野蛮で遅れていたなんて実は嘘!縄文時代の進んだ文化
はじめに
縄文時代の再評価
縄文時代(約1万4千年前 - 紀元前300年)は長い間、「裸同然でマンモスを追いかけるだけの野蛮な時代」「いつもおなかを空かせていた」などと学校教育で教えられ、あなたもずっとそう信じてきたのではないだろうか。
しかし、最新の研究により、縄文時代は我々が思っていた以上にすすんでいて、豊かな文化と高度な技術を持ち合わせた文明であったことが明らかとなってきている。
この note では、これまでの常識を覆す縄文時代の真実について、ほんの一部ではあるがあなたに共有したいと思う。
一、 縄文人の生活
住居
縄文時代の人々は、地面を掘り下げて住居をつくり、その屋根は木材や草で覆っていた。
この様式の住居はあなたもよくご存じの通り、竪穴式住居という。
この竪穴式住居の内部はというと、生活の中心として火を使うための炉が設けられており、食べものの煮炊きだけでなく、照明や暖房の役割も兼ね備えていたというから驚きだ。
集落
当時形成されていた集落の特徴も興味深い。
10畳ほどの広さの竪穴式住居には 3~5人が生活していたとされているが、ひと家族という単位ではなく、「男性の家」 「女性の家」 「若者の家」の3軒ひとまとまりで構成されていたそうだ。
ちなみに、しっかりとした大きめの住居には、5~6人の女性とこども。隣の住居には男性が2~3人。ひとまわり小さめの住居には独り立ちしていない若者が2~3人のあわせて10人前後がひと集落のイメージだ。
自然の有効利用と食生活
縄文時代の人々は、「マンモスを追いかける」 「木の実を採る」 などの狩猟・採集が主な生活手段だと教わったと思う。
しかし、あちらこちらで出土している貝塚などを見てもわるように、豊かな海洋資源も活用していたことがわかっている。
陸上で獲れる肉類の他、木の実、魚、貝、海藻などが豊富に並ぶ食卓。
これらの食材はどれも栄養価が高く、縄文時代の人々の健康を大いに支えていたことが理解できるだろう。
特に、栗やどんぐりなどの堅果類は、貯蔵が可能であり、大変重要な食糧源であった。
社会と文化
縄文時代の社会は、集落ごとに狩猟や採集、漁労を協力・分担し、共同で生活を営む形態が一般的で、比較的 平等であったと考えられる。
特定の権力者や階級も存在せず、また、対人用の武器が発見されていないことなどから、この時代が争いのない平和な時代であったこともうかがえるだろう。
この平和な社会は、縄文時代の人々が自然と調和して生活していたこと、そして共同体の中で互いに協力し合う文化が根付いていたことをよく表している。
そんな平和で穏やかな時代を生きた縄文時代の人々のDNAは、日本人特有の温和な性質として、今も受け継がれているのではないだろうか。
二、技術力と工芸品が伝える文明のしるし
縄文土器の特徴
縄目の文様が特徴の縄文土器は、単なる容器としてだけでなく、芸術的視点からも評価されている。
特に中期の火焔土器は、燃え上がる炎をかたどったかのような形状をしており、その美しさと複雑なデザインが魅力的だ。
縄文土器の用途
ススやおこげなどの痕跡が残っていることから、食べものの煮炊きが大きな役割を果たしていたようだ。
その他、煮沸・盛り付け・貯蔵・埋蔵・祭祀などのさまざまな用途で使用されていたこともわかっている。
勾玉
勾玉は、イノシシやオオカミなどの動物の歯牙の根元に穴をあけて飾りとして使用したのが始まりといわれている。
その後、翡翠を用いて作られるようになったのだが、翡翠は非常に硬い宝石である。
湾曲させた形に整えることも、ひび割れなども起こさず穴を貫通させることも容易ではなかったはずだ。
にもかかわらず、現代のように便利な機械もなければ工具すらろくにない時代に、形の整った勾玉がいくつもつくられていたということは、すでに高度な研磨技術が存在していたことがおわかりいただけるだろう。
衣服
縄文時代の人々は、動物の皮や魚の皮のほか、植物の繊維からとった糸で編んだ布製の服を着ていたとされている。
石川県の米泉遺跡からは漆を絞るために使ったと思われる編布が見つかっていることから、糸で布を編む技術をすでに持っていたことがうかがい知れる。
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