【エッセイ】昭和の子
「われは明治の兒ならずや。」
永井荷風の「震災」という有名な詩の一節です。
三ノ輪の浄閑寺というお寺でこの詩碑を見て初めて知りました。
この詩に倣えば、僕は昭和の子。
昭和三十六年生まれです。
昭和は戦前戦後で大きな断裂があるので、僕は「戦後」の子なのかな。とはいえ、同じ昭和ということで戦前とも「地続き感」があります。
子供時代、まだ白装束で軍帽を被った傷痍軍人が神社の祭りの場などでアコーディオンを弾きながら物乞いをしていました。後から調べてみると、偽物も居たようですので、本物かどうかはわかりません。片足が義足で松葉杖を突いていた人もいた記憶もあります。別々の場所で何人か見かけたので、特に珍しくない存在だったのでしょう。
叔父さんは海軍で特殊潜航艇(回天か?)の訓練を受けていたのが自慢でした。国鉄の職員を定年まで勤め上げた人で真面目な頑固者でしたが、明るい性格で軍隊時代の話をする時も意気軒昂でした。
敗戦直前の横須賀の基地には戦艦長門が係留されていて、空襲にやってきたグラマンを対空砲火で追い払っていた、と笑いながら昔語りをしていました。
小学校高学年だった僕は、その話を半信半疑で聞いていたのでした。なぜなら『零戦と戦艦大和』という子供向けの戦記本を愛読していて、そこで世界最大の戦艦大和が、致命傷は潜水艦からの魚雷だったとはいえ、最後の出撃で米軍機の襲来にほとんどなす術もなく撃沈されてしまったのを知っていたからです。長門が高射砲を撃った程度で米軍機が退散するはずがありません。
その頃は学校の図書室や、市の図書館の子ども向けのコーナーには必ず易しく書かれた戦争関連の本が置かれていました。空襲で逃げ惑った話、出征先で物量に勝る敵軍の猛攻と飢えや病気に苛まれた話。
結末が悲惨な敗戦だから景気のいい話はありません。たとえ超人的な撃墜王の話であっても、戦局が悪化するにつれ敵機の性能向上と味方機の品質低下に悩まされることになるのです。
ところが、最近そのような児童書が大きく減っています。近くの地域市立図書館の歴史コーナーでは、一冊も見かけませんでした。昭和は遠くなっていたのです。
それがいいとか悪いとかの問題ではなく、僕の年代の日本人が、大人たちから裸の皮膚をくっつけ合うような体感として伝えられた昭和の熱が、今や感じられない時代になったということです。
昭和生まれの僕たちにも、江戸時代の疫病や飢饉には生々しさを感じられないように、平成・令和に生きる若い人たちの感じる「戦争」がどこか絵空事っぽいのは仕方のないことかもしれません。しかし、天災と違って戦争が人の直接的な関与によってのみもたらされることを考えてみると、このことは大きな心配のタネです。
戦争の原因や正義のあり方については僕にはわかりません。わかっているのは戦争になれば普通の人たちが普通のまま、想像を絶する極限に追い込まれるということです。その追い込まれた人たちが、同じ昭和を生き、当時一緒に生活していた家族や大人たちだったのです。戦地で殺されそうになった人も、自分から語ることはなかったけれど人を殺させられた人も、同じ町の通りを歩いていました。
戦時が異世界の話ではなく、「普通のまま」地続きであるという感覚は、たとえ戦後生まれであっても、昭和世代の感覚です。
それを持つか持たざるかが平成、令和生まれの若者たちと僕のような昭和の人間の決定的な差です。
そういえば高度経済成長にも、戦争の闇に根を持つどこか荒んだ影がありました。
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