20241130 市ヶ谷探訪③夜になると鯉は
直後、気が付くと、私は、鯉になっていた。
一時間前に下ってきた坂を登る。登るというより泳ぐ。何かを跨ぐからか、泳ぐことに慣れていないからか、時間がかかる。夢の中で走るときのように身体が重い。
ここでは熱帯魚も販売しているようだ。帰り際にその看板を見て、昔熱帯魚を飼っていたことを思い出した。熱帯魚たちはどうして死んでしまったんだっけ。魚が魚のことを思い出してもどうしようもない。
周囲は完全に夜だ。鯉になった僕は、夕方に比べて人気が無くなった街を漂う。
駅周辺のチェーン居酒屋やバーガーショップ、法政大学のキャンパスといった人目のある場所には近寄らないように注意をする。
ついさっきまで人間だったのに、捕まえられて鯉刺しにされては、たまったものではない。どうせはらわたから泥が抜けていないから食えやしないだろうが。
人目をただ避け、逃げるように鰭をただ進める。
気が付くと、60年代の余裕を感じる集合住宅のあたりまでやってきていた。朝になったら、きっと人間に戻れる。そう漠然と感じるとともに、身を隠すにはこの建物がよさそうだと直感する。
慣れない泳ぎのせいでひどく疲れていて、それに、時間がずいぶん経ったようだ。夜明けもそう遠くない。一番人気のない屋上を目指すことにした。
修学旅行生が夜中に部屋間を移動するときのように、音を殺して、息をひそめて、フロアを移動する。エレベーターになんとか飛び乗るが、鰭では、屋上行きのボタンがうまく押せない。
階段を使うことにした。身体が重い。最後のひと踏ん張りだ。
緑の非常口を示すランプのぼやっとした光が、小さくて真円の目に入った。無事たどり着いたようだ。
依然音を殺したまま、屋上を忍び泳ぐ。
時々、エレベーターの作動音が聞こえる。鯉というのは思ったより耳が良いようだ。怯えて、思わず声が出そうになる。息切れした、大きなパクパクしている口元を鰭で抑える。
眼下では懐中電灯を持った警備員が僕を探している。
今晩は雲一つないので、上空ではスカイツリーの大きな目が街全体に目を光らせている。
街の人々はみんなして瞳孔をカッと開けっぱなしにしている。僕のことを探しているのだ。夜明けも近い時分だというのに、たかだか鯉1匹が逃げ出しただけで大慌てだ。網や棍棒、さすまたを持って、眠らずに私を待ちうけている。
油断して身体を動かしてしまった。それに伴って、水のはね音が聞こえたようで、遠くから僕を呼ぶ声が聞こえる。
息を潜めて、ただ時間が経つことを祈る。
祈りが通じたのか、やがて空が少しずつだが明るくなってきた。
朝だ。朝がやってきたのだ。長い夜だった。ただそれは、僕やこの街の人々にとっての話であり、その他大勢にとっては、またいつもと何も変わらない、つまらない朝がやってくるのだ。
人もまばらな早朝、日高屋とは違って、地に足のついたルノアールに恐る恐る入ってみた。身体を休めたかった。静かに珈琲が飲みたかった。
店内に他の客はいない。開店直後のようだ。席を案内されたので、席に着いたあと、自分が鯉に見えるかどうか思い切って聞いてみた。
あまり関わらない方がいいと判断されたようだ。可愛らしい顔と制服の店員さんの苦笑いと視線が痛い。ああ、いつもの光景だ。人間の姿に戻ったんだ。
家への帰り道、多摩川のほとりで今日と地続きの昨日のことを順々に思い出してみた。
記憶は曖昧だったが、なんとなく、神田川より多摩川の方が好きだと感じた。それだけだった。