところに、西蔵宝篋印塔はあります。
「花岡平霊園」という、木製の看板が立っています(下の写真)。ここを右に曲がればいいのです。

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この入り口の左側には、「西蔵宝篋印塔入口」と彫られた看板があります(下の写真)。ですが字が見づらいうえに、草木で隠れていて気付きませんでした。

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上り坂を少し登ると、赤い六角堂が見えてきます。
これが西蔵宝篋印塔の場所を、示しています。
西蔵宝篋印塔は、この六角堂のすぐ隣に建てられているためです。

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坂を上ってすぐ、左手に赤い六角堂が現われます(上の写真)。
ここを訪れたとき(2021年9月)は雑草だらけで、道がほとんどなくなっていました。


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六角堂の額には「萬国観音堂」とあります。
その下に書かれている英語は、「ヨハネの福音書」の一節(神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません)でしょうか。

六角堂のすぐ左に、目的の宝篋印塔はありました。
雑草の生い茂る中、ひっそりとたたずんでいました。

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日本仏教のスタイルの宝篋印塔に、日本語で銘が彫られています。
正面には「萬善同帰」(万善同帰)という、多田等観先生の揮毫がありました。

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まずは宝篋印塔に合掌し、舎利礼文。宝篋印陀羅尼。
続いて般若心経、釈迦牟尼仏や観世音菩薩などの諸仏御真言を唱えました。

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塔内にはチベット語版「般若心経」数巻と、チベット語版「文殊師利真実名義経」(マンジュシュリー・ナーマサンギーティ)、チベット語版「多羅菩薩二十一礼賛経」、チベット語版「多羅菩薩歎徳文」、チベット語版「観世音菩薩心陀羅尼」が納められているとあります。

どれも興味深い顔ぶれです。特に「ナーマサンギーティ」を納経されているところに、碩学としての先生方の「知」を感じてしまいます。平和祈念だけでない、日本に智慧が増大することも祈願されているのです(そして智慧の増大もすなわち平和へと結びつく)。

「観世音菩薩心陀羅尼」とは、六字真言のことでしょう。

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多田等観先生やケツン・リンポチェの御名前が刻まれています。昭和三十九年四月とあります。

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宝篋印塔の脇には、由緒がありました。

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塔にはルンタ(五色の絹布で経文が印刷されている)が掛けられています。

さらに塔の上には、白いカタ(チベットで伝統的な挨拶に用いる絹布)が結び付けられています。カタは、ダライ・ラマ法王がここを礼拝された際、加持を込めて結びつけられたものかもしれません。

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草木が生い茂る、善光寺裏山の宝篋印塔。
ひと気がなく、ここだけが別世界のようでした。
訪れたタイミングが悪かったのか、手入れされてないのが心痛くはありましたが。

興味ある人がもっと多く訪れることができれば、いいですね。

隣の六角堂(観音堂)も含め供養や法楽が頻繁にできるよう管理されることを期待したいです。

ここの維持と信奉を目的とした奉賛会があれば、ぜひ入りたい。

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地附山の中腹から見える、善光寺と長野市内の風景。



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気吹乃宮(いぶきのみや)
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